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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第十九章:帰還の道

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第190話 馬車の中

 城門の外は、朝よりもさらに冷たい風が吹いていた。


 馬車の前では鉄蹄が乾いた音を立てて地面を叩き、そのすぐ脇で聖女騎士と呼ばれる女性――セイフィナが一歩前へ出る。翻ったマントが空気を切り、動きには無駄がない。


 アッシュの姿を認めると、彼女は一瞬だけ鋭い視線を引っ込め、すぐに整った「外交用」の表情へと切り替えた。膝を軽く折り、教国式の礼を取る。その所作は端正で、いかにも周囲に見せるためのものだった。


「……ノアディス殿下。聖下はすでに車内でお待ちです」


 口調は恭しく整えられているが、抑えきれない強さと苛立ちがわずかに滲んでいる。礼も敬意からではなく、単に規律だからしている――そんな印象だった。


 後ろで腕を組んでいたラッセルが眉を寄せる。

「……そのへんでいい。長くやるな」


 セイフィナは眉を上げたが反論はしなかった。ラッセルは肩越しに城門の外を指す。

「同行は俺のほかに騎士が四名。後ろに補給用の荷車が一台つく。侍者もつけるから生活の世話はそっちに任せろ」


 セイフィナはもう一度礼をし、配置への謝意を示した。


 アッシュはそれを眺めながら、淡々と問いかける。

「行程は?」


 ラッセルはセイフィナにも聞かせるように答えた。

「四日から五日。天気が良ければ四日、遅れが出れば五日だ。教国の国境まで送るだけになる」

 そこで一度言葉を切り、やや低い声で付け加える。

「帰りは竜隊と合流する予定だ。……殿下が外にいる時間は、できるだけ短くする」


 アッシュは口を挟まず、ただ頭の中で日数を計算していた。

 最短四日。長くて五日。帰路に二日。

 ――七日。

 リメアとも、リゼリアとも、七日間離れることになる。

 その間、辺境堡の様子を確かめることもできない。二人の状況も分からない。セドリックが裏で何を仕掛けるのかさえ、まったく見えない。


 胸の奥に浮かんだ感情を押し込み、彼はただ頷いた。

「……分かった」


 セイフィナが一歩退き、馬車を示す。

「聖下がお待ちです。どうぞ、ノアディス殿下」


 アッシュは踏み台に足をかける。横に立つラッセルはもう警告を口にせず、ただ短く言った。

「早く乗れ。風が強い」


 アッシュは振り返らず、そのまま身をかがめて馬車の中へ入った。

 車内は思ったより暖かかった。半分開いたカーテンから淡い光が差し込み、奥の座席に座る少女の姿を照らしている。エルセリアは彼の姿を見た瞬間、ぱっと顔を明るくした。


「ノアディス!」

 ほとんど身を乗り出すようにして前へ傾く。その表情には、隠しようのない喜びがあった。

「やっぱり来てくれたのね」


 ほっとしたように笑い、言葉も少し早くなる。

「セイフィナがあなたは捕まっているって言うから、どれだけ大変な目に遭っているのかと思って……でも元気そうでよかった」


 アッシュは向かいの席に腰を下ろし、マントを横に払う。彼女の言う「大変な目」には答えず、ただ静かに聞いていた。


 エルセリアはさらに続ける。

「本当に嬉しいわ。あなたが来てくれて。オズモンド殿下にはちゃんと伝えたの。あなたが護送してくれないなら、私は帰らないって」

 その言い方は落ち着いているが、視線の奥には「あなたはきっと来てくれる」と信じて疑わない確信があった。


 アッシュはわずかに視線を落とす。

 彼女はふと思い出したように言った。


「でも安心して。あなたが国境までしか来られないことは分かっているわ。その先、教国の中までは一緒に来られないでしょう?」

 唇を軽く結び、小さく笑う。

「……ええ、分かってる。無理は言わないわ」


 言葉は従順でも、その奥には「いずれまた会える」という確信が隠れている。

 そのとき外からラッセルの号令が響いた。


「出発!」


 馬車が大きく揺れ、ゆっくりと動き出す。車輪が砂利を巻き上げる音とともに、辺境堡の城壁が窓の隙間から少しずつ遠ざかっていった。

 揺れを感じたエルセリアは、膝の上のドレスを軽く握る。


「ノアディス」

 声が少し柔らかくなる。

「ありがとう。本当は……来なくてもよかったのに」


 「君が望んだ」

 アッシュは窓辺の淡い光を見たまま答えた。

「約束したから来ただけだ」

 それだけだった。


