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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第十九章:帰還の道

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第198話 川辺の朝食

 翌朝の陽射しは、前日よりもわずかに柔らかかった。

 アッシュは昨日の長い枝に体を預け、ゆっくり立ち上がる。左脚はまだ腫れぼったいが、固定のおかげでどうにか体重を支えられる。数歩試して歩けることを確かめると、振り返ってエルセリアに言った。

「急ぐな。地面が濡れてる」


 彼女は頷き、自然に彼の腕を支える。

 今回は彼も拒まず、重心だけ少し調整した。


 洞穴から小さな林を抜けると、すぐ先に渓がある。

 ここは峡道よりも渓幅が広く、水の流れも緩やかだった。雪解け水で水位は上がっているが、傾斜が緩いため穏やかに見える。陽光が水面で砕け、渓底の石や砂がところどころ透けて見えた。


「こんなに澄んでるんですね」

 エルセリアはしゃがみ込み、水に映る自分の影を覗き込む。


「深く入るな。滑る」

 アッシュはゆっくり腰を落とした。


 左脚の鈍い痛みを抑えながら姿勢を整え、すでに水中の影へ視線を向けている。

 流れに逆らって泳ぐ魚が数匹。大きくはないが、二人分の腹は満たせる。


 エルセリアが気づく。

「何を見ているんですか?」


「朝飯だ」


 彼女は一瞬きょとんとし、それから笑った。

「本当に捕まえられるんですか?」


 アッシュは答えず、剣を外して袖をまくり、浅瀬に足を踏み入れる。水は刺すように冷たく、残っていた微熱が一気に引いた。

「そこで動くな」


 エルセリアはすぐ従い、裙を押さえて静かに立つ。水面を乱さないようにしているのが分かる。

 アッシュは突かない。

 魚が近づくのを待ち、瞬間、剣の腹で水面を叩いた。狙いは正確で、魚が一瞬浮き上がる。そのまま素早く掴み、岸へ放り投げる。

 二匹目のとき、わずかに遅れた。左脚が一瞬抜け、水が跳ねる。彼は眉を寄せたが退かなかった。

 三匹目を捕まえたところで、ようやく剣を引く。


 濡れた刃を見て、小さく息をついた。

「魚叩きに使う剣じゃないな」


 エルセリアは声を立てて笑う。

「きっと許してくれます」


「喋らない」


「でも私が言います」

 屈託のない笑顔だった。


 岸に戻ると、アッシュは手際よく魚を処理する。小刀で腹を裂き、鱗を落とし、不要な部分は土に埋める。簡単な焚き火を組み、火を起こすと煙がゆっくり立ち上った。

 やがて魚の身が白くなり、脂が石に落ちて細かく弾ける。火の光が剣の表面にちらちらと反射した。


 エルセリアは頬杖をついて見入っている。

「お姉さまから聞きました。あなた、前もこうやって渓辺で魚を焼いてあげたって」


 アッシュの手がわずかに止まる。

「そんなことまで?」


「火が弱いって、ずっと眉をひそめてたって」

 彼女はわざと真似して、真面目な顔を作る。

「得意だって言うわりに、ずっと不機嫌そうだったって」


 アッシュは否定しなかった。ただ口元がほんの少し緩む。何かを思い出しながら、それを隠すように。

 ――あのとき、もう見抜かれていたのか。


 エルセリアはその変化を見逃さない。だが触れず、ただ穏やかに彼を見ていた。

 焼き上がった魚を一つ差し出す。


「熱いぞ」


 彼女は受け取り、息を吹きかけてから一口かじる。身は柔らかく、炭の香りと野の匂いが混ざっている。

 丁寧に、ゆっくり食べる。

 その満足は、身分とは無関係だった。どこにでもいる少女のような、素直な表情。


 アッシュは木に背を預け、それを見ていた。

 枝葉の隙間から差す光、遠くの水音、足元で揺れる火。

 一瞬だけ――このまま続くのではないかと思う。


 儀式も、王国も教国も、竜もない。

 ただ山と火と、隣にいる人間だけの時間。

 その考えはすぐに消える。

 それは――本来、別の誰かに向けられるべきものだと分かっているからだ。

 それ以上は考えなかった。


 火が風に揺れる。

 やがて魚を食べ終える頃には、火は赤い熾に変わっていた。


 エルセリアは最後の一口を指でつまみ、油に指先を汚しながらも、姿勢は自然と整っている。裙もきちんと揃え、まるで食卓にいるかのようだった。

 骨をそっと脇に置き、顔を上げる。

 その目は、贈り物をもらった子どものようだった。

「こんなふうに食べたの、初めてです」


「野宿も」

 不満はない。ただ純粋な驚きだけ。

「神殿の夜は静かです。でも、こんな匂いはしません。煙も、葉の音も……それに」

 少し間を置いて、

「あなたも」


 アッシュは応じない。


 エルセリアは自分でも言い過ぎたと思ったのか、すぐに笑った。

「全部、新鮮で……風も、水も、火も。それに怪我も」

 首をかしげながら言う。

「これも、神様の導きかもしれません」

 声は静かだった。


「あなたと、本当に一緒にいられるようにって祈ったことがあるんです。儀式でも、政治でも、象徴でもなく……ただ二人で」

 火の光が瞳に宿る。

「きっと、聞き届けてくださったんですね」


 アッシュはしばらく黙っていた。

 彼女がそういうふうに世界を捉えるのは、もう分かっている。すべてに意味があり、願いには応えがある。

 怒りはしない。

 ただ、淡々と言う。

「続かない」


 エルセリアの睫毛が揺れる。


「俺たちは戻る。王国も、教国も消えない」

 それ以上は言わない。

 言わなくても分かるはずだった。


 彼女は視線を落とし、小さく息を吸う。

「……ごめんなさい」

 言い訳はない。

「少し、浮かれていました」


 顔を上げると、やはり穏やかなままだった。

「もう一度、治療させてください。少しは楽になると思います」


 アッシュはすぐには拒まない。

 予想していた言葉だった。


「いい」

 短く頷く。

「ただし、使いすぎるな」


 彼女は少し驚く。


「ここは神殿じゃない。いつ見つかるか分からない」


 エルセリアは彼を見て、静かに頷いた。

「わかりました」

 彼女は手を彼の脚に当てる。淡い光がゆっくり広がる。昨夜より安定しているが、明らかに抑えられていた。

 温もりが骨まで染み込み、痛みが一段階だけ和らぐ。

 完全には消えない。


 手を離したとき、彼女の顔色はわずかに白くなっていた。

 アッシュはそれを見て、

「助かった」

 とだけ言う。


 エルセリアは微笑んだ。

「うん」


 風が林を抜け、落葉を揺らす。

 二人は火のそばに座ったまま、もうその話題には触れなかった。

 だがあの言葉だけは、静かにそこに残っていた。


 ——続かない。

 その冷たい現実は、暖かい火のそばで、より一層はっきりと形を成していた。

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