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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第十九章:帰還の道

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第188話 牢獄の盤面

 セドリックの笑みは鋭いものではなかった。だがその奥には、底の見えない計算が潜んでいるのが分かる。


 アッシュはその笑みを見た瞬間、一つのことを悟っていた。

 ――この男も、教国と同じ考えに辿り着いている。自分を「竜族を支配する鍵」として見ているのだ。


 胸の奥に、ひやりとした冷えが走る。

(……滑稽だ)


 彼は誰よりもよく知っている。竜族には「王」などいない。ただ長い習慣の中で王国の空に留まっているだけで、誰かに支配されているわけではない。だが人間たちが「竜は彼に従う」と信じているのなら、それはそれで一枚の札になる。

 ――この事実は、まだ誰にも明かすつもりはなかった。


 アッシュは視線を上げ、セドリックを真っ直ぐ見据えた。

「お前が俺に何を望んでいるのかは分からない」

 低い声だったが、迷いはない。


「だが、俺の望みは単純だ」

 牢の灯りがかすかに揺れる。影のように静かな声で、彼は続けた。

「自由がほしい。リメアを連れて東へ行く。……そこへ行けと、アエクセリオンは言った」


 それは表向きの願いだった。リゼリアの名は出さない。

 ――意図的に。


 セドリックはわずかに眉を上げたが、すぐに肩をすくめるように言った。

「構わないよ」


 アッシュは思わず目を瞬かせる。

 セドリックは杯を木箱の上に置き、あまりにも自然な口調で続けた。

「すべて終わったあとならね。その頃には、君がどこへ行こうと……俺は気にしない」


 アッシュは眉をひそめた。

「……お前は俺を王にするつもりじゃなかったのか」


「もちろん、そのつもりだ」

 答えはあまりにもあっさりしていた。


 牢の中に短い沈黙が落ちる。

 アッシュはセドリックを見つめた。


 二つの願いは同時に成立しない。

 王になれば自由にはなれないし、自由を選べば王にはなれない。

 あまりにも明白な矛盾だった。


 セドリックは頬杖をつきながら彼を見ていた。その視線はまるで、圧力をかければ自然に形を現す原石でも観察しているかのようで、アッシュはわずかな不快感を覚える。


 その時、セドリックがふいに膝を叩いて立ち上がった。

「ノアディス」

 楽しげな声だった。

「君は本当に面白い」


 軽く笑いながら続ける。

「いつも予想外のことをする。……だが結局、最後には俺の盤の上に戻ってくる」


 アッシュも立ち上がった。

「もう帰るのか。まだ話は終わっていない」


 セドリックは鉄扉の外にある灯りの覆いを開け、炎を少し強くする。


「まだやることが残っている」

 振り返りもせずに言った。

「聖女を送り出すことが決まったら、また来るよ」


 そう言って歩き出したが、途中でふと足を止め、思い出したように振り向いた。

「そういえば」

 曖昧な手振りをしながら言う。

「前にいたよね。声が綺麗で、なかなか弁の立つお嬢さんが。ずっと君の側にいた」


 アッシュの顔がわずかに曇る。

 嘘はつけない。だが動揺も見せられない。

「……ライラックだ。魔物使いで、まだこの城にいる」


「ほう?」

 セドリックは軽く口笛を吹いた。欠けていた盤の駒が、ようやくぴたりとはまったような顔だった。


「なるほど」

 それだけ言うと、彼は鉄扉を閉めた。

 もうアッシュを振り返ることもない。


 門の閂が落ちた瞬間、アッシュの喉元まで「彼女には手を出すな」という言葉が込み上げた。だが彼はそれを飲み込んだ。余計な一言こそ、彼女を深く巻き込むと分かっていたからだ。


 アッシュは黙って壁際へ戻り、腰を下ろした。牢の中には揺れる灯火だけが残る。


(……自由)

(俺は、自分の手で道を切り開く)


