第190話 馬車の中
城門の外は、朝よりもさらに冷たい風が吹いていた。
馬車の前では鉄蹄が乾いた音を立てて地面を叩き、そのすぐ脇で聖女騎士と呼ばれる女性――セイフィナが一歩前へ出る。翻ったマントが空気を切り、動きには無駄がない。
アッシュの姿を認めると、彼女は一瞬だけ鋭い視線を引っ込め、すぐに整った「外交用」の表情へと切り替えた。膝を軽く折り、教国式の礼を取る。その所作は端正で、いかにも周囲に見せるためのものだった。
「……ノアディス殿下。聖下はすでに車内でお待ちです」
口調は恭しく整えられているが、抑えきれない強さと苛立ちがわずかに滲んでいる。礼も敬意からではなく、単に規律だからしている――そんな印象だった。
後ろで腕を組んでいたラッセルが眉を寄せる。
「……そのへんでいい。長くやるな」
セイフィナは眉を上げたが反論はしなかった。ラッセルは肩越しに城門の外を指す。
「同行は俺のほかに騎士が四名。後ろに補給用の荷車が一台つく。侍者もつけるから生活の世話はそっちに任せろ」
セイフィナはもう一度礼をし、配置への謝意を示した。
アッシュはそれを眺めながら、淡々と問いかける。
「行程は?」
ラッセルはセイフィナにも聞かせるように答えた。
「四日から五日。天気が良ければ四日、遅れが出れば五日だ。教国の国境まで送るだけになる」
そこで一度言葉を切り、やや低い声で付け加える。
「帰りは竜隊と合流する予定だ。……殿下が外にいる時間は、できるだけ短くする」
アッシュは口を挟まず、ただ頭の中で日数を計算していた。
最短四日。長くて五日。帰路に二日。
――七日。
リメアとも、リゼリアとも、七日間離れることになる。
その間、辺境堡の様子を確かめることもできない。二人の状況も分からない。セドリックが裏で何を仕掛けるのかさえ、まったく見えない。
胸の奥に浮かんだ感情を押し込み、彼はただ頷いた。
「……分かった」
セイフィナが一歩退き、馬車を示す。
「聖下がお待ちです。どうぞ、ノアディス殿下」
アッシュは踏み台に足をかける。横に立つラッセルはもう警告を口にせず、ただ短く言った。
「早く乗れ。風が強い」
アッシュは振り返らず、そのまま身をかがめて馬車の中へ入った。
車内は思ったより暖かかった。半分開いたカーテンから淡い光が差し込み、奥の座席に座る少女の姿を照らしている。エルセリアは彼の姿を見た瞬間、ぱっと顔を明るくした。
「ノアディス!」
ほとんど身を乗り出すようにして前へ傾く。その表情には、隠しようのない喜びがあった。
「やっぱり来てくれたのね」
ほっとしたように笑い、言葉も少し早くなる。
「セイフィナがあなたは捕まっているって言うから、どれだけ大変な目に遭っているのかと思って……でも元気そうでよかった」
アッシュは向かいの席に腰を下ろし、マントを横に払う。彼女の言う「大変な目」には答えず、ただ静かに聞いていた。
エルセリアはさらに続ける。
「本当に嬉しいわ。あなたが来てくれて。オズモンド殿下にはちゃんと伝えたの。あなたが護送してくれないなら、私は帰らないって」
その言い方は落ち着いているが、視線の奥には「あなたはきっと来てくれる」と信じて疑わない確信があった。
アッシュはわずかに視線を落とす。
彼女はふと思い出したように言った。
「でも安心して。あなたが国境までしか来られないことは分かっているわ。その先、教国の中までは一緒に来られないでしょう?」
唇を軽く結び、小さく笑う。
「……ええ、分かってる。無理は言わないわ」
言葉は従順でも、その奥には「いずれまた会える」という確信が隠れている。
そのとき外からラッセルの号令が響いた。
「出発!」
馬車が大きく揺れ、ゆっくりと動き出す。車輪が砂利を巻き上げる音とともに、辺境堡の城壁が窓の隙間から少しずつ遠ざかっていった。
揺れを感じたエルセリアは、膝の上のドレスを軽く握る。
「ノアディス」
声が少し柔らかくなる。
「ありがとう。本当は……来なくてもよかったのに」
「君が望んだ」
アッシュは窓辺の淡い光を見たまま答えた。
「約束したから来ただけだ」
それだけだった。
エルセリアの目がわずかに輝く。安堵したように息を吐き、穏やかに微笑んだ。
「……嬉しいわ」
