第186話 夜明けの拘束
アッシュは、自分がいつ眠りに落ちたのか覚えていなかった。覚えているのは、リメアが隣で丸くなり、その体温を寄せていたことだけだ。まるで、彼が眠っている間にどこかへ消えてしまわないか確かめるように、静かに寄り添っていた。
再び目を開けたとき、竜舎の外にはすでに淡い灰色の光が差し込んでいた。最初に視界に入ったのは、すぐそばで彼に体を寄せるリメアの姿だった。どうやら一晩中彼を見守っていたらしく、姿勢もほとんど変わっていない。
しかし彼を目覚めさせたのは朝の光ではなく、竜舎の入口から聞こえてきた声だった。
「……ここにいたのか」
少し苛立ったようでいて、どこか当然のような声音だった。
アッシュが顔を上げると、入口にはラッセルが立っていた。腕を組み、怒っているというよりは「やはりそうか」と言いたげな表情をしている。
その背後には三人の騎士が控えており、その中には頬に薄い傷跡を持つ中年の騎士——グレンの姿もあった。以前、竜との繋がりについて彼に尋ねたことがある男だ。グレンは複雑な目でアッシュを見つめ、それからリメアへ視線を移したが、あまり近づこうとはしなかった。
アッシュはその様子を見ただけで、状況を理解した。
ラッセルは鼻を鳴らすように言った。
「お前の部屋が空っぽだったからな。本当に逃げたのかと思った」
そう言いながら、アッシュの足元の干し草や肩にかけたままのマントに目をやる。
「……だが何も持っていない。だから、ここに来てみた」
アッシュは少しだけ沈黙し、それから率直に尋ねた。
「兄上が目を覚ましたのか?」
その言葉にラッセルの表情がわずかに固まる。
「……ああ。目を覚ました」
短く答えると、横へ一歩身を引いた。
「だから——来てもらう」
それは頼みではなく、命令だった。
その瞬間、リメアが立ち上がった。銀白の尾が高く持ち上がり、鱗が逆立ち、喉の奥から低い唸り声が漏れる。それは怯えではなく、明確な警告だった。彼女はずっと覚えている。ラッセルがいつも敵意を含んだ視線でアッシュを見ていることを。
ラッセルは眉をひそめた。
「……相変わらず礼儀のなっていない子だな」
グレンが一歩前に出て、声を潜める。
「ラッセル隊長、あれは繫名者を守ろうとしているだけです」
「分かっている」
ラッセルはあっさり言ったが、退く気配はなかった。
アッシュはそっと手を伸ばし、リメアの額の鱗に触れる。
「大丈夫だ」
穏やかな声だった。
リメアの体が小さく震える。だがその瞳には、はっきりとした悲しみが浮かんでいた。
アッシュは周囲に聞こえないよう、心の声で語りかける。
【もしもの時は……リゼを頼む】
その瞬間、リメアは胸を刺されたように低く鳴いた。怒りではない。失うことへの恐れだった。
アッシュは静かに彼女を撫でる。
「今は……まだ抵抗する時じゃない」
それはリメアだけでなく、自分自身にも言い聞かせる言葉だった。ここで抵抗すれば、巻き込まれるのは彼女たちだ。
アッシュは深く息を吸い、立ち上がった。その動作はごく自然なものだったが、まるで避けられない道へ正式に足を踏み入れるようでもあった。
リメアの翼がゆっくりと下がる。彼女は吠えもせず、抵抗もしなかった。ただ低くくぐもった声で鳴いた。その声には、受け入れるしかない現実への悲しみがにじんでいた。
ラッセルはその様子を見て、一瞬だけ何か言いかけたが、結局言葉を飲み込み、静かに身を引く。
「……行くぞ」
アッシュは彼の方へ歩いた。グレンと他の騎士たちは自然に左右へ分かれ、軍律に従う影のように道を空ける。誰も剣を抜かないし、誰も彼に触れない。これは逮捕ではない。しかし、それ以上に重い沈黙だった。
