第197話 熱と静寂
夜の洞穴は、思っていたより冷え込んだ。
焚き火は勢いが弱く、まだ湿り気の残る薪がくすぶり、煙にはほのかな苦い匂いが混じっている。
アッシュは岩壁にもたれて座っていた。最初のうちはまだ普通に話していたが、時間が経つにつれ声は次第に低くなり、代わりに額の熱がゆっくりと上がっていった。
エルセリアが異変に気づいた頃には、彼はもう熱を出していた。
彼女は手のひらを額に当てる。指先に伝わるのは焼けつくような熱で、昼間の渓水の冷たさとあまりにも対照的だった。
慌てる様子はない。
ただ静かに彼の襟をゆるめ、傷口を確かめ、呼吸を整えるための祈りを低く唱える。
治癒魔法は外傷には効果があるが、発熱にはせいぜい緩和程度しかできない。すぐに治るものではない。
アッシュは半ば夢の中のような状態で言葉をこぼしていた。
最初は何を言っているのか聞き取れない。
やがて、名前が混じるようになる。
「……リメア」
水底から浮かび上がるような低い声だった。
それが彼の竜の名だと、エルセリアは知っている。
少しして、もう一つの名が続いた。
「……リゼ」
エルセリアの手が、ほんの一瞬止まった。
焚き火の光が瞳の奥で揺れる。彼女はすぐには何も言わず、ただ静かに彼を見つめていた。
二つの名前はあまりにも自然に、呼吸のように口から出てきた。迷いも、ためらいもない。
その響きには、彼女が入り込む余地がなかった。
やがて彼女はそっと身を屈め、静かに呼びかける。
「ノアディス」
彼の睫毛がわずかに震えた。
ゆっくり目が開く。だが焦点は合っていない。焚き火の光が瞳に映り込み、彼は彼女を見ているようで、その向こうの誰かを見ているようでもあった。
「……無事か」
彼は言った。
そこには、安堵の重さがあった。
だがそれは、彼女へ向けた言葉ではない。
エルセリアには分かる。
問いただすことも、距離を取ることもせず、彼女は少しだけ近づいた。
「私はここにいます」
とても静かな声だった。
彼が聞いたのかどうかは分からない。
視線は一瞬止まり、すぐに沈んでいく。呼吸は再び重くなり、まぶたが閉じた。
焚き火の中で、薪が小さく弾けた。
エルセリアは元の場所に座り直す。両手を膝に置き、しばらく彼の顔を見つめていた。
こんな場所でも、たとえ彼と二人きりになっても、彼の心の順番は変わらないのだと、ふと気づく。
それでも彼女は、傷ついた顔を見せなかった。
ただ静かだった。
夜の風が洞穴を通り抜ける。
やがて彼女は、小さく呟いた。
「……無事でよかった」
それはまるで、自分自身に言い聞かせるような言葉だった。
焚き火の光が瞳に揺れる。
そこに怒りも嫉妬もない。ただ、底の見えないほど深い、諦めに似た静けさだけがあった。
火はゆっくりと消えていった。
夜が明ける頃、アッシュの呼吸はようやく落ち着いていた。熱も少し下がっている。だが体は空になったように重かった。
目を開けると、洞窟の天井の岩の模様がまだぼやけて見える。耳に最初に届いたのは、林の冬鳥の短い鳴き声だった。冷たく澄んだ、規則的な音。
夢ではない。
昨夜の出来事がゆっくり繋がる。
雪崩、滑落、水の音、衝撃。
左脚の鈍い痛みが、それを現実だと告げていた。
少し動かしてみる。痛みはあるが耐えられる範囲だ。額の奥にはまだ鈍い重さが残っているが、深くは考えなかった。
「起きたんですね?」
エルセリアは洞穴の外でしゃがんでいたらしく、音に気づいてすぐ振り向いた。朝の光が肩に落ち、彼女の姿を林よりも明るく見せている。
彼女は近づき、彼の隣に膝をついた。
指先をそっと額に当てる。
ひんやりと冷たい。
アッシュは少し眉を寄せたが、避けなかった。
「まだ少し熱があります。でも、だいぶ良くなりました」
彼は地面に手をついて体を起こし、洞穴の中を見回す。昨夜の火は灰になり、剣は岩壁に立てかけられ、小刀は布の上に整えて置かれていた。彼女の方が早く起きていたらしい。
「ラッセルたちは……」
言葉は途中で止まる。
エルセリアは落ち着いた顔で言った。
「大丈夫です。神様が守ってくださいます」
疑いの余地がないような口調だった。
アッシュはうなずく。
信じていないわけではない。ただ彼はいつも、自分で状況を計算する癖がある。雪崩の範囲は限られているが、融雪は痕跡を消す。彼らが流された距離も短くない。生存者がいても、すぐ見つけられるとは限らない。
視線を落とし、固定した左脚を見る。
どこまで持つか分からない。
ここで待つ方が安全かもしれない。だが上流へ戻るには脚が持たないかもしれない。魔獣に出会えば、今の彼ではまともに戦えない。
そうした考えは口に出さなかった。
エルセリアは膝を抱えて彼の向かいに座り、洞穴の外の木影を眺めている。朝風が枝葉を揺らし、光がまだらに地面へ落ちていた。
「あとで渓へ行って、少し洗ってきたいんです」
彼女がふいに言う。
「昨日の実も、もう少し探してみます。食べられそうなものがあるかも」
まるで普通の朝の話のように、気軽な声だった。
アッシュは彼女を見る。
エルセリアは少し笑った。
「なんだか……遊びに来ているみたいですね。私たち二人だけで」
計算も作為もない、ただ心に浮かんだままの言葉だった。
アッシュはしばらく黙る。
昨夜、彼女が枝の山の前で火を起こそうとしていた姿を思い出す。指先が灰だらけでも、諦めずに続けていた。
「遊びじゃない」
彼は静かに言った。
責める声でも、突き放す声でもない。
ただ事実を告げるだけの声だった。
エルセリアは少し驚いたが、傷ついた顔は見せない。洞穴の外を見つめたまま、しばらくして口を開く。
「でも……」
そしてようやく本音を言った。
「もし時間がここで止まったら……悪くないと思いませんか?」
「教国も、王国も、竜も、聖女もない。私とあなた、二人だけ」
風が林を通り抜ける。鳥の声が一瞬止まった。
アッシュはすぐには答えない。
彼女が何を望んでいるのかは分かる。
だが、その方向へ進むことはできない。
この山林の静けさは、ほとんど優しい。
だがその優しさは、彼の答えではない。
彼は視線を落とし、脚の固定をもう一度確かめた。
そこには、戻すべき世界がある。
彼が守るべき者が、待っている場所がある。
それは――
彼の望む世界ではなかった。