 エルセリアの目がわずかに輝く。安堵したように息を吐き、穏やかに微笑んだ。


「……嬉しいわ」

 彼女は小さく呟く。

「本当に。あなたでよかった」


 馬車はそのまま進み続ける。彼らを教国の寒風と、まだ見えない国境へと運びながら。


 アッシュは胸の奥で静かに日数を数えていた。

 七日。

 七日だけだ。

 その七日が終われば、必ず戻る。

 それは誰に命じられたわけでもない――彼自身が決めたことだった。




 馬車は揺れながら街道を進み、車輪の軋む音が冬の終わりの風に響いていた。

 エルセリアは窓の外を眺めながら、車窓の木枠を指先でなぞる。まるで久しぶりに触れる世界を確かめるようだった。


「……巡回の布教で外へ出ることはあるけれど」

 霧のように柔らかな声で彼女は言う。

「こんなに遠くまで来たのは初めてなの」


 アッシュは彼女の横顔を見る。

「リュミエラ都市同盟のときか」


 エルセリアは頷いた。

「ええ。南へ向かう途中で、たくさんの景色を見たわ。海に続く港や、どこまでも続く緑の平原。それに、教国とはまるで違う賑やかな街……」

 微笑みが浮かぶ。

「本当はそれだけで十分だったの。セラウィンに少し滞在して、そのまま教国へ帰るつもりだった」


 アッシュは少し考えてから言った。

「そのとき、セイフィナから俺の話を聞いたと言っていたな。だが彼女はセラウィンで俺に会った。……君はなぜリュミエラにいた?」


 エルセリアの指がわずかに止まる。驚いた様子ではない。ただ、答えるかどうかを考えているようだった。

 やがて彼女は目を上げる。


「……実は、私はセラウィンには行かなかったの」

 静かな声だった。

「教皇使節が、私が疲れているからと言ってリュミエラで休ませたの。セイフィナだけを連れて、彼はセラウィンの舞踏会へ行った」


 アッシュの眉がほんのわずかに動く。


「数日後、セイフィナが戻ってきて……あなたに会ったと教えてくれた」

 彼女は柔らかく笑う。

「だから私、こっそり外へ出たの。あなたに会えるかもしれないと思って」


 アッシュは思い出していた。セラウィンの城下町で、リゼリアとともにセイフィナと出会った日のことを。そのとき彼は当然のように、聖女も同じ都市にいるのだと思っていた。

 だが実際に会ったのは――リュミエラだった。


 彼は低く問う。

「セラウィンに俺がいると知っていたのに、リュミエラで会うと思ったのか」


 エルセリアはすぐには答えなかった。膝の上で指を重ね、軽く組み合わせる。

「……教皇使節が言ったの」

 そして静かに口を開く。

「あなたは必ずリュミエラへ来ると」

「あなたが持っている箱が必要だと言っていた。当時は、中身が聖遺物だとは知らなかったけれど」


 アッシュの視線がわずかに沈む。

 箱。

 教皇使節は、かなり早い段階でその存在を知っていた。

 ならば彼はセラウィンで箱を奪うつもりだったのか。それとも――最初から狙いは自分だったのか。


 本来、箱はフィリシアが保管し、セラウィンへ送り、そこからエミールが王国へ持ち帰る予定だった。だが王国へ戻ったあと、誰に渡すつもりだったのか。あの時はそこまで考えなかった。


 箱には「竜王の秘宝」が入っていると言われていた。竜族を従える力を持つと伝わるもの。だからフィリシアも回収を求めなかったのだろう。早く本来の持ち主へ戻っただけだと思ったのかもしれない。


 思考を繋ぎ合わせようとしても、どこかがうまく噛み合わない。

 何か一つ、最初から置き場所を間違えた駒がある。


「ノアディス?」

 エルセリアの声が彼を引き戻した。彼女は少し身を乗り出している。

「顔色が良くないわ。馬車が息苦しい?」


 アッシュは思考を振り払い、首を振った。

「いや、平気だ」


 彼女は少しだけ彼を見つめ、それ以上は追及しなかった。代わりに話題を変える。

「そういえば、リュミエラの夜を覚えている? あの日はすごく寒くて……私、薄着すぎたのよ」


 それから彼女は、細かな思い出を語り始めた。城下町の灯り、屋台の甘い菓子、道端で花をくれた子どものこと。些細で取るに足らない話ばかりだが、それらは静かな水のように、彼の頭の中に残っていた疑問を少しずつ薄めていった。


 アッシュはもう追及しなかった。

 彼女が話せることは、すでに話しているのだと分かっていたからだ。


 そして話せないことは――この馬車の中にはない。

 車輪は回り続ける。

 前方には、雪解けの山道が伸びていた。

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