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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第十九章:帰還の道

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第194話 雪解れの峡道

 峡道をさらに進むにつれて、光はほとんど細い一筋に押し込められていった。両側の岩壁が迫り、車輪が砕けた石を踏む音は狭い空間の中で何倍にも反響する。実際よりも重く響くその音に合わせて、隊列の動きも自然と慎重になっていた。


 ラッセルは前後の間隔を広げるよう合図を出し、馬車が前方の泥や雪を跳ね上げて視界を塞ぐのを防ぐ。


 セイフィナは変わらず先頭を進み、馬の歩調を一定に保ちながら、ときおり振り返って隊形を確かめていた。


 午後の太陽はすでに頂点に近い。雪線の上ではところどころ表面が緩み、細かな白い粉が岩肌を滑り落ちてくる。それはまるで薄い霧が流れているようにも見えた。


 アッシュは今度は視線を逸らさなかった。

 それは単なる落石の音ではない。

 雪の層全体が内側でわずかに動き、長く押し込められていた空気を吐き出している音だった。冬の重みを抱え込んだ雪が、気温の上昇で少しずつ沈み始めている。


 彼は昔、一度それを目にしたことがある。アエクセリオンとともに高地を巡っていたとき、遠くの斜面で雪面が音もなく沈み、そのまま崩れ落ちていった。轟音も派手な崩裂もなく、ただ静かに沈み、そして一面が崩れていく。


 その直前も、こんな音だった。

 重く、まだ形を持たない低い唸り。


 そのとき、馬車が突然大きく揺れた。外から馬の不安げな噴気が聞こえる。


「止まれ——」


 ラッセルの声が完全に響き切るより早く、峡道の上方から鈍い断裂音が落ちてきた。爆ぜるような音ではない。重さに耐えきれなくなった岩層が、内側から軋むような低い裂け目の音だった。


 次の瞬間、最初の石が落ちてきた。

 決して大きくはない。しかし地面に落ちた瞬間、足元が震えるほどの重さだった。


「加速して抜けろ!」

 先頭からセイフィナの声が飛ぶ。


 ラッセルもすぐに応じた。

「隊形を崩すな!止まるな!」


 馬たちが一斉に動き出す。車輪が急に速く回り始めた。


 アッシュはすでに立ち上がっていた。車内の取っ手を掴み、反射的に外を覗く。

 岩壁の上で、雪の層がほどけ始めている。


 一面が崩れ落ちるわけではない。端からゆっくりと滑り出し、まるで下の支えを抜かれたかのように動いていた。雪と石が混じり合い、斜面をなめるように速度を増していく。


 一瞬で理解する。

「急げ!」

 外へ向かって叫ぶ。

 だが、すでに間に合わなかった。


 第二波は石ではなかった。緩んだ雪泥そのものが、斜面から丸ごと流れ込んできたのだ。落ちるというより、押し流されるように。砕けた石と融水を巻き込みながら、重い塊となって坂を下ってくる。


 先頭近くの補給車が側面からそれを受けた。

 馬が激しく嘶き、車輪が横へ流れる。前方の騎士が慌てて手綱を引き、隊列は一瞬でリズムを崩した。


 ラッセルは馬を返して後方を庇おうとする。しかしその瞬間、足元の地面がわずかに沈んだ。割れたわけではない。雪解け水を含みすぎた土が、支えを失ってずるりと動いたのだ。


 馬車の下の地面が緩み始める。

 一気に崩れるのではなく、まず片側へ沈み込んだ。車輪が泥にめり込み、車体が強く揺れて斜めに引っかかる。


 最初の衝撃の瞬間には、すでにアッシュは立ち上がっていた。

「降りろ!」

 彼は扉に手をかけ、もう一方の腕でエルセリアを自分の方へ引き寄せる。車体がまだ路面に接しているうちなら、岩壁側へ飛び移れる。そこだけは岩の庇があり、落石を防げる場所だった。


 全力で扉を押す。

 開かない。

 一瞬だけ目を見開き、もう一度押す。

 びくともしない。

 引っかかっているのではない。外側から固定されている。

 外鍵だ。


 その考えが頭をよぎった瞬間、再び上から重い衝撃が落ちてきた。雪泥が車の屋根に叩きつけられ、車体が大きく揺れる。車輪が泥の中で空回りし、耳障りな摩擦音を上げた。


 エルセリアが横へ投げ出される。アッシュはすぐに肩を掴み、車内の中央へ引き戻した。


「しっかり掴まれ」

 低く言う。


 そのまま肩で扉をぶつける。木枠が軋み、亀裂が走るが、まだ持ちこたえている。扉の外には落石か、あるいは横転しかけた車軸が引っかかっているのだろう。出口は完全に塞がれていた。


 外から誰かが叫ぶ。

 ラッセルの声だ。

 その直後、馬の狂ったような嘶きが響いた。

 地面がまた揺れる。


 今度は石ではない。斜面そのものが動いた。馬車が引っかかっていた支えが崩れ、車体が横へ引きずられる。


 その瞬間、アッシュは理解した。

 もう間に合わない。


 扉を諦め、すぐに振り向く。エルセリアを強く抱き寄せ、自分の背を車壁に当て、両脚で反対側の板を踏ん張る。

「目を閉じろ」

 次の瞬間、車体は完全に横転した。


 最初の衝撃で肺の空気が押し出される。二度目の回転で車枠が裂け、木片が飛び散った。三度目に地面へ叩きつけられたとき、世界は上下を失い、泥水と雪の塊が割れた隙間から流れ込んできた。


 彼はただ彼女の頭を庇う。

 その直後、さらに重い衝撃。


 斜面に残っていた雪は車を止めなかった。積雪が砕け、泥と雪が車体の下で押し広げられる。まるで背中から押されたように、馬車はさらに斜面を滑り落ちていった。


 そして次の瞬間——

 それは岩ではなく、水だった。


 氷のような冷たい流れが車体を横から叩きつける。車は大きく震え、そのまま流れに引きずられて向きを変えた。壊れた板の隙間から水が一気に流れ込み、泥水が瞬く間に膝まで満ちる。


 脚から刺すような冷気が這い上がる。

 車はまだ動いている。転がっているのではない。流れに押され、渓の底を滑っているのだ。


 アッシュは踏ん張ろうとするが、先ほどの衝撃で足の支えが失われていた。焼けるような痛みが走り、まともに立つこともできない。背中で車枠を押さえ、腕の中のエルセリアを守るように抱き込む。


 水の音が耳を埋める。

 車体が岩にぶつかるたび、骨組みが悲鳴のような音を上げる。今にもばらばらになりそうだった。

 彼は必死に顔を上げるが、見えるのは揺れ続ける空の断片だけ。雪混じりの水が顔に叩きつけられ、視界は白く滲んだ。


 再び衝撃。

 今度はさらに重い。

 世界が傾き、水が胸まで押し寄せる。


 その瞬間、アッシュの意識は強く揺さぶられた。

 最後に確かめたのは、腕の中にまだ体温があること。

 そしてすべては、水音に呑み込まれた。


 次に目を開けたとき、耳に響いていたのはもう峡道の反響ではなかった。

 ただ、渓の水が流れる音だけ。

 枝葉の隙間から差し込む陽光が、濡れた衣服の上に斑に落ちている。

 彼の腕の中には、まだ彼女がいた。

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