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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第十九章:帰還の道

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第193話 緩む雪

 正午に近づくころ、山を覆っていた霧はようやく完全に晴れた。陽光の下で山道は本来の色を取り戻し、灰白の岩肌と褐色の土、ところどころに残る雪線がくっきりと浮かび上がる。溶けた雪で湿った地面を馬の蹄が踏むたび、重く湿った音が響き、ときおり細かな水しぶきが跳ねた。


 隊列が風を避けられる斜面に差しかかったところで、ラッセルが手を上げて合図する。

「休憩。十五分」短い命令だった。


 そこは岩壁がわずかに内側へ入り込んだ場所で、地勢が少し高く、下方の山渓まで見渡せる。侍者たちは手早く水袋と携行食を配り、補給車は内側へ寄せられる。馬たちも頭を垂れて息を整えていた。


 アッシュは馬車を降り、岩の縁まで歩いて下を覗く。

 冬のあいだ凍っていた渓はすでに溶け、記憶よりも広くなった流れが雪の欠片を巻き込みながら下流へ走っていた。雪解けで水位が上がり、水はやや濁っているが、陽光を受けて細かな光を散らしている。


 そこへラッセルも歩み寄り、斜面と道の様子をざっと見渡した。いつもより少しだけ肩の力が抜けた声で言う。

「安心しろ。このあたりは道幅がある。落ちやしない」

 一拍置き、軽く笑う。

「……自分から飛び込む気でもない限りな」


 アッシュは横目で彼を見ただけで、何も言わなかった。


 ラッセルはすぐに笑みを消し、実務的な口調に戻る。

「ただ、地面は少し滑る。午後になって日が高くなれば雪泥が緩む。速度は落とすぞ」


 一方、反対側ではセイフィナが靴先で泥を確かめ、轍の深さを見て路面の状態を判断していた。傍らの騎士にいくつか指示を伝える声が低く聞こえる。


 エルセリアはその頃、馬車のそばに立っていた。スカートの裾を軽く持ち上げ、乾いた石を選んで踏みながら歩き出すと、ふいにくるりと一回転する。陽光の中で裾が柔らかな弧を描いた。


「風がちょうどいいわ」

 楽しそうにそう言う。


 アッシュは一瞥してから言った。

「外にいるならマントを羽織れ。冷える」

 特に歩み寄るでもなく、ただそう告げただけだった。


 エルセリアは目を瞬かせてから軽く笑う。

「このくらいでも大丈夫よ」

 そう言ってしゃがみ込み、半ば溶けた雪泥を指先でつついた。

 冷たさを確かめるように触れた雪はすぐに水へ変わり、掌から指の間を伝って落ちていく。


 アッシュはその仕草を見て、視線を自然と彼女の手元から足元の地面へ移した。雪は朝よりも確実に速い勢いで解けている。


 やがて休憩が終わり、ラッセルが再び手を上げた。

「行くぞ」


 隊列は再び動き出す。

 午後の光が岩壁を照らし、岩層の模様が朝よりもはっきり見えるようになっていた。進むにつれて山の両側は徐々に狭まり、渓の音が岩に沿って反響し始める。水が石を叩く音は空気の中で長く引き延ばされ、先ほどまでより近くに感じられた。

 馬車は安定した速度で進んでいく。車輪が砕けた石を踏み、規則正しい音を刻む。


 アッシュは車内の席に戻り、特に何かを考えるでもなく座っていた。ただ、山の空気が午前よりも少し湿ってきたような気がした。



 馬車の中は外よりわずかに暗かった。

 岩壁が近づき、日差しは細く切り取られて窓から斜めに差し込み、座席の縁にまだらな光を落としている。渓の音は岩肌に沿って響き、空へ散っていた朝とは違い、峡谷に閉じ込められたように濃く聞こえた。


 エルセリアは窓の外を静かに眺めている。

「ここの石、きれいな色をしているのね」

 ふとそう言った。


 アッシュも外を見やる。灰白の岩層のあいだに、濃い筋が何本も走っている。長い年月が刻み込んだ傷跡のようだった。


「そうだな」

 それだけ答える。


 エルセリアは窓枠に手を置き、車体の震えを感じ取っている。

「夏なら、この辺りにも草が生えるのかしら」


「多少はな。でもこの斜面じゃ土が残らない」


「そう」

 彼女は頷き、まるでその景色を思い浮かべるように遠くを見た。


 そのとき、馬車が小さく揺れた。緩んだ雪泥を踏んだらしい。

 エルセリアは反射的に座席の端を掴んだが、すぐに力を抜く。

「滑っているの?」


「少しな」

 アッシュは平然と答えた。


 岩壁に残る雪が陽光で溶け、水滴が石へ落ちる。乾いた音が点々と響き、下の渓の音と混じって峡道を満たしていた。隊列が曲がり角を回ったとき、上の斜面から小さな石がいくつか転がり落ちる。斜面を跳ねながら転がり、やがて道端で止まった。


 先頭の馬が軽く頭を振り、蹄のリズムが一瞬乱れる。

 セイフィナが振り返り、上方を一瞥した。眉をわずかに寄せるが、声は落ち着いている。

「雪解けで緩んでいます。この時期はよくあることです」


 ラッセルが短く「分かってる」と返し、路面と轍を見ながら言う。


「馬を急がせるな」

 隣の騎士へ指示してから、半ばぼやくように付け足した。

「車輪を雪泥に突っ込むなよ。詰まったら誰が押すと思ってる」


 騎士たちが低く笑い、空気は張り詰めるほどではなかった。隊列も止まらず、ただ速度をさらに落として進むだけだ。車輪の回転はゆっくりになり、その分だけ音は安定していく。


 馬車の中でエルセリアはカーテンを少し持ち上げ、外を覗こうとしていた。外の声が聞こえたのか、振り返る。

「どうしたの?」


「石が落ちただけだ」

 アッシュは淡々と答える。


「山道って大変ね……」

 彼女はまるで皆の苦労を代弁するように言うが、口調はどこまでも軽い。

「でも皆さん慣れているみたい。大丈夫でしょう?」


 アッシュはその「大丈夫」という言葉に返事をしなかった。座席の縁に手を置き、外から戻ってきた蹄の規則的な音に耳を傾ける。


 そのとき、再び上方から音がした。

 石が直接落ちるときの鋭い音ではない。何か重いものが岩の表面を引きずったような、鈍く湿った音だった。短い距離を擦るように滑り、そこで止まる。


 音は大きくない。

 だがその瞬間、アッシュの肩がわずかに強張った。


 それは冬の終わりに山でよく聞く音だった。雪層が緩んだときにだけ生まれる、重みのある響き。彼は視線を上げ、馬車の天井を一瞬見つめる。だが結局、何も言わなかった。


 外では騎士たちがまだ話を続け、馬も呼吸が少し荒いだけで暴れる様子はない。すべてはまだ「ゆっくり進めば問題ない」範囲に収まっているように見える。


 ただ峡道を吹き抜ける風が細かな埃を運び込み、口の中にわずかな石の粉の味を残した。

 窓の外では、山の影がゆっくりと伸び、切り裂かれたような陽光を覆い始めていた。

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