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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第十九章:帰還の道

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第187話 教国の狙い

 鉄の扉が押し開かれると、鈍い金属の軋みが石壁の間に重く響いた。

 アッシュが顔を上げると、そこにはセドリックが立っていた。片手に木箱を提げ、歩きながら鍵を守衛の手のひらへ放り投げる。


「君は昔から静かだよな」

 馴れ馴れしくも遠慮のない口調でそう言いながら、彼は中へ入ってくる。

「昔、竜の背中から落ちて肋骨を三本折ったときも、君は一声も上げなかった。今こうして牢に入れられていても、相変わらず驚くほど静かだ」


 アッシュは何も答えない。

 セドリックも気にした様子はなく、まるで友人を訪ねてきたかのような気軽さで彼の前に腰を下ろした。


 木箱を開くと、中には焼きたての黒パンと湯気の立つ温かなスープ、小さな酒壺が入っていた。セドリックはパンを取り出して差し出す。アッシュは一瞬だけ迷ったが、結局それを受け取った。


「毒は怖くないのか?」

 セドリックが眉を上げる。

「牢の中で王族が毒殺されるなんて、珍しい話じゃないだろう?」


 アッシュは静かに答えた。

「毒を盛る気なら、一年前にやっていたはずだ。あの妙な薬を飲ませたときにな」


 セドリックはくすりと笑う。

「ただの睡眠薬だったかもしれないじゃないか」

 そう言って酒壺を二人の間に置く。

「もしそうだったら、君が目を覚ます頃には……王都の檻の中だっただろうけどね」


 アッシュは半ば目を細めた。

「やっぱり、そういう薬があることは知っているんだな」


 セドリックは否定せず、肩をすくめるだけだった。


 アッシュは低く続ける。

「だから兄上が目を覚ますことも、分かっていた」


 セドリックの笑みは楽しげというより、妙に落ち着き払ったものだった。

「十割の確信があったわけじゃないさ」

 彼は酒を杯に注ぎながら、指先で机を軽く叩く。

「どれくらいの量を盛られたか分からなかったからね。とはいえ――聖女がいるだろう?」


 まるで些細な話をするような口調だった。

「もし目を覚まさなくても、聖女に診てもらえばいい。どうせ目は覚める。王子が目を覚まさなければ、その後の駒が動かせないからね」


 アッシュは眉を寄せた。

「……それで、いつ説明するつもりなんだ?」


 セドリックは答えかけて、わずかに視線を落とす。

「本当はもう話すつもりだった」

 そして静かに言った。

「だが、少し面倒なことが起きてね」


「面倒?」


 セドリックは顔を上げる。その表情は落ち着いていたが、どこか諦めたような響きがあった。

「王都へ出発する前に、オズモンド殿下が――」

 わざとらしく「殿下」という言葉を強調する。

「まず聖女を教国へ送り返したいと言い出した」


 アッシュは小さく息を吸う。セドリックは肩をすくめて続けた。


「教国でずいぶん懲りたらしい。どうしても聖女を先に送り返してから王都へ戻りたいそうだ」


 アッシュは淡々と言った。

「聖女というのは……エルセリアのことだろう。送り返せばいい」


 セドリックは一瞬だけ沈黙した。

 ほんの短い沈黙だったが、刃のように張り詰めていた。


 それからゆっくりと言う。

「……ああ、聖女エルセリア」

 微笑んではいるが、目は笑っていない。

「どうしてわざわざ確認するんだ? この城に聖女が二人いるとでも?」


 アッシュの指先が一瞬だけ固まる。

 失言だった。

 彼はすぐに視線を手の中のパンへ落とした。


 セドリックはそれを見つめていたが、追及はしなかった。ただ酒を一口飲み、黙ってその反応を胸の内にしまい込む。

 やがて話題を変えるように息を吐いた。


「とはいえ問題はそこだ」

 長く息を吐きながら言う。

「どうやら聖女様は、この王国がお気に入りらしい。素直に教国へ帰る気がない」


 アッシュは顔を上げた。

「……条件を出したのか?」


 セドリックは杯を置き、どこか面白がるような表情を浮かべた。

