第188話 牢獄の盤面
セドリックの笑みは鋭いものではなかった。だがその奥には、底の見えない計算が潜んでいるのが分かる。
アッシュはその笑みを見た瞬間、一つのことを悟っていた。
――この男も、教国と同じ考えに辿り着いている。自分を「竜族を支配する鍵」として見ているのだ。
胸の奥に、ひやりとした冷えが走る。
(……滑稽だ)
彼は誰よりもよく知っている。竜族には「王」などいない。ただ長い習慣の中で王国の空に留まっているだけで、誰かに支配されているわけではない。だが人間たちが「竜は彼に従う」と信じているのなら、それはそれで一枚の札になる。
――この事実は、まだ誰にも明かすつもりはなかった。
アッシュは視線を上げ、セドリックを真っ直ぐ見据えた。
「お前が俺に何を望んでいるのかは分からない」
低い声だったが、迷いはない。
「だが、俺の望みは単純だ」
牢の灯りがかすかに揺れる。影のように静かな声で、彼は続けた。
「自由がほしい。リメアを連れて東へ行く。……そこへ行けと、アエクセリオンは言った」
それは表向きの願いだった。リゼリアの名は出さない。
――意図的に。
セドリックはわずかに眉を上げたが、すぐに肩をすくめるように言った。
「構わないよ」
アッシュは思わず目を瞬かせる。
セドリックは杯を木箱の上に置き、あまりにも自然な口調で続けた。
「すべて終わったあとならね。その頃には、君がどこへ行こうと……俺は気にしない」
アッシュは眉をひそめた。
「……お前は俺を王にするつもりじゃなかったのか」
「もちろん、そのつもりだ」
答えはあまりにもあっさりしていた。
牢の中に短い沈黙が落ちる。
アッシュはセドリックを見つめた。
二つの願いは同時に成立しない。
王になれば自由にはなれないし、自由を選べば王にはなれない。
あまりにも明白な矛盾だった。
セドリックは頬杖をつきながら彼を見ていた。その視線はまるで、圧力をかければ自然に形を現す原石でも観察しているかのようで、アッシュはわずかな不快感を覚える。
その時、セドリックがふいに膝を叩いて立ち上がった。
「ノアディス」
楽しげな声だった。
「君は本当に面白い」
軽く笑いながら続ける。
「いつも予想外のことをする。……だが結局、最後には俺の盤の上に戻ってくる」
アッシュも立ち上がった。
「もう帰るのか。まだ話は終わっていない」
セドリックは鉄扉の外にある灯りの覆いを開け、炎を少し強くする。
「まだやることが残っている」
振り返りもせずに言った。
「聖女を送り出すことが決まったら、また来るよ」
そう言って歩き出したが、途中でふと足を止め、思い出したように振り向いた。
「そういえば」
曖昧な手振りをしながら言う。
「前にいたよね。声が綺麗で、なかなか弁の立つお嬢さんが。ずっと君の側にいた」
アッシュの顔がわずかに曇る。
嘘はつけない。だが動揺も見せられない。
「……ライラックだ。魔物使いで、まだこの城にいる」
「ほう?」
セドリックは軽く口笛を吹いた。欠けていた盤の駒が、ようやくぴたりとはまったような顔だった。
「なるほど」
それだけ言うと、彼は鉄扉を閉めた。
もうアッシュを振り返ることもない。
門の閂が落ちた瞬間、アッシュの喉元まで「彼女には手を出すな」という言葉が込み上げた。だが彼はそれを飲み込んだ。余計な一言こそ、彼女を深く巻き込むと分かっていたからだ。
アッシュは黙って壁際へ戻り、腰を下ろした。牢の中には揺れる灯火だけが残る。
(……自由)
(俺は、自分の手で道を切り開く)
胸元の本魂の鱗が微かに脈打っていた。彼はその上に手を重ね、唯一の確かなものを守るように目を閉じた。
夜は、次の一手を待つように静かだった。
それから長い静寂が続いた。
セドリックが去ったあと、アッシュは少なくとも誰かが尋問に来ると思っていた。態度を探る者が来るはずだと。しかし何も起こらなかった。
一日目。
兵士は来ない。遠くで巡回の足音がかすかに聞こえるだけで、まるでこの牢房だけを避けているようだった。
二日目。
状況は変わらない。食事は扉の前に置かれるが、誰も声をかけない。様子を見に来る者もいない。まるで城そのものが、意図的に彼を「忘れた」かのようだった。
アッシュは石の寝台に座り、壁に伸びていく影をぼんやりと見ていた。
彼を不安にさせるのは沈黙そのものではない。――何も分からないことだった。
リゼリアは今どこにいるのか。
セドリックは彼女に接触したのか。
彼女は、自分でも知らない政治の糸に巻き込まれてはいないか。
それらは、この牢よりもずっと重く胸にのしかかる。
アッシュは鉄扉の外の灰色の灯りを見つめた。彼女が無事かどうかも分からない。巻き込まれていないのかも分からない。セドリックがすでに何か手を打ったのかさえ分からない。
あまりにも静かだった。
静かすぎて、むしろ嵐の前の空気のようだった。
そして三日目の朝、ついに鎖が動いた。
鉄扉が開くと、斜めから灰色の朝の光が差し込む。入口に立っていたのはラッセルだった。ここ数日よりさらに固い表情をしている。
「……いいだろう。出ろ」
声は低いが、有無を言わせない響きだった。
アッシュは立ち上がり、外へ出る。すぐに二人の騎士が近づき、丁寧だが迷いのない動きで彼を挟んだ。
「洗わせて、服を替えさせろ」
ラッセルが短く命じる。
アッシュは二人の騎士に導かれて暗い石の通路を進んだ。外気は少し暖かかったが、胸の重さは消えない。
「……決まったのか」
階段の手前で、彼はようやく口を開いた。
「エルセリアを教国へ送る護衛役を、俺にさせるつもりなんだな」
ラッセルは足を止めず、ただ頷いた。
「ああ。決定だ。騎士隊を編成して同行する。余計な問題を起こさないためにな」
その声にはわずかな疲労が滲んでいた。外交と軍事の火薬が混じる任務に、本人も頭を痛めているのだろう。
アッシュは半拍おいて尋ねる。
「……お前も来るのか」
「当然だ」
ラッセルは淡々と答えた。
「お前を他人に任せる気はない」
それは気遣いでも命令でもなく、「お前が厄介を起こさないよう自分で見張る」という響きだった。廊下の火盆の光が彼の横顔を照らし、輪郭をさらに硬く見せる。
数歩進んで、アッシュはもう一度口を開いた。
「……リメアは?」
ラッセルは振り返らなかったが、足がわずかに止まった。
「竜補士が面倒を見ている」
短く答える。
「放ってはおかない」
アッシュは視線を落とした。喉元まで出かかった言葉を飲み込む。彼が本当に聞きたいのは、別の名前だった。
リゼリア。
だがその名を、今ここで口にしていいのか分からない。
ラッセルは彼を横目でちらりと見た。その視線には苛立ちと諦め、そして「分かっているが言わせない」という抑えが混じっていた。
そして低く言う。
「……あいつは無事だ」
アッシュの心臓が一瞬止まる。
ラッセルはさらに冷たい声で続けた。
「お前が大人しく従う限りはな。……あいつは無事だ」
それは脅しというより、残酷な現実を突きつける声だった。
アッシュは何も言い返さない。怒りも見せない。ただ静かに息を整えると、そのまま階段を上り始めた。
まるで、自分では変えられない運命を受け入れたかのように。




