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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第十九章:帰還の道

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第191話 山道と焚き火

 午後になると馬車の進みは次第に遅くなっていった。冬の終わりの山道はぬかるみ、溶けた雪が石の隙間に染み込み、車輪がときおり浅い轍にはまり込んでは引き上げられる。


 空が薄く暗くなり始めた頃、一行は風を避けられる林の空き地に辿り着き、ラッセルが短く命じて野営の準備が始まった。


 王国騎士たちは慣れた手つきで動き、あっという間に天幕を立てていく。その間にセイフィナは周囲の地形を自ら歩いて確かめ、獣や伏兵の気配がないか慎重に見回っていた。


 やがて馬車から降りたエルセリアは、吐く息を白く漂わせながら周囲を見渡す。

「ここ、空気がとても冷たいのね」

 そう言いながらも表情はどこか楽しそうだった。


 ほどなくして天幕が張られ、焚き火が起こされる。夜は早く、山の陰からすぐに降りてきた。夕食は簡素で、乾いた携帯食と温かいスープ、それに少しの干し肉だけだった。


 エルセリアは火のそばに腰を下ろし、マントに身を包みながらも退屈そうな様子はまったく見せない。むしろ焚き火の揺れる光の中で、自然に言葉がこぼれていった。

 最初は神殿の庭の話だった。


「私たちの神殿には、とても古い銀柏があるの。三代前の教皇よりも昔から立っているって言われているのよ」

 そこから幼い頃の話に移る。


「小さい頃は、祈りの言葉をたくさん覚えなければならなくて……セイフィナはいつも後ろに立っていたわ。もし私が間違えると、すぐ咳払いをするの」

 くすりと笑う。


 そのあとも神殿の日常のことが続いた。誰が朝の祈りに遅れたとか、誰が厨房でこっそり甘い菓子を食べていたとか、年老いた祭司の説教がいつも長すぎるとか。話はどれも小さく、時には同じことを繰り返しながら続いていく。


 アッシュはときどき短く相槌を打った。

「そうか」

「なるほど」

「そういうものか」


 だが大半は、ただ聞いているだけだった。特別に集中しているわけでも、拒んでいるわけでもない。火の光がエルセリアの横顔を柔らかく照らし、彼女の話し方はまるで呼吸のように自然だった。


 そこには不満も疑問もない。「どうして自分なのか」といった迷いも見えない。聖女に選ばれた日のことを語るときでさえ、彼女の声は驚くほど穏やかだった。


「みんな、とても喜んでくれたの」

 そう言って微笑む。

「私も……嬉しかった」

 恐れも、躊躇もない。


 アッシュはその様子を見ていて、ふと理解した。彼女は本当に、自分が何かを失ったとは思っていないのだ。彼女にとって使命は重荷でも鎖でもなく、ただそこにある空気のようなものだった。生まれた時から当たり前にそこにあり、疑う理由もないもの。


 一瞬、アッシュは尋ねかけた。

 ――君自身はどうなんだ。

 祈りと光の外で、別の人生を考えたことはなかったのか、と。


 だが結局、口にはしなかった。答えはもう分かっていたからだ。彼女は深く考えない。そういう習慣がない。天命を疑うことなど、日の昇りや月の満ち欠けを疑うのと同じくらい遠いことなのだろう。


 焚き火の勢いが次第に弱まり、夜が深くなる頃、エルセリアの声もようやく途切れた。簡素な行軍用の枕に寄りかかり、マントにくるまったまま、彼女は静かに眠りに落ちる。火の残り火がその顔に柔らかな影を落としていた。


 アッシュはしばらくそのまま座り、彼女の呼吸が落ち着いているのを確かめてから立ち上がった。


 野営地の反対側では、セイフィナが一人で焚き火のそばに座っている。王国騎士たちは少し離れたところで小声で話し、ラッセルは火の外側に立って周囲を見張っていた。彼はときどきアッシュの方をちらりと見るが、警戒というより、ただ彼がまだここにいることを確かめているようだった。歩き回ることを止める様子もない。


 アッシュはそのままセイフィナの方へ歩いていった。焚き火の光が二人のあいだに長い影を引く。


 彼女は顔を上げ、静かに目を細めた。

「……何か用?」


 アッシュは火の縁に立ったまま腰を下ろさない。

「儀式のことだ」


 セイフィナの目がわずかに沈む。

「やっと聞きに来たわね」


 否定も回避もしなかった。アッシュはまっすぐ尋ねる。

「どこまで知っている」


 薪が小さく弾けた。セイフィナは炎を見つめたまま答える。

「大して知らないわ。私たちは教皇使節の命令を受けただけ」


「本当の目的も?」


「知らない」

 彼女は顔を上げてアッシュを見る。

「でも、ただの封印の儀式じゃないことくらいは分かる」


 短い沈黙が落ちる。アッシュは続けて言った。

「あの日、俺たちを助けた」

 問い詰める声ではなく、確認だった。


 セイフィナは頷く。

「儀式がおかしかったから」

 言葉は迷いがなかった。


「それに、あなたと……あの方」

 少しだけ言葉を止める。

「本気だったでしょう」


 アッシュは何も言わない。


「聖下の想いも嘘ではないと思う。でも、それは……小さい頃から『そう愛するものだ』と教えられてきた感情に近いの」

 声に棘はない。

「彼女は生まれた時から神殿と使命しか知らない。自分で選ぶということを、まだ学んでいないのよ。 もしもっと早く諦められたなら、きっと傷も少なくて済んだでしょうね」


「儀式は、また行われると思うか」

 アッシュが問う。


 セイフィナは首を横に振る。

「聖遺物が行方不明になった。それに今回の件で騒ぎが大きくなりすぎた。王国と教国の関係も変わってしまった」


「聖女はもう政治に巻き込まれている。それでも教国へ戻す方が安全だと思うのか」


「ええ、」

 セイフィナは即座に答えた。

「彼女は象徴よ。象徴は自分の国に立たなければならない。もし王国に留まり続けたら、あなたが望もうと望むまいと、彼女は人質になる」


 そっと剣の柄に手を置く。

「オズモンド王子がきっぱり送り返す決断をしたのは、こちらにとってはむしろ助かること。儀式がまた行われるとしても……少なくとも今ではないでしょう。教皇使節が何を考えているのか、私には分からない。教国全体が何を狙っているのかも」


 彼女は顔を上げる。

「私は聖女騎士。使命はただ一つ、彼女を守ること」

 簡潔でまっすぐな言葉だった。野心も弁解もない。


 アッシュは長く沈黙してから、もう一つだけ問いを投げた。

「教皇使節の狙いは、何だと思う」


 セイフィナはすぐには答えない。焚き火の光が静かな目に映っている。


「……分からない」

 やがてそう言った。

「でも、もしかしたら彼が欲しいのは――あなたたちの『繋がり』かもしれない」


 空気が一瞬止まったように静まる。遠くでは王国騎士たちの低い話し声が続き、ラッセルがまたこちらを一度見た。


 セイフィナは立ち上がった。

「今夜は休みましょう。明日は山を越える」

 それからアッシュを見て言う。

「もう私はあなたたちのことに手を出さない。あの時は……必要だったから」


 背を向ける直前、淡く付け加える。

「もし本当に聖下のためを思うなら――彼女を、彼女のいるべき場所へ帰してあげて」


 焚き火はほとんど灰になっていた。

 アッシュは夜の中に立ち尽くし、何も答えなかった。

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