「君に送ってほしいそうだ」

 眉をわずかに動かす。

「不思議だね。君と聖女に、どんな関係があるんだ?」


 アッシュは答えなかった。エルセリアから同じ話を聞いたことはある。だが今、彼の頭にあるのは別のことだった。


「……お前は一ヶ月前から配置を整えていた」

 アッシュは静かに言う。

「俺が教国にいると知っていたからか?」


 セドリックは否定しなかった。

 ただ酒壺を持ち上げ、ゆっくり杯へ酒を注ぐ。酒が木杯に当たる音が、妙に長く響いた。


 まるで時間を稼いでいるかのようだった。

 あるいは、アッシュ自身の推測を待っているようにも見える。


 アッシュは黙って彼を見つめる。

 牢の中には、杯が机に触れる小さな音だけが残った。


 セドリックは杯を揺らしながら、何気ない口調で言った。

「……あの箱の中身、知っているんだろう?」


 アッシュはわずかに目を見開く。

 最初にヘルンから託され、「ある人物」に渡すよう言われたあの箱――すべての始まりだった。


(中には、アエクセリオンの心臓結晶がある)


「そうだ」

 アッシュは顔を上げた。

「それもまだ聞いていない。なぜアエクセリオンは埋葬されなかった? 竜骨は北へ送られて教国の符釘の材料になり、心臓結晶は連邦の軍人が持っていた」


 彼はセドリックをじっと見据える。

「……お前は全部知っているはずだ」


 セドリックは小さく笑った。

「教国に渡った……ね」

 その声は軽く、どこか楽しんでいるようだった。

「君も知っているだろう。教国はその結晶で『封印儀式』を行おうとしている」


 その言葉に、アッシュは魔女嶺でセリスから聞いた話を思い出す。三百年ごとに竜王の心を捧げ、聖女が命を差し出すことで世界の平和を保つという、あの伝承だ。


 セドリックは口元をわずかに歪めた。

「だが妙だろう? 三百年ごとの儀式なのに、確かな記録がほとんどない。最近になって急に広まった話なのか、それとも『誰も知らない別の形』があるのか」


 アッシュは低く言った。

「……回りくどい」


 セドリックは少しだけ間を置き、杯を置いた。

「分かった。じゃあ単刀直入に言おう」

 そしてアッシュを真っ直ぐ見た。

「彼らが欲しいのは、君だ」


 牢の火が小さく揺れる。

 アッシュの背筋は動かなかったが、目の奥だけが鋭く締まった。

「……どういう意味だ」


「話題を変えたわけじゃない」

 セドリックは先ほどの問いを指で示す。

「それが答えだ。なぜ私が君の居場所を知っていたのか」


 アッシュの呼吸が一瞬止まる。


 セドリックの声は低く、冷静で、ほとんど残酷なほどだった。

「教国は君を儀式の証人として連れて行こうとしたわけじゃない。彼らは君を――連れ帰るつもりだった」

「君を押さえれば、竜族を押さえられるからだ」


 アッシュは彼を睨んだ。

「どうして分かる?」


「教皇使節が、ただの結晶のために前線へ出てくることはない」

 セドリックはまるで古代の機構を解体する研究者のような目で彼を見ていた。

「千年の契約を揺るがす存在が現れたときだけ、あの男は動く」

 声をさらに落とす。

「その存在が――君だ」


 牢の中に風はない。それでも空気が凍りついたようだった。

 セドリックはわずかに眉を上げ、何度も思考の中で並べた盤面を見るように言う。


「教国が欲しいのは竜王の心臓結晶だけだと思っていたのか?」

 彼は軽く笑った。

「甘いな」


 アッシュは静かに言った。

「……なぜ俺なんだ」


 セドリックは杯の酒を飲み干し、ようやく答える。

「君を握れば――竜族すべてを握れる」

「そして竜族を握れば……この王国を作り直すことができる」

 それは脅しというより、すでに決まった歴史を語るような声だった。


 セドリックは杯を軽く揺らす。琥珀色の酒が光を映す。

「そうだろう?」


 アッシュの喉がわずかに動く。

 短い沈黙のあと、彼は低く言った。

「……じゃあ、お前は?」


「俺に何をさせたい」

 その瞬間、セドリックの口元に浮かんだのは、本当の笑みだった。

 柔らかさも飾りもない、鋭く計算された笑みだった。

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