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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第十九章:帰還の道

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第196話 火と洞穴

 アッシュは岩に手をついて体を起こし、深く息を吸った。

「まっすぐな木板を何枚か拾ってきてくれ」

 低くそう言うと、エルセリアは一瞬きょとんとしたが、すぐ意味を理解してうなずき、近くの壊れた木片の山へ駆けていった。

 やがて比較的平らな板を二枚選び、彼のもとへ持ってくる。


 アッシュは黙ったまま、それを足首の両側に当て、腰帯を外して固定し、裂いた布でしっかり巻いた。

 動きは無駄がなく、慣れている。


 エルセリアは横でしゃがみ込み、その様子を見守っていたが、眉の皺は消えない。

「それで……本当に大丈夫なんですか?」


「しばらくはな」

 アッシュは右足に体重を移し、ゆっくり左足を地面へ下ろす。

 痛みはまだあるが、さっきのような骨を削るような激痛ではない。


 近くの木から長めの枝を折り、余分な小枝を削り落とし、脇に当ててみる。

「……これでいける」

 まるでただ足をくじいただけのような落ち着いた口調だった。


 だがエルセリアは明らかに納得していない。

 手を差し伸べようとして、触れていいのか迷っている様子だった。


 アッシュは渓の方へ目を向ける。

「馬車の荷物がある」

 少し間を置く。

「ここにいろ。水に近づくな」


 エルセリアはすぐ首を振った。

「私も一緒に――」


「地面が滑る」

 彼は穏やかだがきっぱり遮る。

「一人の方が早い」


 彼女はそれ以上言い返さず、少し高い乾いた場所に立って彼を見守るしかなかった。


 渓のほとりには、流されて散った木枠や布が残っている。

 いくつかの箱はすでに割れ、衣服は水を吸い、食料もばらばらに散っていた。

 アッシュはしゃがみ込み、使えそうな物を探す。

 ほとんどが駄目だった。


 だが木片の間に、見慣れた柄を見つける。

 引き抜くと、長剣だった。

 鞘に収まったまま、水に洗われて鈍く光っている。近くには、小刀も木板の隙間に挟まっていた。


 剣を一度見下ろし、彼の口元がわずかに動く。

 ラッセルは逃亡を警戒していたはずだ。それでも剣は馬車に残していた。

 信頼ではない。

 ただの習慣だ。

「騎士は剣を手放さない」という、あの男の流儀が、皮肉にも自分を守ることになった。


 アッシュは小刀を腰に収め、比較的乾いた布をいくつか巻き取ってから、剣を引きずって平地へ戻る。

 エルセリアがすぐに駆け寄り、彼を支えた。

「何か見つかりましたか?」


「使えそうなのは……これくらいだ」

 荷を置き、アッシュは森の奥を見た。

 林はそれほど密ではないが、視界を隠すには十分だ。背後では渓の流れる音が絶えず続き、時間が止まらないことを思い出させる。


 彼はしばらく黙っていた。

 空を見上げ、渓の流れを確かめ、山の稜線へ視線を移す。太陽はすでに西へ傾いている。このまま川沿いにいれば、夜はかなり冷え込む。


「水辺から離れる」

 アッシュは言った。

 エルセリアは理由を聞かず、うなずく。

「夜を越せる場所を探す。暗くなる前に火も必要だ」


「わかりました」

 彼女は剣を抱えた。思っていたより重いが、文句は言わず両腕でしっかり支える。


 アッシュは小刀を腰に差し、枝を杖にして歩き出す。エルセリアは自然に彼の隣に並び、片手で腕を支えた。

 彼は「必要ない」と言いかけたが、結局言わなかった。




 二人は少し高い斜面をたどって森へ入る。地面はまだ固く、滑るほどではない。アッシュの歩みは遅いが安定している。幹の苔の向きや地形を見ながら、低地を避けて進んだ。

 エルセリアは黙ってついてくる。


 やがてしばらく歩くと、山の斜面が少し内側にえぐれ、岩壁の下に小さな洞穴が見えた。奥行きは浅いが風は避けられる。地面も乾いており、新しい獣の痕跡はない。


 アッシュは入口で耳を澄ませる。

 森には風の音しかない。

「ここでいい」


 エルセリアが先に入り、剣を岩壁に立てかける。振り返って彼を支え、洞内へ導いた。

 外より冷たいが乾いている。夜露も避けられる。


