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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第十九章:帰還の道

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第189話 教国への帰還

 朝の空気は、まだ溶けきらない霜のように冷え切っていた。アッシュは兵士に連れられて簡素だが清潔な浴室へ通され、入口の外には二人の騎士が黙って立っている。急かされることも、声を掛けられることもない。ただ静かな見張りの気配だけがそこにあった。


 牢の埃を洗い流すように、彼は冷たい水を頭から浴びる。背中を流れる水は鋭く冷たく、肌を刺すようだったが、胸の奥に沈んだ重さだけは少しも軽くならなかった。


 浴室を出ると、そのまま隣の更衣室へ通される。牢とは違い、そこは妙なほど整っていて、むしろ落ち着かないほどだった。


 テーブルの上には深い藍色の外衣が丁寧に畳まれて置かれている。銀糸の刺繍が袖口に細かく入り、襟は硬く整えられていて、ひと目で高価な品だと分かった。


 アッシュは眉をひそめる。

「……これは何だ?」


 すぐに侍従が近づき、慣れた手つきで衣服を広げながら慎重な口調で答えた。

「オズモンド殿下から、必ずこちらをお召しになるようにと……。聖女殿下を教国まで護送する任務ですので、体面を整える必要があるとのことです」


 こんな服を最後に着たのは、いつだったか思い出せない。ここ数年、彼の衣服といえば軍服か鎧ばかりだった。

 久しぶりに袖を通すと、それはまるで長いあいだ脱ぎ捨てていた皮膚を、無理やりもう一度まとわされたような感覚だった。懐かしさよりも、むしろ強い違和感が残る。


 侍従が腰帯を締め、裾を整えながら言う。

「どこか着心地の悪いところがありましたら——」


「問題ない」

 アッシュは低く遮った。


 服は硬く、新しすぎて体に馴染まない。戦場で自由に動くための装備というより、むしろ「見せるための衣装」に近い。それでも、教国で着せられたあの白い法衣よりはまだましだと、心のどこかで自嘲した。


 侍従が下がると、扉のところで腕を組んでいたラッセルがしばらく彼を眺めていた。

「……やっと王子らしく見えるな」

 遠慮のない皮肉だった。


 アッシュは眉を寄せる。

「くだらないことを言うな」


「お前、ずっと鎧か軍服しか着てなかっただろ。こんな格好できるのを忘れてた」

 ラッセルは鼻を鳴らした。

「まあ、案外似合ってるじゃないか」


 アッシュはちらりと一瞥しただけで何も言い返さない。その時、廊下の向こうから軽い声が聞こえてきた。


「朝から元気だねえ、二人とも」


 振り返ると、セドリックがゆっくり歩いてくるところだった。足取りは酒でも飲んだかのように気楽だが、その目だけは鋭く、場の空気をすべて見通しているようだった。


 ラッセルが眉をひそめる。

「……いつからそこにいた」


「君たちが言い合いを始めたあたりから」

 セドリックは微笑む。

「いいね。殿下の調子は悪くなさそうだ」


 アッシュは何も言わなかった。

 ラッセルは小さく息を吐いて話を戻す。


「……まあいい。状況はだいたい分かってるだろ。俺たちは聖女を教国の国境まで送り届ける」

 視線がアッシュに向く。

「逃げるなよ」


 アッシュは一瞬視線を落とし、静かに言った。

「逃げない」

 その言葉には、奇妙なほど重みがあった。


 ラッセルは眉を上げる。

「よく言う。お前は誰より逃げ足が速い」


 その横でセドリックが、まるで当然のことを確認するように笑った。

「ラッセル、彼の言うことは本当だよ」

 軽い調子だったが、言葉は妙にはっきりしている。

「彼は逃げない。——戻ってくる理由があるからね」


 ラッセルは苛立った顔で振り返った。

「そういう分かりにくい言い方をするな」


 アッシュは否定もしなければ、何も説明もしない。ただ視線を少し伏せ、誰にもその意味を読み取らせないようにした。


 ラッセルは咳払いをして空気を切り替える。

「……とにかく出発だ。エルセリア嬢はもう馬車で待っている。これ以上待たせるな」


 セドリックはわずかに笑った。

「では行こうか。我らが王子殿下」


 アッシュは小さく息を吐き、これ以上会話に加わる気はないというように歩き出した。


 セドリックはその背を見て楽しそうに笑う。

「ほら、行こう。早く行って早く戻らないとね」


 ラッセルは冷たく鼻を鳴らす。

「時間を引き延ばしてるのはお前だろ」


 セドリックは肩をすくめただけだった。




 三人はそのまま城門へ向かう石畳を歩く。

 朝の光を受けて白く光る石の道は冷たく、足元から寒さが這い上がってくる。それでも胸の奥の圧迫感の方がずっと重かった。


 歩きながらラッセルが言う。

「手順は単純だ。俺たちが聖女を教国の国境まで送り、向こうの騎士団に引き渡す。お前は馬車に乗る。途中で隊列を離れることは許さない」

 命令を読み上げるような声だった。


 アッシュは黙って頷く。

 ラッセルは彼を横目で見た。

「いいか。途中で逃げたら、その場で捕まえて王都に引きずり戻す」


 アッシュは静かに尋ねた。

「……決まったのか。本当に俺が送るのか」


「ああ」

 ラッセルは即答した。

「エルセリア嬢の条件だ。お前が同行しなければ王国を出ないと言われた。無理やり追い出すわけにもいかないから、オズモンド殿下が折れた」

 最後の一言を言うとき、彼の眉がほんのわずかに動いた。


 城門の外にはすでに馬車が待っていた。深い青緑の車体に整った紋章、周囲を四人の騎士が囲んでいる。

 あと一歩踏み出せば、そこに乗るだけだ。


 アッシュは階段の上で立ち止まり、遠くの城壁を見た。そこには誰の姿もない。彼はもう何も求めなかったし、誰かに会わせてくれとも言わなかった。答えは、二日目の時点でもう分かっていたからだ。


「……乗れ」

 ラッセルが言う。


 アッシュは深く息を吸い、馬車へ向かって歩き出した。ラッセルもその後ろに続くが、歩調はいつもよりわずかに遅い。何か言おうとしているのか、それとも言うのをやめたのかは分からなかった。


 セドリックは横に退いて道を空けると、アッシュの肩越しに静かに声をかけた。


「……待ってるよ」


 笑みもなく、ただ淡々とした声だった。その言葉は羽のように軽く聞こえたが、空気に落ちたとき妙に重かった。まるで期待ではなく、すでに決まっている結果を告げているようだった。


 ラッセルはちらりと彼を見て眉をしかめる。


「……一応言っておく」

 ぶっきらぼうな声だった。

「オズモンド殿下は、お前たちが戻るまで王都へ帰らないと言ってる。竜隊も一緒に待機だ」

 そしてアッシュを見た。

「だから待つのは殿下だけじゃない。……全員だ」


 アッシュは何も言わなかった。ただ短くラッセルを見て、その意味も重さも受け止めるように頷いた。

 それから一歩、足を踏み出し——馬車へ向かった。

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