第198話 川辺の朝食
翌朝の陽射しは、前日よりもわずかに柔らかかった。
アッシュは昨日の長い枝に体を預け、ゆっくり立ち上がる。左脚はまだ腫れぼったいが、固定のおかげでどうにか体重を支えられる。数歩試して歩けることを確かめると、振り返ってエルセリアに言った。
「急ぐな。地面が濡れてる」
彼女は頷き、自然に彼の腕を支える。
今回は彼も拒まず、重心だけ少し調整した。
洞穴から小さな林を抜けると、すぐ先に渓がある。
ここは峡道よりも渓幅が広く、水の流れも緩やかだった。雪解け水で水位は上がっているが、傾斜が緩いため穏やかに見える。陽光が水面で砕け、渓底の石や砂がところどころ透けて見えた。
「こんなに澄んでるんですね」
エルセリアはしゃがみ込み、水に映る自分の影を覗き込む。
「深く入るな。滑る」
アッシュはゆっくり腰を落とした。
左脚の鈍い痛みを抑えながら姿勢を整え、すでに水中の影へ視線を向けている。
流れに逆らって泳ぐ魚が数匹。大きくはないが、二人分の腹は満たせる。
エルセリアが気づく。
「何を見ているんですか?」
「朝飯だ」
彼女は一瞬きょとんとし、それから笑った。
「本当に捕まえられるんですか?」
アッシュは答えず、剣を外して袖をまくり、浅瀬に足を踏み入れる。水は刺すように冷たく、残っていた微熱が一気に引いた。
「そこで動くな」
エルセリアはすぐ従い、裙を押さえて静かに立つ。水面を乱さないようにしているのが分かる。
アッシュは突かない。
魚が近づくのを待ち、瞬間、剣の腹で水面を叩いた。狙いは正確で、魚が一瞬浮き上がる。そのまま素早く掴み、岸へ放り投げる。
二匹目のとき、わずかに遅れた。左脚が一瞬抜け、水が跳ねる。彼は眉を寄せたが退かなかった。
三匹目を捕まえたところで、ようやく剣を引く。
濡れた刃を見て、小さく息をついた。
「魚叩きに使う剣じゃないな」
エルセリアは声を立てて笑う。
「きっと許してくれます」
「喋らない」
「でも私が言います」
屈託のない笑顔だった。
岸に戻ると、アッシュは手際よく魚を処理する。小刀で腹を裂き、鱗を落とし、不要な部分は土に埋める。簡単な焚き火を組み、火を起こすと煙がゆっくり立ち上った。
やがて魚の身が白くなり、脂が石に落ちて細かく弾ける。火の光が剣の表面にちらちらと反射した。
エルセリアは頬杖をついて見入っている。
「お姉さまから聞きました。あなた、前もこうやって渓辺で魚を焼いてあげたって」
アッシュの手がわずかに止まる。
「そんなことまで?」
「火が弱いって、ずっと眉をひそめてたって」
彼女はわざと真似して、真面目な顔を作る。
「得意だって言うわりに、ずっと不機嫌そうだったって」
アッシュは否定しなかった。ただ口元がほんの少し緩む。何かを思い出しながら、それを隠すように。
――あのとき、もう見抜かれていたのか。
エルセリアはその変化を見逃さない。だが触れず、ただ穏やかに彼を見ていた。
焼き上がった魚を一つ差し出す。
「熱いぞ」
彼女は受け取り、息を吹きかけてから一口かじる。身は柔らかく、炭の香りと野の匂いが混ざっている。
丁寧に、ゆっくり食べる。
その満足は、身分とは無関係だった。どこにでもいる少女のような、素直な表情。
アッシュは木に背を預け、それを見ていた。
枝葉の隙間から差す光、遠くの水音、足元で揺れる火。
一瞬だけ――このまま続くのではないかと思う。
儀式も、王国も教国も、竜もない。
ただ山と火と、隣にいる人間だけの時間。
その考えはすぐに消える。
それは――本来、別の誰かに向けられるべきものだと分かっているからだ。
それ以上は考えなかった。
火が風に揺れる。
やがて魚を食べ終える頃には、火は赤い熾に変わっていた。
エルセリアは最後の一口を指でつまみ、油に指先を汚しながらも、姿勢は自然と整っている。裙もきちんと揃え、まるで食卓にいるかのようだった。
骨をそっと脇に置き、顔を上げる。
その目は、贈り物をもらった子どものようだった。
「こんなふうに食べたの、初めてです」
「野宿も」
不満はない。ただ純粋な驚きだけ。
「神殿の夜は静かです。でも、こんな匂いはしません。煙も、葉の音も……それに」
少し間を置いて、
「あなたも」
アッシュは応じない。
エルセリアは自分でも言い過ぎたと思ったのか、すぐに笑った。
「全部、新鮮で……風も、水も、火も。それに怪我も」
首をかしげながら言う。
「これも、神様の導きかもしれません」
声は静かだった。
「あなたと、本当に一緒にいられるようにって祈ったことがあるんです。儀式でも、政治でも、象徴でもなく……ただ二人で」
火の光が瞳に宿る。
「きっと、聞き届けてくださったんですね」
アッシュはしばらく黙っていた。
彼女がそういうふうに世界を捉えるのは、もう分かっている。すべてに意味があり、願いには応えがある。
怒りはしない。
ただ、淡々と言う。
「続かない」
エルセリアの睫毛が揺れる。
「俺たちは戻る。王国も、教国も消えない」
それ以上は言わない。
言わなくても分かるはずだった。
彼女は視線を落とし、小さく息を吸う。
「……ごめんなさい」
言い訳はない。
「少し、浮かれていました」
顔を上げると、やはり穏やかなままだった。
「もう一度、治療させてください。少しは楽になると思います」
アッシュはすぐには拒まない。
予想していた言葉だった。
「いい」
短く頷く。
「ただし、使いすぎるな」
彼女は少し驚く。
「ここは神殿じゃない。いつ見つかるか分からない」
エルセリアは彼を見て、静かに頷いた。
「わかりました」
彼女は手を彼の脚に当てる。淡い光がゆっくり広がる。昨夜より安定しているが、明らかに抑えられていた。
温もりが骨まで染み込み、痛みが一段階だけ和らぐ。
完全には消えない。
手を離したとき、彼女の顔色はわずかに白くなっていた。
アッシュはそれを見て、
「助かった」
とだけ言う。
エルセリアは微笑んだ。
「うん」
風が林を抜け、落葉を揺らす。
二人は火のそばに座ったまま、もうその話題には触れなかった。
だがあの言葉だけは、静かにそこに残っていた。
——続かない。
その冷たい現実は、暖かい火のそばで、より一層はっきりと形を成していた。