 胸元の本魂の鱗が微かに脈打っていた。彼はその上に手を重ね、唯一の確かなものを守るように目を閉じた。

 夜は、次の一手を待つように静かだった。


 それから長い静寂が続いた。

 セドリックが去ったあと、アッシュは少なくとも誰かが尋問に来ると思っていた。態度を探る者が来るはずだと。しかし何も起こらなかった。


 一日目。

 兵士は来ない。遠くで巡回の足音がかすかに聞こえるだけで、まるでこの牢房だけを避けているようだった。


 二日目。

 状況は変わらない。食事は扉の前に置かれるが、誰も声をかけない。様子を見に来る者もいない。まるで城そのものが、意図的に彼を「忘れた」かのようだった。


 アッシュは石の寝台に座り、壁に伸びていく影をぼんやりと見ていた。

 彼を不安にさせるのは沈黙そのものではない。――何も分からないことだった。


 リゼリアは今どこにいるのか。

 セドリックは彼女に接触したのか。

 彼女は、自分でも知らない政治の糸に巻き込まれてはいないか。


 それらは、この牢よりもずっと重く胸にのしかかる。

 アッシュは鉄扉の外の灰色の灯りを見つめた。彼女が無事かどうかも分からない。巻き込まれていないのかも分からない。セドリックがすでに何か手を打ったのかさえ分からない。


 あまりにも静かだった。

 静かすぎて、むしろ嵐の前の空気のようだった。


 そして三日目の朝、ついに鎖が動いた。

 鉄扉が開くと、斜めから灰色の朝の光が差し込む。入口に立っていたのはラッセルだった。ここ数日よりさらに固い表情をしている。


「……いいだろう。出ろ」

 声は低いが、有無を言わせない響きだった。


 アッシュは立ち上がり、外へ出る。すぐに二人の騎士が近づき、丁寧だが迷いのない動きで彼を挟んだ。


「洗わせて、服を替えさせろ」

 ラッセルが短く命じる。


 アッシュは二人の騎士に導かれて暗い石の通路を進んだ。外気は少し暖かかったが、胸の重さは消えない。


 「……決まったのか」

 階段の手前で、彼はようやく口を開いた。

「エルセリアを教国へ送る護衛役を、俺にさせるつもりなんだな」


 ラッセルは足を止めず、ただ頷いた。

「ああ。決定だ。騎士隊を編成して同行する。余計な問題を起こさないためにな」

 その声にはわずかな疲労が滲んでいた。外交と軍事の火薬が混じる任務に、本人も頭を痛めているのだろう。


 アッシュは半拍おいて尋ねる。

「……お前も来るのか」


「当然だ」

 ラッセルは淡々と答えた。

「お前を他人に任せる気はない」

 それは気遣いでも命令でもなく、「お前が厄介を起こさないよう自分で見張る」という響きだった。廊下の火盆の光が彼の横顔を照らし、輪郭をさらに硬く見せる。


 数歩進んで、アッシュはもう一度口を開いた。

「……リメアは?」


 ラッセルは振り返らなかったが、足がわずかに止まった。

「竜補士が面倒を見ている」

 短く答える。

「放ってはおかない」


 アッシュは視線を落とした。喉元まで出かかった言葉を飲み込む。彼が本当に聞きたいのは、別の名前だった。


 リゼリア。

 だがその名を、今ここで口にしていいのか分からない。


 ラッセルは彼を横目でちらりと見た。その視線には苛立ちと諦め、そして「分かっているが言わせない」という抑えが混じっていた。

 そして低く言う。

「……あいつは無事だ」


 アッシュの心臓が一瞬止まる。


 ラッセルはさらに冷たい声で続けた。

「お前が大人しく従う限りはな。……あいつは無事だ」

 それは脅しというより、残酷な現実を突きつける声だった。


 アッシュは何も言い返さない。怒りも見せない。ただ静かに息を整えると、そのまま階段を上り始めた。

 まるで、自分では変えられない運命を受け入れたかのように。

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