第194話 雪解れの峡道
峡道をさらに進むにつれて、光はほとんど細い一筋に押し込められていった。両側の岩壁が迫り、車輪が砕けた石を踏む音は狭い空間の中で何倍にも反響する。実際よりも重く響くその音に合わせて、隊列の動きも自然と慎重になっていた。
ラッセルは前後の間隔を広げるよう合図を出し、馬車が前方の泥や雪を跳ね上げて視界を塞ぐのを防ぐ。
セイフィナは変わらず先頭を進み、馬の歩調を一定に保ちながら、ときおり振り返って隊形を確かめていた。
午後の太陽はすでに頂点に近い。雪線の上ではところどころ表面が緩み、細かな白い粉が岩肌を滑り落ちてくる。それはまるで薄い霧が流れているようにも見えた。
アッシュは今度は視線を逸らさなかった。
それは単なる落石の音ではない。
雪の層全体が内側でわずかに動き、長く押し込められていた空気を吐き出している音だった。冬の重みを抱え込んだ雪が、気温の上昇で少しずつ沈み始めている。
彼は昔、一度それを目にしたことがある。アエクセリオンとともに高地を巡っていたとき、遠くの斜面で雪面が音もなく沈み、そのまま崩れ落ちていった。轟音も派手な崩裂もなく、ただ静かに沈み、そして一面が崩れていく。
その直前も、こんな音だった。
重く、まだ形を持たない低い唸り。
そのとき、馬車が突然大きく揺れた。外から馬の不安げな噴気が聞こえる。
「止まれ——」
ラッセルの声が完全に響き切るより早く、峡道の上方から鈍い断裂音が落ちてきた。爆ぜるような音ではない。重さに耐えきれなくなった岩層が、内側から軋むような低い裂け目の音だった。
次の瞬間、最初の石が落ちてきた。
決して大きくはない。しかし地面に落ちた瞬間、足元が震えるほどの重さだった。
「加速して抜けろ!」
先頭からセイフィナの声が飛ぶ。
ラッセルもすぐに応じた。
「隊形を崩すな!止まるな!」
馬たちが一斉に動き出す。車輪が急に速く回り始めた。
アッシュはすでに立ち上がっていた。車内の取っ手を掴み、反射的に外を覗く。
岩壁の上で、雪の層がほどけ始めている。
一面が崩れ落ちるわけではない。端からゆっくりと滑り出し、まるで下の支えを抜かれたかのように動いていた。雪と石が混じり合い、斜面をなめるように速度を増していく。
一瞬で理解する。
「急げ!」
外へ向かって叫ぶ。
だが、すでに間に合わなかった。
第二波は石ではなかった。緩んだ雪泥そのものが、斜面から丸ごと流れ込んできたのだ。落ちるというより、押し流されるように。砕けた石と融水を巻き込みながら、重い塊となって坂を下ってくる。
先頭近くの補給車が側面からそれを受けた。
馬が激しく嘶き、車輪が横へ流れる。前方の騎士が慌てて手綱を引き、隊列は一瞬でリズムを崩した。
ラッセルは馬を返して後方を庇おうとする。しかしその瞬間、足元の地面がわずかに沈んだ。割れたわけではない。雪解け水を含みすぎた土が、支えを失ってずるりと動いたのだ。
馬車の下の地面が緩み始める。
一気に崩れるのではなく、まず片側へ沈み込んだ。車輪が泥にめり込み、車体が強く揺れて斜めに引っかかる。
最初の衝撃の瞬間には、すでにアッシュは立ち上がっていた。
「降りろ!」
彼は扉に手をかけ、もう一方の腕でエルセリアを自分の方へ引き寄せる。車体がまだ路面に接しているうちなら、岩壁側へ飛び移れる。そこだけは岩の庇があり、落石を防げる場所だった。
全力で扉を押す。
開かない。
一瞬だけ目を見開き、もう一度押す。
びくともしない。
引っかかっているのではない。外側から固定されている。
外鍵だ。
その考えが頭をよぎった瞬間、再び上から重い衝撃が落ちてきた。雪泥が車の屋根に叩きつけられ、車体が大きく揺れる。車輪が泥の中で空回りし、耳障りな摩擦音を上げた。
エルセリアが横へ投げ出される。アッシュはすぐに肩を掴み、車内の中央へ引き戻した。
「しっかり掴まれ」
低く言う。
そのまま肩で扉をぶつける。木枠が軋み、亀裂が走るが、まだ持ちこたえている。扉の外には落石か、あるいは横転しかけた車軸が引っかかっているのだろう。出口は完全に塞がれていた。
外から誰かが叫ぶ。
ラッセルの声だ。
その直後、馬の狂ったような嘶きが響いた。
地面がまた揺れる。
今度は石ではない。斜面そのものが動いた。馬車が引っかかっていた支えが崩れ、車体が横へ引きずられる。
その瞬間、アッシュは理解した。
もう間に合わない。
扉を諦め、すぐに振り向く。エルセリアを強く抱き寄せ、自分の背を車壁に当て、両脚で反対側の板を踏ん張る。
「目を閉じろ」
次の瞬間、車体は完全に横転した。
最初の衝撃で肺の空気が押し出される。二度目の回転で車枠が裂け、木片が飛び散った。三度目に地面へ叩きつけられたとき、世界は上下を失い、泥水と雪の塊が割れた隙間から流れ込んできた。
彼はただ彼女の頭を庇う。
その直後、さらに重い衝撃。
斜面に残っていた雪は車を止めなかった。積雪が砕け、泥と雪が車体の下で押し広げられる。まるで背中から押されたように、馬車はさらに斜面を滑り落ちていった。
そして次の瞬間——
それは岩ではなく、水だった。
氷のような冷たい流れが車体を横から叩きつける。車は大きく震え、そのまま流れに引きずられて向きを変えた。壊れた板の隙間から水が一気に流れ込み、泥水が瞬く間に膝まで満ちる。
脚から刺すような冷気が這い上がる。
車はまだ動いている。転がっているのではない。流れに押され、渓の底を滑っているのだ。
アッシュは踏ん張ろうとするが、先ほどの衝撃で足の支えが失われていた。焼けるような痛みが走り、まともに立つこともできない。背中で車枠を押さえ、腕の中のエルセリアを守るように抱き込む。
水の音が耳を埋める。
車体が岩にぶつかるたび、骨組みが悲鳴のような音を上げる。今にもばらばらになりそうだった。
彼は必死に顔を上げるが、見えるのは揺れ続ける空の断片だけ。雪混じりの水が顔に叩きつけられ、視界は白く滲んだ。
再び衝撃。
今度はさらに重い。
世界が傾き、水が胸まで押し寄せる。
その瞬間、アッシュの意識は強く揺さぶられた。
最後に確かめたのは、腕の中にまだ体温があること。
そしてすべては、水音に呑み込まれた。
次に目を開けたとき、耳に響いていたのはもう峡道の反響ではなかった。
ただ、渓の水が流れる音だけ。
枝葉の隙間から差し込む陽光が、濡れた衣服の上に斑に落ちている。
彼の腕の中には、まだ彼女がいた。




