第192話 山道前の朝
山の朝はいつも遅い。霧が林のあいだに低く垂れこめ、馬の蹄の音さえどこか鈍く響く。野営地はほとんど片付けられており、侍者が最後の木箱を補給車へ運び上げ、王国騎士たちは手綱や車軸の具合を小声で確かめていた。ラッセルは小さな斜面の端に立ち、空の色を見上げながら今日どこまで進めるかを測っているようだった。
アッシュが馬車へ向かおうとしたとき、かすかな振動音が耳に触れた。
小型の魔導通信器が淡く光っている。霧の中でその光だけが妙に浮いて見えた。ラッセルは眉をひそめて装置を起動させる。符紋が浮かび上がり、短い音声が流れた。
「教国は聖女帰還の報を受理。安全確保のため騎士団を派遣する。二日後、銀鴉峡口にて合流予定。進路を報告せよ」
それだけを告げて光は消えた。
ちょうどそこへ、馬を引いたセイフィナが歩いてくる。
「教国にもう伝わったのですか?」
声は落ち着いていたが、わずかな緊張が混じっていた。
ラッセルは鼻を鳴らす。
「出発前には聞いていない話だ」
セイフィナは否定せず、「聖城が道の状態を心配したのかもしれません。この数日で雪解けが進んでいますから」とだけ答えた。
出発が遅れているのに気づいたアッシュも近づいてくる。ラッセルはすでに地図を広げていた。アッシュがその上を一瞥して問う。
「問題があるのか」
ラッセルは顔を上げ、地図の一点を指した。
「銀鴉峡口。二日後、教国の騎士団がここで待つらしい」
アッシュはその位置を見る。もともとの予定で通る山口より、少し西にずれていた。セイフィナが地図の反対側に手を置き、冷静に補足する。
「今のルートのままだと、到着は半日ほど遅れます。二日で合流するなら、ここから山沿いに回る必要があります」
指先が地図をなぞり、別の道筋を描く。距離は短いが、山壁に近い細い道だった。
「この道は知っています。教国の商隊がよく通る道で、時間は詰められるはずです」
ラッセルは少し考え、やがて地図を閉じた。
「分かった。ただし合流しても、その場で引き渡すことはない。予定通り、国境までこちらで送り届ける」
「承知しました」
セイフィナは頷いた。
ラッセルはそれからアッシュの方を見て、淡々と付け加える。
「だから、早く戻れると期待するな」
アッシュは何も言わなかった。ただ閉じられた地図にもう一度目を落とし、そこに描かれた新しい山道の線を静かに見つめるだけだった。
そのとき馬車の扉が軽く開き、エルセリアが顔をのぞかせた。
「何かあったの?」
「教国の騎士団が二日後に迎えに来るそうだ」
アッシュが簡単に説明する。
エルセリアはすぐに笑みを浮かべた。
「それなら安心ね」
声にはまったく疑いがなかった。彼女にとって迎えはただの配慮であって、政治的な意味など考えていないのだろう。
ほどなく隊列は整い、ラッセルが合図を出す。馬が歩き出し、車輪が霜の残る地面をゆっくりと踏みしめた。
霧は少しずつ薄れ、山道の輪郭が見え始める。遠くの峡谷には日差しの影が落ち、斜面の雪がところどころ崩れていた。溶けた水が岩壁を伝い、細く落ち続けている。その音はかすかだが、途切れることがない。
先頭ではセイフィナが馬を進め、ときどき振り返って車列を確かめていた。ラッセルは少し後ろに位置し、いつもより沈んだ表情で周囲を見ている。
アッシュが馬車に乗り込んだあとも、外からはその水の音がかすかに聞こえていた。激しく流れる音ではなく、ただぽつりぽつりと滴り落ち、岩の上を滑るような音だ。冬でも春でもない、雪解けの時期にだけ聞こえる音だった。
彼は窓枠に手を置く。木の感触にはまだ夜の冷えが残っているが、わずかな湿り気も混じっていた。
辺境の冬は長い。だが一度雪が緩み始めれば、春は遠くない。
合流のことをそれ以上考えるのはやめ、アッシュはただその水音を聞きながら、馬車が山道を進むのに身を任せた。
馬車の揺れは穏やかだった。陽光が山の稜線を越え、霧が白い膜のようにほどけていく。
エルセリアは窓辺に寄り、遠くの雪をかぶった山並みを眺めていた。
「教国の冬は長いの」
ふいに彼女が言う。
アッシュが視線を向けると、エルセリアは窓の曇りを指先でなぞりながら続けた。
「聖城では、春のはじめになっても雪が降ることがあるわ。花が咲く頃には、もうかなり遅い季節になっているの」
それでも微笑む。
「でも夏はきれいなの。聖殿の外の庭が一面の花で埋まって、白い花と淡い紫の花がいっせいに咲くのよ」
少し照れたように笑った。
「いつか機会があったら、あなたにも見せたかった」
アッシュは答えず、ただ彼女を見ていた。
エルセリアはまた外へ目を向ける。
「今はまるで遠足みたいね」
小さく呟く。
「まだ春は来ていないけれど」
馬車が少し揺れ、彼女は座席の縁を軽くつかむ。
「残念ね……あなたと一緒に竜に乗れなかったのは」
それは叶わなかった小さな願いを話すような、自然な口調だった。
「高いところから山を見ると、どんな景色なのかずっと気になっていたの」
アッシュはしばらく黙ってから言う。
「酔うと思う」
「そうかもしれないわ」
彼女はくすりと笑った。
「でも、一度くらい試してみたい」
車外では、また水の落ちる音がした。冷たく細かな音だ。
やがてエルセリアの声は少しだけ低くなる。
「国境に着いたら、私たちは別れるのね」
悲しそうな言い方ではない。ただ事実を述べているだけだった。
「今回の別れは……きっと長くなる」
少し間を置き、彼女は続ける。
「でも、大丈夫。慣れるようにするわ」
その言葉を言うとき、彼女はアッシュを見なかった。遠くの山影を見つめながら、自分自身を納得させるように言っている。
「私は聖女だもの。教国には私が必要だから」
アッシュはその横顔を見ていた。彼女の声は穏やかで、まるで当たり前のことを語っているようだった。
やがてエルセリアは振り向く。笑ってもいなければ、無理に明るく振る舞っているわけでもない。
ただ静かに、アッシュを一度だけ見た。
その視線は短かった。彼がそこにいることを確かめるようであり、この瞬間を覚えておこうとするようでもあった。
アッシュもまた黙ってその視線を受け止める。
馬車は変わらず山道を進み続けていた。冬はまだ終わっていない。けれど辺境の空気の中には、すでにわずかに季節の変わり目の匂いが混じり始めていた。




