第195話 渓流の果て
最初に戻ってきたのは、音だった。
人の声ではない。水の流れる音だ。低く、途切れることなく続き、耳の奥に貼りつくように遠くから響いている。
アッシュが目を開けたとき、視界には揺れる光が広がっていた。枝葉の隙間から落ちる陽光が細かな欠片のように砕け、目の前でちらついている。自分が横たわっているのか、それとも世界そのものが傾いているのか、しばらく判別がつかなかった。
後頭部が重く脹れている。まるで鈍器で打たれた後のような感覚だ。
体を起こそうとした瞬間、左脚に鋭い痛みが走った。
擦り傷や打撲とは違う。骨の奥が軋むような、裂ける激痛だった。
意識が一気に現実へ引き戻される。息を吸い込むと、空気は驚くほど冷たく、喉を刺した。
すぐ近くで水が流れている。
ようやく状況が見えてきた。
彼は小さな林の中、渓のほとりに横たわっている。地面には濡れた落葉と小石が散らばり、折れた木板が何本も泥に突き刺さっていた。少し離れた水面には、半分だけの車輪が漂っている。
馬車の残骸だった。
記憶が遅れて落ちてくる。雷鳴のように頭を打ち据える。
山道。
揺れ。
崩落。
水。
アッシュは反射的に視線を落とした。
腕の中に、まだ人がいる。
エルセリアが彼の胸に伏したまま静かに息をしていた。髪は乱れ、顔色は青白いが、呼吸は確かに続いている。
体を起こそうとする。
歯を食いしばり、脚の痛みに耐えながら上半身を少しだけ持ち上げた。動いた瞬間、傷口が引きつり視界が暗くなる。手をついたとき、掌に血が付いているのに気づいた。
額の傷から流れた血が頬を伝い、衣服に染みている。
やっと体を起こしたその瞬間、腕の中の人が動いた。
エルセリアの睫毛が震え、ゆっくりと瞳が開く。
最初はぼんやりと彼を見つめ、夢と現実の境目を探るようだった。次の瞬間、彼女は勢いよく身を起こす。
「……ノアディス?」
声には焦りが滲んでいた。
彼の額の血に気づき、さらに不自然な姿勢で体を支えているのを見て表情が変わる。
「怪我をしてる」
彼女は膝をつき、ほとんど反射のように両手を彼の肩へ伸ばした。まだ話せる状態か確かめるように。
アッシュは低く言う。
「大丈夫……」
言葉を発した瞬間、足首に再び激痛が走り、指先に力が入る。
エルセリアの顔色がはっきりと変わった。
「動かないで」
声はもう穏やかではなく、命令に近い響きだった。
彼女は手を彼の額に当てる。掌から柔らかな光が広がった。朝霧の中に差す光のような温もりが血の跡へ染み込み、皮膚を包む。
額の痛みがゆっくり鈍くなり、血も止まった。
アッシュは視線を遠くへ向けた。
林の外にはむき出しの山斜面があり、そのさらに上の岩壁には不自然な斜めの傷跡が残っている。まるで巨大な雪塊が崩れ落ちた痕のように、岩肌が白く晒されていた。
おそらく、あそこだ。
彼らが滑り落ちた場所。
思っていたよりもずっと遠い。
渓流に流された距離は、山道から見える範囲をはるかに越えている。
周囲を見回す。
馬はいない。
騎士の姿もない。
ラッセルも、セイフィナもいない。
あるのは壊れた車板と流された布切れ、そして見知らぬ小さな林だけだった。
アッシュはゆっくり息を吐いた。
「……流されたな」
声は掠れていた。
エルセリアは一瞬黙る。
それから、彼の袖をつかんだ。
「じゃあ、みんなが見つけてくれるのを待ちましょう」
あまりにも自然な言い方だった。
ただ道を少し外れただけ、というように。
「……よかった」
彼女は小さく呟く。
「無事で」
自分を慰めている声ではない。本当に胸を撫で下ろしている声だった。彼の血で染まった衣服に目を落とし、ゆっくりと顔へ戻す。
「さっき……私を抱きかかえてくれてましたよね?」
思い出すように言う。
「そうじゃなかったら、こんな程度じゃ済まなかったと思います」
腕を上げると、浅い擦り傷がいくつか見えた。
むしろ少し照れたような笑みすら浮かべている。
「ありがとう、ノアディス」
大げさでも儀礼的でもない。
ただ、まっすぐな感謝だった。
言い終えてから、ようやく彼の傷の方が深刻だと気づいたらしい。眉が少し寄る。
「……ごめんなさい」
今度の声はさらに小さい。
事故ではなく、彼が自分を庇って傷ついたことへの言葉だった。
彼女の手はまだ袖を握ったまま離れない。
そこに彼がいると確かめているようだった。
アッシュは答えなかった。
融雪の渓が意味するものを、彼は知っている。
上流の痕跡は、すぐ水に消される。
もう一度、崩れた山の傷跡を見上げた。
山はすでに静まり返り、何事もなかったかのようだった。
視線を戻し、低く言う。
「手を貸してくれ」
エルセリアは少し驚いたが、素直に腕を差し出す。
アッシュは手を取った。
掌に淡い光が灯る。強くはないが、安定した光だった。
彼女の腕の擦り傷がゆっくり閉じていく。血の滲みが止まり、皮膚が滑らかに戻り、跡はほとんど残らない。
彼は小さく息を吐いた。
「この程度なら、まだ治せる」
落ち着いた声だった。
自分がまだ倒れていないと確かめるように。
次の瞬間、視線は自分の左脚へ落ちる。
さっき彼女を庇って転げ落ちたとき、そこまで考える余裕はなかった。今になって異様な感覚がはっきりしてくる。ふくらはぎの下が脹れ、足首の上に鈍い痛みがある。
少し動かしてみた。
骨に沿って鋭い痛みが走る。
単なる捻挫ではない。
靴紐をほどき、痛みに耐えながらズボンの外側を裂いた。すでに腫れが目立ち、皮膚の色も濃く変わっている。
外側を押すと、明らかに異常な膨らみがあった。骨は皮膚を破っていないが、力のかかり方がおかしい。
骨にひびが入っている。
アッシュは即座にそう判断した。
エルセリアの顔色が一気に変わる。
「見せてください」
彼女は彼の脚に手を当てた。
淡い金色の光が再び広がる。先ほどより強い。
温もりが筋肉へ染み込み、痛みは少しだけ和らいだ。血流も落ち着く。だが骨の奥にある不安定さは残っている。
彼女は眉を寄せた。
「……応急処置しかできません」
声は先ほどより真剣だった。
「骨は、時間が必要です」
アッシュはうなずく。
分かっている。
再び周囲を見回した。
水に流された車輪の破片、折れた梁、そして遠くの斜面に残る崩落の痕。
確かに、彼らはかなり下流まで流されている。
元の峡道からは、もう相当離れているはずだった。




