表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第十九章:帰還の道

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

205/239

第186話 夜明けの拘束

 アッシュは、自分がいつ眠りに落ちたのか覚えていなかった。覚えているのは、リメアが隣で丸くなり、その体温を寄せていたことだけだ。まるで、彼が眠っている間にどこかへ消えてしまわないか確かめるように、静かに寄り添っていた。


 再び目を開けたとき、竜舎の外にはすでに淡い灰色の光が差し込んでいた。最初に視界に入ったのは、すぐそばで彼に体を寄せるリメアの姿だった。どうやら一晩中彼を見守っていたらしく、姿勢もほとんど変わっていない。


 しかし彼を目覚めさせたのは朝の光ではなく、竜舎の入口から聞こえてきた声だった。


「……ここにいたのか」

 少し苛立ったようでいて、どこか当然のような声音だった。


 アッシュが顔を上げると、入口にはラッセルが立っていた。腕を組み、怒っているというよりは「やはりそうか」と言いたげな表情をしている。


 その背後には三人の騎士が控えており、その中には頬に薄い傷跡を持つ中年の騎士——グレンの姿もあった。以前、竜との繋がりについて彼に尋ねたことがある男だ。グレンは複雑な目でアッシュを見つめ、それからリメアへ視線を移したが、あまり近づこうとはしなかった。


 アッシュはその様子を見ただけで、状況を理解した。


 ラッセルは鼻を鳴らすように言った。

「お前の部屋が空っぽだったからな。本当に逃げたのかと思った」

 そう言いながら、アッシュの足元の干し草や肩にかけたままのマントに目をやる。

「……だが何も持っていない。だから、ここに来てみた」


 アッシュは少しだけ沈黙し、それから率直に尋ねた。

「兄上が目を覚ましたのか?」


 その言葉にラッセルの表情がわずかに固まる。

「……ああ。目を覚ました」

 短く答えると、横へ一歩身を引いた。

「だから——来てもらう」

 それは頼みではなく、命令だった。


 その瞬間、リメアが立ち上がった。銀白の尾が高く持ち上がり、鱗が逆立ち、喉の奥から低い唸り声が漏れる。それは怯えではなく、明確な警告だった。彼女はずっと覚えている。ラッセルがいつも敵意を含んだ視線でアッシュを見ていることを。


 ラッセルは眉をひそめた。

「……相変わらず礼儀のなっていない子だな」


 グレンが一歩前に出て、声を潜める。

「ラッセル隊長、あれは繫名者を守ろうとしているだけです」


「分かっている」

 ラッセルはあっさり言ったが、退く気配はなかった。


 アッシュはそっと手を伸ばし、リメアの額の鱗に触れる。

「大丈夫だ」

 穏やかな声だった。


 リメアの体が小さく震える。だがその瞳には、はっきりとした悲しみが浮かんでいた。

 アッシュは周囲に聞こえないよう、心の声で語りかける。

【もしもの時は……リゼを頼む】


 その瞬間、リメアは胸を刺されたように低く鳴いた。怒りではない。失うことへの恐れだった。

 アッシュは静かに彼女を撫でる。


「今は……まだ抵抗する時じゃない」

 それはリメアだけでなく、自分自身にも言い聞かせる言葉だった。ここで抵抗すれば、巻き込まれるのは彼女たちだ。


 アッシュは深く息を吸い、立ち上がった。その動作はごく自然なものだったが、まるで避けられない道へ正式に足を踏み入れるようでもあった。


 リメアの翼がゆっくりと下がる。彼女は吠えもせず、抵抗もしなかった。ただ低くくぐもった声で鳴いた。その声には、受け入れるしかない現実への悲しみがにじんでいた。


 ラッセルはその様子を見て、一瞬だけ何か言いかけたが、結局言葉を飲み込み、静かに身を引く。

「……行くぞ」


 アッシュは彼の方へ歩いた。グレンと他の騎士たちは自然に左右へ分かれ、軍律に従う影のように道を空ける。誰も剣を抜かないし、誰も彼に触れない。これは逮捕ではない。しかし、それ以上に重い沈黙だった。


