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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第十九章:帰還の道

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第197話 熱と静寂

 夜の洞穴は、思っていたより冷え込んだ。

 焚き火は勢いが弱く、まだ湿り気の残る薪がくすぶり、煙にはほのかな苦い匂いが混じっている。


 アッシュは岩壁にもたれて座っていた。最初のうちはまだ普通に話していたが、時間が経つにつれ声は次第に低くなり、代わりに額の熱がゆっくりと上がっていった。


 エルセリアが異変に気づいた頃には、彼はもう熱を出していた。

 彼女は手のひらを額に当てる。指先に伝わるのは焼けつくような熱で、昼間の渓水の冷たさとあまりにも対照的だった。


 慌てる様子はない。

 ただ静かに彼の襟をゆるめ、傷口を確かめ、呼吸を整えるための祈りを低く唱える。

 治癒魔法は外傷には効果があるが、発熱にはせいぜい緩和程度しかできない。すぐに治るものではない。


 アッシュは半ば夢の中のような状態で言葉をこぼしていた。

 最初は何を言っているのか聞き取れない。

 やがて、名前が混じるようになる。


「……リメア」

 水底から浮かび上がるような低い声だった。

 それが彼の竜の名だと、エルセリアは知っている。


 少しして、もう一つの名が続いた。

「……リゼ」


 エルセリアの手が、ほんの一瞬止まった。

 焚き火の光が瞳の奥で揺れる。彼女はすぐには何も言わず、ただ静かに彼を見つめていた。


 二つの名前はあまりにも自然に、呼吸のように口から出てきた。迷いも、ためらいもない。

 その響きには、彼女が入り込む余地がなかった。

 やがて彼女はそっと身を屈め、静かに呼びかける。


「ノアディス」


 彼の睫毛がわずかに震えた。

 ゆっくり目が開く。だが焦点は合っていない。焚き火の光が瞳に映り込み、彼は彼女を見ているようで、その向こうの誰かを見ているようでもあった。


「……無事か」

 彼は言った。


 そこには、安堵の重さがあった。

 だがそれは、彼女へ向けた言葉ではない。

 エルセリアには分かる。


 問いただすことも、距離を取ることもせず、彼女は少しだけ近づいた。

「私はここにいます」

 とても静かな声だった。


 彼が聞いたのかどうかは分からない。

 視線は一瞬止まり、すぐに沈んでいく。呼吸は再び重くなり、まぶたが閉じた。

 焚き火の中で、薪が小さく弾けた。


 エルセリアは元の場所に座り直す。両手を膝に置き、しばらく彼の顔を見つめていた。

 こんな場所でも、たとえ彼と二人きりになっても、彼の心の順番は変わらないのだと、ふと気づく。

 それでも彼女は、傷ついた顔を見せなかった。

 ただ静かだった。


 夜の風が洞穴を通り抜ける。

 やがて彼女は、小さく呟いた。

「……無事でよかった」

 それはまるで、自分自身に言い聞かせるような言葉だった。


 焚き火の光が瞳に揺れる。

 そこに怒りも嫉妬もない。ただ、底の見えないほど深い、諦めに似た静けさだけがあった。


 火はゆっくりと消えていった。

 夜が明ける頃、アッシュの呼吸はようやく落ち着いていた。熱も少し下がっている。だが体は空になったように重かった。


 目を開けると、洞窟の天井の岩の模様がまだぼやけて見える。耳に最初に届いたのは、林の冬鳥の短い鳴き声だった。冷たく澄んだ、規則的な音。


 夢ではない。

 昨夜の出来事がゆっくり繋がる。

 雪崩、滑落、水の音、衝撃。

 左脚の鈍い痛みが、それを現実だと告げていた。

少し動かしてみる。痛みはあるが耐えられる範囲だ。額の奥にはまだ鈍い重さが残っているが、深くは考えなかった。


「起きたんですね?」

 エルセリアは洞穴の外でしゃがんでいたらしく、音に気づいてすぐ振り向いた。朝の光が肩に落ち、彼女の姿を林よりも明るく見せている。


 彼女は近づき、彼の隣に膝をついた。

 指先をそっと額に当てる。

 ひんやりと冷たい。

 アッシュは少し眉を寄せたが、避けなかった。


「まだ少し熱があります。でも、だいぶ良くなりました」


 彼は地面に手をついて体を起こし、洞穴の中を見回す。昨夜の火は灰になり、剣は岩壁に立てかけられ、小刀は布の上に整えて置かれていた。彼女の方が早く起きていたらしい。

「ラッセルたちは……」

 言葉は途中で止まる。


 エルセリアは落ち着いた顔で言った。

「大丈夫です。神様が守ってくださいます」

 疑いの余地がないような口調だった。


 アッシュはうなずく。

 信じていないわけではない。ただ彼はいつも、自分で状況を計算する癖がある。雪崩の範囲は限られているが、融雪は痕跡を消す。彼らが流された距離も短くない。生存者がいても、すぐ見つけられるとは限らない。


 視線を落とし、固定した左脚を見る。

 どこまで持つか分からない。

 ここで待つ方が安全かもしれない。だが上流へ戻るには脚が持たないかもしれない。魔獣に出会えば、今の彼ではまともに戦えない。

 そうした考えは口に出さなかった。


 エルセリアは膝を抱えて彼の向かいに座り、洞穴の外の木影を眺めている。朝風が枝葉を揺らし、光がまだらに地面へ落ちていた。


「あとで渓へ行って、少し洗ってきたいんです」

 彼女がふいに言う。

「昨日の実も、もう少し探してみます。食べられそうなものがあるかも」

 まるで普通の朝の話のように、気軽な声だった。


 アッシュは彼女を見る。

 エルセリアは少し笑った。


「なんだか……遊びに来ているみたいですね。私たち二人だけで」

 計算も作為もない、ただ心に浮かんだままの言葉だった。


 アッシュはしばらく黙る。

 昨夜、彼女が枝の山の前で火を起こそうとしていた姿を思い出す。指先が灰だらけでも、諦めずに続けていた。


「遊びじゃない」

 彼は静かに言った。

 責める声でも、突き放す声でもない。

 ただ事実を告げるだけの声だった。


 エルセリアは少し驚いたが、傷ついた顔は見せない。洞穴の外を見つめたまま、しばらくして口を開く。


「でも……」

 そしてようやく本音を言った。

「もし時間がここで止まったら……悪くないと思いませんか?」

「教国も、王国も、竜も、聖女もない。私とあなた、二人だけ」


 風が林を通り抜ける。鳥の声が一瞬止まった。

 アッシュはすぐには答えない。


 彼女が何を望んでいるのかは分かる。

 だが、その方向へ進むことはできない。

 この山林の静けさは、ほとんど優しい。

 だがその優しさは、彼の答えではない。


 彼は視線を落とし、脚の固定をもう一度確かめた。

 そこには、戻すべき世界がある。


 彼が守るべき者が、待っている場所がある。

 それは――

 彼の望む世界ではなかった。

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