竜舎の扉が開くと、朝の冷たい風が流れ込んできた。背後ではリメアが低く鳴き、その声は喉の奥から絞り出されるようだった。抑えようとしても隠しきれない焦燥がそこにはあった。
アッシュは振り返らなかった。ただ前方の石段へ視線を落としたまま歩く。
ラッセルは彼を城内の奥へ導いていく。そこは主塔の階段でも応接室でもなく、次第に地下へと続く暗く湿った通路だった。アッシュはすぐに理解した。ラッセルは彼を直接、地下牢へ連れて行くつもりなのだ。
それはラッセルにできる「最も穏やかな処置」だった。鞭も縄もなく、押さえつけることもなく、屈辱も与えない。ただ命令に従って、静かに収監する。
やがて最後の鉄扉が現れた。ラッセルがそれを押し開けると、冷たい石の部屋が姿を現した。簡素な木の寝台があるだけで、鎖はない。
アッシュはためらうことなく中へ足を踏み入れた。
振り返らない。
迷いもない。
背後で鉄扉がゆっくり閉まり、その音はまるで判決が静かに下されるようだった。
遠くで夜明けの鐘が鳴る。まるで「自由の時間は終わった」と告げるように。
アッシュはすぐには座らなかった。牢には窓がなく、廊下の火灯りが揺れながら差し込むだけで、石壁が明滅している。
——リゼに別れを言う時間はなかった。
彼は、自分がこれまでしてきたことを思い出していた。彼女の手を取ったこと、肩にスカーフをかけたこと、震える彼女を抱きしめたこと。どれも言葉にはしていないが、感情を理解するには十分な行動だった。
だが、リゼリアの応えはいつも微妙だった。
優しく、慎重で、どこか合わせてくるような反応。拒絶ではないが、完全な受容でもない。それはまるで「借り」と「寄り添い」の間に細い隙間を残すような距離だった。
彼女は彼を抱きしめ、手を握り返し、彼が抱き寄せても拒まなかった。その瞬間の温もりは本物だったとアッシュは知っている。
だが同時に、その優しさの中には常に「これ以上借りを増やしてはいけない」という気配があった。
彼女は「一緒に向き合う」と言った。
だが「あなたを選ぶ」とは言わなかった。
温かく微笑みながらも、「私はもうあなたに借りはない」とは言わなかった。
アッシュはゆっくりと壁にもたれ、床に腰を下ろす。
(……彼女は来ない)
(来るべきでもない)
彼女が危険を承知で衝動的に動くことなど、最初から期待していない。リメアのように率直ではなく、彼女は誰よりも結果を理解している。そしてアッシュ自身も、彼女に何かを賭けさせたいとは思っていなかった。
それは卑屈ではない。ただ、彼がずっと背負ってきた生き方だった。
(もし本当に処刑されることになったら……)
(その時、彼女はやっと手を離せると思うのだろうか)
リゼリアはずっと「借り」という線を守っている。もしその線が切れたら——彼女は静かに振り返り、ここから去っていくのかもしれない。
彼女の選択を、アッシュは変えられない。望むことすらできない。だから彼にできるのは一つだけだった。
(……彼女が無事なら、それでいい)
だが本当に胸に重くのしかかっているのは、別の可能性だった。
(……俺のせいで、もっと大きな厄介事に巻き込まれたりしないか)
アッシュは胸に手を当てる。そこにはリメアから渡された本魂の鱗がある。肌に触れたそれは、かすかに温もりを帯びていた。
それは彼に教えてくれる。少なくとも一つの命が、迷いなく彼の側に立っているということを。
アッシュの肩から、わずかに力が抜けた。
恐怖はない。焦りもない。ただ、彼がずっと慣れてきた静かな待機があるだけだった。
それは、審判を前にした者がひとりで迎える沈黙だった。