 竜舎の扉が開くと、朝の冷たい風が流れ込んできた。背後ではリメアが低く鳴き、その声は喉の奥から絞り出されるようだった。抑えようとしても隠しきれない焦燥がそこにはあった。

 アッシュは振り返らなかった。ただ前方の石段へ視線を落としたまま歩く。


 ラッセルは彼を城内の奥へ導いていく。そこは主塔の階段でも応接室でもなく、次第に地下へと続く暗く湿った通路だった。アッシュはすぐに理解した。ラッセルは彼を直接、地下牢へ連れて行くつもりなのだ。


 それはラッセルにできる「最も穏やかな処置」だった。鞭も縄もなく、押さえつけることもなく、屈辱も与えない。ただ命令に従って、静かに収監する。

 やがて最後の鉄扉が現れた。ラッセルがそれを押し開けると、冷たい石の部屋が姿を現した。簡素な木の寝台があるだけで、鎖はない。


 アッシュはためらうことなく中へ足を踏み入れた。

 振り返らない。

 迷いもない。

 背後で鉄扉がゆっくり閉まり、その音はまるで判決が静かに下されるようだった。

 遠くで夜明けの鐘が鳴る。まるで「自由の時間は終わった」と告げるように。


 アッシュはすぐには座らなかった。牢には窓がなく、廊下の火灯りが揺れながら差し込むだけで、石壁が明滅している。

 ——リゼに別れを言う時間はなかった。


 彼は、自分がこれまでしてきたことを思い出していた。彼女の手を取ったこと、肩にスカーフをかけたこと、震える彼女を抱きしめたこと。どれも言葉にはしていないが、感情を理解するには十分な行動だった。


 だが、リゼリアの応えはいつも微妙だった。


 優しく、慎重で、どこか合わせてくるような反応。拒絶ではないが、完全な受容でもない。それはまるで「借り」と「寄り添い」の間に細い隙間を残すような距離だった。


 彼女は彼を抱きしめ、手を握り返し、彼が抱き寄せても拒まなかった。その瞬間の温もりは本物だったとアッシュは知っている。

 だが同時に、その優しさの中には常に「これ以上借りを増やしてはいけない」という気配があった。


 彼女は「一緒に向き合う」と言った。

 だが「あなたを選ぶ」とは言わなかった。


 温かく微笑みながらも、「私はもうあなたに借りはない」とは言わなかった。

 アッシュはゆっくりと壁にもたれ、床に腰を下ろす。


(……彼女は来ない)

(来るべきでもない)


 彼女が危険を承知で衝動的に動くことなど、最初から期待していない。リメアのように率直ではなく、彼女は誰よりも結果を理解している。そしてアッシュ自身も、彼女に何かを賭けさせたいとは思っていなかった。

 それは卑屈ではない。ただ、彼がずっと背負ってきた生き方だった。


(もし本当に処刑されることになったら……)

(その時、彼女はやっと手を離せると思うのだろうか)


 リゼリアはずっと「借り」という線を守っている。もしその線が切れたら——彼女は静かに振り返り、ここから去っていくのかもしれない。

 彼女の選択を、アッシュは変えられない。望むことすらできない。だから彼にできるのは一つだけだった。


(……彼女が無事なら、それでいい)

 だが本当に胸に重くのしかかっているのは、別の可能性だった。

(……俺のせいで、もっと大きな厄介事に巻き込まれたりしないか)


 アッシュは胸に手を当てる。そこにはリメアから渡された本魂の鱗がある。肌に触れたそれは、かすかに温もりを帯びていた。

 それは彼に教えてくれる。少なくとも一つの命が、迷いなく彼の側に立っているということを。


 アッシュの肩から、わずかに力が抜けた。

 恐怖はない。焦りもない。ただ、彼がずっと慣れてきた静かな待機があるだけだった。

 それは、審判を前にした者がひとりで迎える沈黙だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