 アッシュは岩壁にもたれて座り込み、長く息を吐いた。

 洞口の光はすでに弱くなり始めている。

「火が必要だ」


「枝を拾ってきます」

 彼女はすぐ立ち上がる。


 アッシュは顔を上げた。

「遠くへ行くな」


 エルセリアは小さく笑った。

「近くで拾います」

 ただ彼のために何かをする――それだけの軽い声だった。


 彼女は洞口から出ていく。淡い色の裙が木陰で揺れ、やがて林の中でしゃがみ込み、乾いた枝を集め始めた。

 風が洞穴へ流れ込み、湿った土と木の匂いを運ぶ。

 渓の音は、さっきより遠くなっていた。

 森は静かで、呼吸の音まで聞こえそうだった。


 アッシュは固定した左脚を見下ろす。

 ひと晩持てばいい。

 明日まで持てば――

 ラッセルが見つける。

 ほとんど反射のように、そう思った。

 だがその考えが浮かんだ瞬間、彼はふと止まる。


 ……そうだ。

 あいつらは無事なのか。

 崩れた時、隊列はまだ上だった。

 物資車がぶつかったとしても、騎士たちには退く時間があったはずだ。

 ――はずだ。


 ラッセルが馬を引き返す姿が脳裏をかすめる。

 あの反応なら、隊全体が巻き込まれることはない。

 そう思おうとするが、記憶は水に流されたように断片的だった。

 一瞬、視界がぼやける。

 岩壁に手をつき、目を閉じる。



 再び開くと、洞口の光はさらに暗くなっていた。

 エルセリアは少し離れた場所で、集めた枝の山を前に困っている。

 枝をぶつけたり、角度を変えて擦ったり、最後には全部積み上げてじっと見つめていた。

 火がつかない。

 彼女は眉を寄せ、小さく何か呟いている。まるで禁忌の儀式でも試すかのような真剣さだ。


 アッシュはしばらく見てから声をかけた。

「……何をしている?」


 彼女はびくっと顔を上げた。

「起きてたんですか?」

 心からほっとした声だった。


「枝は拾ってきたんですけど……」

 枝の山を見て言葉が止まる。

「……違います」

 彼女は素直に言い直した。

「火の起こし方がわからないんです」


 アッシュは笑わなかった。

 枝を一瞥し、ゆっくり体を起こして隣へ移動する。

「湿りすぎだ」

 上の枝をどけ、乾いた細枝を選び、小刀で薄い削り屑を作る。

 動作はゆっくりだが手慣れている。

 削り屑を中央に置き、指先で小さく火を灯した。

 かすかな火が生まれ、ゆっくり広がる。


 エルセリアの目が明るくなる。

 火だけではない光だった。

「……聖堂でも、こうやって蝋燭に火をつけていましたよね」


 彼は答えず、火を安定させる。

「次からは起こせ」

 淡々とした声。


 エルセリアは首を振る。

「すごく疲れているみたいだったから」

 彼女は彼を見た。

「自分でできると思って……」

 声は火のはぜる音に消えそうだった。


 アッシュは少し黙り、それからふと尋ねる。

「高度な治療魔法は使えるのに、生活魔法は知らないのか」

 責める声ではなく、純粋な疑問だった。


 エルセリアは少し驚いた顔をする。

「そういうことは……侍者がやります」

 視線を落とし、小さく付け加えた。

「私は治療だけに集中すればいいので」


 アッシュは短く彼女を見つめる。

 能力、経験、行動――頭の中で静かに照らし合わせる。

 何か言おうとしたが、思考が霧に覆われるようにぼやけた。

 それ以上は聞かなかった。


 エルセリアはふと思い出したように、裙の横から小さなものを取り出す。

「これも拾いました」


 掌を開く。

 しなびた木の実がいくつかと、松ぼっくりが二つ。

「食べられるかわかりませんけど」

 森で宝物を見つけた子供のような声だった。


 アッシュは一つ手に取り、匂いを確かめ、少し潰してみる。

「食べられる。味は期待するな」


 エルセリアはすぐ笑顔になった。

「それでも十分です」


 火の光が彼女の顔を照らす。

 山道にいたときより、ずっと軽い表情だった。

 慌てる様子も、文句もない。

 危機感さえほとんどない。


 アッシュは岩壁にもたれ、火の揺れを眺める。

 一瞬、時間がずれたような感覚がした。

 渓の音は遠く、さっきの落下が本当に起きたこととは思えないほどだった。


 彼は目を伏せる。

 ただ疲れているだけだ。

 きっと、それだけだ。

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