第189話 教国への帰還
朝の空気は、まだ溶けきらない霜のように冷え切っていた。アッシュは兵士に連れられて簡素だが清潔な浴室へ通され、入口の外には二人の騎士が黙って立っている。急かされることも、声を掛けられることもない。ただ静かな見張りの気配だけがそこにあった。
牢の埃を洗い流すように、彼は冷たい水を頭から浴びる。背中を流れる水は鋭く冷たく、肌を刺すようだったが、胸の奥に沈んだ重さだけは少しも軽くならなかった。
浴室を出ると、そのまま隣の更衣室へ通される。牢とは違い、そこは妙なほど整っていて、むしろ落ち着かないほどだった。
テーブルの上には深い藍色の外衣が丁寧に畳まれて置かれている。銀糸の刺繍が袖口に細かく入り、襟は硬く整えられていて、ひと目で高価な品だと分かった。
アッシュは眉をひそめる。
「……これは何だ?」
すぐに侍従が近づき、慣れた手つきで衣服を広げながら慎重な口調で答えた。
「オズモンド殿下から、必ずこちらをお召しになるようにと……。聖女殿下を教国まで護送する任務ですので、体面を整える必要があるとのことです」
こんな服を最後に着たのは、いつだったか思い出せない。ここ数年、彼の衣服といえば軍服か鎧ばかりだった。
久しぶりに袖を通すと、それはまるで長いあいだ脱ぎ捨てていた皮膚を、無理やりもう一度まとわされたような感覚だった。懐かしさよりも、むしろ強い違和感が残る。
侍従が腰帯を締め、裾を整えながら言う。
「どこか着心地の悪いところがありましたら——」
「問題ない」
アッシュは低く遮った。
服は硬く、新しすぎて体に馴染まない。戦場で自由に動くための装備というより、むしろ「見せるための衣装」に近い。それでも、教国で着せられたあの白い法衣よりはまだましだと、心のどこかで自嘲した。
侍従が下がると、扉のところで腕を組んでいたラッセルがしばらく彼を眺めていた。
「……やっと王子らしく見えるな」
遠慮のない皮肉だった。
アッシュは眉を寄せる。
「くだらないことを言うな」
「お前、ずっと鎧か軍服しか着てなかっただろ。こんな格好できるのを忘れてた」
ラッセルは鼻を鳴らした。
「まあ、案外似合ってるじゃないか」
アッシュはちらりと一瞥しただけで何も言い返さない。その時、廊下の向こうから軽い声が聞こえてきた。
「朝から元気だねえ、二人とも」
振り返ると、セドリックがゆっくり歩いてくるところだった。足取りは酒でも飲んだかのように気楽だが、その目だけは鋭く、場の空気をすべて見通しているようだった。
ラッセルが眉をひそめる。
「……いつからそこにいた」
「君たちが言い合いを始めたあたりから」
セドリックは微笑む。
「いいね。殿下の調子は悪くなさそうだ」
アッシュは何も言わなかった。
ラッセルは小さく息を吐いて話を戻す。
「……まあいい。状況はだいたい分かってるだろ。俺たちは聖女を教国の国境まで送り届ける」
視線がアッシュに向く。
「逃げるなよ」
アッシュは一瞬視線を落とし、静かに言った。
「逃げない」
その言葉には、奇妙なほど重みがあった。
ラッセルは眉を上げる。
「よく言う。お前は誰より逃げ足が速い」
その横でセドリックが、まるで当然のことを確認するように笑った。
「ラッセル、彼の言うことは本当だよ」
軽い調子だったが、言葉は妙にはっきりしている。
「彼は逃げない。——戻ってくる理由があるからね」
ラッセルは苛立った顔で振り返った。
「そういう分かりにくい言い方をするな」
アッシュは否定もしなければ、何も説明もしない。ただ視線を少し伏せ、誰にもその意味を読み取らせないようにした。
ラッセルは咳払いをして空気を切り替える。
「……とにかく出発だ。エルセリア嬢はもう馬車で待っている。これ以上待たせるな」
セドリックはわずかに笑った。
「では行こうか。我らが王子殿下」
アッシュは小さく息を吐き、これ以上会話に加わる気はないというように歩き出した。
セドリックはその背を見て楽しそうに笑う。
「ほら、行こう。早く行って早く戻らないとね」
ラッセルは冷たく鼻を鳴らす。
「時間を引き延ばしてるのはお前だろ」
セドリックは肩をすくめただけだった。
三人はそのまま城門へ向かう石畳を歩く。
朝の光を受けて白く光る石の道は冷たく、足元から寒さが這い上がってくる。それでも胸の奥の圧迫感の方がずっと重かった。
歩きながらラッセルが言う。
「手順は単純だ。俺たちが聖女を教国の国境まで送り、向こうの騎士団に引き渡す。お前は馬車に乗る。途中で隊列を離れることは許さない」
命令を読み上げるような声だった。
アッシュは黙って頷く。
ラッセルは彼を横目で見た。
「いいか。途中で逃げたら、その場で捕まえて王都に引きずり戻す」
アッシュは静かに尋ねた。
「……決まったのか。本当に俺が送るのか」
「ああ」
ラッセルは即答した。
「エルセリア嬢の条件だ。お前が同行しなければ王国を出ないと言われた。無理やり追い出すわけにもいかないから、オズモンド殿下が折れた」
最後の一言を言うとき、彼の眉がほんのわずかに動いた。
城門の外にはすでに馬車が待っていた。深い青緑の車体に整った紋章、周囲を四人の騎士が囲んでいる。
あと一歩踏み出せば、そこに乗るだけだ。
アッシュは階段の上で立ち止まり、遠くの城壁を見た。そこには誰の姿もない。彼はもう何も求めなかったし、誰かに会わせてくれとも言わなかった。答えは、二日目の時点でもう分かっていたからだ。
「……乗れ」
ラッセルが言う。
アッシュは深く息を吸い、馬車へ向かって歩き出した。ラッセルもその後ろに続くが、歩調はいつもよりわずかに遅い。何か言おうとしているのか、それとも言うのをやめたのかは分からなかった。
セドリックは横に退いて道を空けると、アッシュの肩越しに静かに声をかけた。
「……待ってるよ」
笑みもなく、ただ淡々とした声だった。その言葉は羽のように軽く聞こえたが、空気に落ちたとき妙に重かった。まるで期待ではなく、すでに決まっている結果を告げているようだった。
ラッセルはちらりと彼を見て眉をしかめる。
「……一応言っておく」
ぶっきらぼうな声だった。
「オズモンド殿下は、お前たちが戻るまで王都へ帰らないと言ってる。竜隊も一緒に待機だ」
そしてアッシュを見た。
「だから待つのは殿下だけじゃない。……全員だ」
アッシュは何も言わなかった。ただ短くラッセルを見て、その意味も重さも受け止めるように頷いた。
それから一歩、足を踏み出し——馬車へ向かった。




