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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第十九章:帰還の道

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第195話 渓流の果て

 最初に戻ってきたのは、音だった。

 人の声ではない。水の流れる音だ。低く、途切れることなく続き、耳の奥に貼りつくように遠くから響いている。


 アッシュが目を開けたとき、視界には揺れる光が広がっていた。枝葉の隙間から落ちる陽光が細かな欠片のように砕け、目の前でちらついている。自分が横たわっているのか、それとも世界そのものが傾いているのか、しばらく判別がつかなかった。


 後頭部が重く脹れている。まるで鈍器で打たれた後のような感覚だ。

 体を起こそうとした瞬間、左脚に鋭い痛みが走った。

 擦り傷や打撲とは違う。骨の奥が軋むような、裂ける激痛だった。


 意識が一気に現実へ引き戻される。息を吸い込むと、空気は驚くほど冷たく、喉を刺した。


 すぐ近くで水が流れている。

 ようやく状況が見えてきた。

 彼は小さな林の中、渓のほとりに横たわっている。地面には濡れた落葉と小石が散らばり、折れた木板が何本も泥に突き刺さっていた。少し離れた水面には、半分だけの車輪が漂っている。


 馬車の残骸だった。


 記憶が遅れて落ちてくる。雷鳴のように頭を打ち据える。

 山道。

 揺れ。

 崩落。

 水。


 アッシュは反射的に視線を落とした。

 腕の中に、まだ人がいる。

 エルセリアが彼の胸に伏したまま静かに息をしていた。髪は乱れ、顔色は青白いが、呼吸は確かに続いている。


 体を起こそうとする。

 歯を食いしばり、脚の痛みに耐えながら上半身を少しだけ持ち上げた。動いた瞬間、傷口が引きつり視界が暗くなる。手をついたとき、掌に血が付いているのに気づいた。

 額の傷から流れた血が頬を伝い、衣服に染みている。


 やっと体を起こしたその瞬間、腕の中の人が動いた。

 エルセリアの睫毛が震え、ゆっくりと瞳が開く。

 最初はぼんやりと彼を見つめ、夢と現実の境目を探るようだった。次の瞬間、彼女は勢いよく身を起こす。


「……ノアディス?」

 声には焦りが滲んでいた。


 彼の額の血に気づき、さらに不自然な姿勢で体を支えているのを見て表情が変わる。

「怪我をしてる」

 彼女は膝をつき、ほとんど反射のように両手を彼の肩へ伸ばした。まだ話せる状態か確かめるように。


 アッシュは低く言う。

「大丈夫……」

 言葉を発した瞬間、足首に再び激痛が走り、指先に力が入る。


 エルセリアの顔色がはっきりと変わった。

「動かないで」

 声はもう穏やかではなく、命令に近い響きだった。


 彼女は手を彼の額に当てる。掌から柔らかな光が広がった。朝霧の中に差す光のような温もりが血の跡へ染み込み、皮膚を包む。

 額の痛みがゆっくり鈍くなり、血も止まった。


 アッシュは視線を遠くへ向けた。

 林の外にはむき出しの山斜面があり、そのさらに上の岩壁には不自然な斜めの傷跡が残っている。まるで巨大な雪塊が崩れ落ちた痕のように、岩肌が白く晒されていた。


 おそらく、あそこだ。

 彼らが滑り落ちた場所。

 思っていたよりもずっと遠い。

 渓流に流された距離は、山道から見える範囲をはるかに越えている。


 周囲を見回す。

 馬はいない。

 騎士の姿もない。

 ラッセルも、セイフィナもいない。

 あるのは壊れた車板と流された布切れ、そして見知らぬ小さな林だけだった。


 アッシュはゆっくり息を吐いた。

「……流されたな」

 声は掠れていた。


 エルセリアは一瞬黙る。

 それから、彼の袖をつかんだ。

「じゃあ、みんなが見つけてくれるのを待ちましょう」


 あまりにも自然な言い方だった。

 ただ道を少し外れただけ、というように。


「……よかった」

 彼女は小さく呟く。

「無事で」


 自分を慰めている声ではない。本当に胸を撫で下ろしている声だった。彼の血で染まった衣服に目を落とし、ゆっくりと顔へ戻す。


「さっき……私を抱きかかえてくれてましたよね?」

 思い出すように言う。


「そうじゃなかったら、こんな程度じゃ済まなかったと思います」

 腕を上げると、浅い擦り傷がいくつか見えた。

 むしろ少し照れたような笑みすら浮かべている。


「ありがとう、ノアディス」

 大げさでも儀礼的でもない。

 ただ、まっすぐな感謝だった。


 言い終えてから、ようやく彼の傷の方が深刻だと気づいたらしい。眉が少し寄る。

「……ごめんなさい」

 今度の声はさらに小さい。


 事故ではなく、彼が自分を庇って傷ついたことへの言葉だった。

 彼女の手はまだ袖を握ったまま離れない。

 そこに彼がいると確かめているようだった。


 アッシュは答えなかった。

 融雪の渓が意味するものを、彼は知っている。

 上流の痕跡は、すぐ水に消される。


 もう一度、崩れた山の傷跡を見上げた。

 山はすでに静まり返り、何事もなかったかのようだった。

 視線を戻し、低く言う。

「手を貸してくれ」


 エルセリアは少し驚いたが、素直に腕を差し出す。

 アッシュは手を取った。

 掌に淡い光が灯る。強くはないが、安定した光だった。

 彼女の腕の擦り傷がゆっくり閉じていく。血の滲みが止まり、皮膚が滑らかに戻り、跡はほとんど残らない。


 彼は小さく息を吐いた。

「この程度なら、まだ治せる」

 落ち着いた声だった。

 自分がまだ倒れていないと確かめるように。


 次の瞬間、視線は自分の左脚へ落ちる。

 さっき彼女を庇って転げ落ちたとき、そこまで考える余裕はなかった。今になって異様な感覚がはっきりしてくる。ふくらはぎの下が脹れ、足首の上に鈍い痛みがある。


 少し動かしてみた。

 骨に沿って鋭い痛みが走る。

 単なる捻挫ではない。


 靴紐をほどき、痛みに耐えながらズボンの外側を裂いた。すでに腫れが目立ち、皮膚の色も濃く変わっている。

 外側を押すと、明らかに異常な膨らみがあった。骨は皮膚を破っていないが、力のかかり方がおかしい。


 骨にひびが入っている。

 アッシュは即座にそう判断した。


 エルセリアの顔色が一気に変わる。

「見せてください」

 彼女は彼の脚に手を当てた。

 淡い金色の光が再び広がる。先ほどより強い。

 温もりが筋肉へ染み込み、痛みは少しだけ和らいだ。血流も落ち着く。だが骨の奥にある不安定さは残っている。


 彼女は眉を寄せた。

「……応急処置しかできません」

 声は先ほどより真剣だった。

「骨は、時間が必要です」


 アッシュはうなずく。

 分かっている。


 再び周囲を見回した。

 水に流された車輪の破片、折れた梁、そして遠くの斜面に残る崩落の痕。

 確かに、彼らはかなり下流まで流されている。

 元の峡道からは、もう相当離れているはずだった。

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