彼女は小さく呟く。
「本当に。あなたでよかった」
馬車はそのまま進み続ける。彼らを教国の寒風と、まだ見えない国境へと運びながら。
アッシュは胸の奥で静かに日数を数えていた。
七日。
七日だけだ。
その七日が終われば、必ず戻る。
それは誰に命じられたわけでもない――彼自身が決めたことだった。
馬車は揺れながら街道を進み、車輪の軋む音が冬の終わりの風に響いていた。
エルセリアは窓の外を眺めながら、車窓の木枠を指先でなぞる。まるで久しぶりに触れる世界を確かめるようだった。
「……巡回の布教で外へ出ることはあるけれど」
霧のように柔らかな声で彼女は言う。
「こんなに遠くまで来たのは初めてなの」
アッシュは彼女の横顔を見る。
「リュミエラ都市同盟のときか」
エルセリアは頷いた。
「ええ。南へ向かう途中で、たくさんの景色を見たわ。海に続く港や、どこまでも続く緑の平原。それに、教国とはまるで違う賑やかな街……」
微笑みが浮かぶ。
「本当はそれだけで十分だったの。セラウィンに少し滞在して、そのまま教国へ帰るつもりだった」
アッシュは少し考えてから言った。
「そのとき、セイフィナから俺の話を聞いたと言っていたな。だが彼女はセラウィンで俺に会った。……君はなぜリュミエラにいた?」
エルセリアの指がわずかに止まる。驚いた様子ではない。ただ、答えるかどうかを考えているようだった。
やがて彼女は目を上げる。
「……実は、私はセラウィンには行かなかったの」
静かな声だった。
「教皇使節が、私が疲れているからと言ってリュミエラで休ませたの。セイフィナだけを連れて、彼はセラウィンの舞踏会へ行った」
アッシュの眉がほんのわずかに動く。
「数日後、セイフィナが戻ってきて……あなたに会ったと教えてくれた」
彼女は柔らかく笑う。
「だから私、こっそり外へ出たの。あなたに会えるかもしれないと思って」
アッシュは思い出していた。セラウィンの城下町で、リゼリアとともにセイフィナと出会った日のことを。そのとき彼は当然のように、聖女も同じ都市にいるのだと思っていた。
だが実際に会ったのは――リュミエラだった。
彼は低く問う。
「セラウィンに俺がいると知っていたのに、リュミエラで会うと思ったのか」
エルセリアはすぐには答えなかった。膝の上で指を重ね、軽く組み合わせる。
「……教皇使節が言ったの」
そして静かに口を開く。
「あなたは必ずリュミエラへ来ると」
「あなたが持っている箱が必要だと言っていた。当時は、中身が聖遺物だとは知らなかったけれど」
アッシュの視線がわずかに沈む。
箱。
教皇使節は、かなり早い段階でその存在を知っていた。
ならば彼はセラウィンで箱を奪うつもりだったのか。それとも――最初から狙いは自分だったのか。
本来、箱はフィリシアが保管し、セラウィンへ送り、そこからエミールが王国へ持ち帰る予定だった。だが王国へ戻ったあと、誰に渡すつもりだったのか。あの時はそこまで考えなかった。
箱には「竜王の秘宝」が入っていると言われていた。竜族を従える力を持つと伝わるもの。だからフィリシアも回収を求めなかったのだろう。早く本来の持ち主へ戻っただけだと思ったのかもしれない。
思考を繋ぎ合わせようとしても、どこかがうまく噛み合わない。
何か一つ、最初から置き場所を間違えた駒がある。
「ノアディス?」
エルセリアの声が彼を引き戻した。彼女は少し身を乗り出している。
「顔色が良くないわ。馬車が息苦しい?」
アッシュは思考を振り払い、首を振った。
「いや、平気だ」
彼女は少しだけ彼を見つめ、それ以上は追及しなかった。代わりに話題を変える。
「そういえば、リュミエラの夜を覚えている? あの日はすごく寒くて……私、薄着すぎたのよ」
それから彼女は、細かな思い出を語り始めた。城下町の灯り、屋台の甘い菓子、道端で花をくれた子どものこと。些細で取るに足らない話ばかりだが、それらは静かな水のように、彼の頭の中に残っていた疑問を少しずつ薄めていった。
アッシュはもう追及しなかった。
彼女が話せることは、すでに話しているのだと分かっていたからだ。
そして話せないことは――この馬車の中にはない。
車輪は回り続ける。
前方には、雪解けの山道が伸びていた。




