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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第十九章:帰還の道

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第185話 リメアの鱗

 リメアは一度うつむき、何かを考えるように静かに黙り込んだ。

 やがて、少し迷うようにして口を開く。


【あたし……アエクセリオンみたいにすごい竜になりたい。竜王になって……アッシュとリゼを守りたい】


 その言葉を聞いた瞬間、アッシュの胸が重く沈んだ。

 ——そうか。

 彼女の願いは、すべて自分から始まっている。


 竜族のためではない。

 王になるためでもない。

 ただ、自分のため。


 アッシュは眉間を押さえ、小さく息を吐いた。

「……ごめん」


 リメアは目を瞬かせる。

【え?】


「お前に、選ばせてこなかった」

 声は胸の奥から無理やり押し出されるようだった。

「俺がずっと、お前の頭に詰め込んできた。使命とか、竜王とか……本当は、お前が背負う必要なんてないものを」


 彼はゆっくりと彼女を見下ろした。

「もし——竜王なんて最初から存在しないとしたら?

 もし竜族が、誰かに導かれる必要なんてないとしたら……」

 一度、言葉を切る。

「そのとき、お前はどうする?」


 リメアは驚いたように固まり、それから少しだけアッシュに近づいた。

【竜王じゃなかったら……アッシュを守れないの?】


 アッシュの胸がきつく締めつけられる。

「違う。そういう意味じゃない」


 リメアは彼の顔を見上げた。

 その瞳が、かすかに揺れている。


【じゃあ……】

 小さな声。

【……竜王じゃなかったら、あたしはアッシュのそばにいられないの?】


「そんなことない」

 アッシュはほとんど反射のように答えた。

 思っていた以上に、声が大きく、焦ったものになっていた。


 その言葉を聞いた瞬間、リメアは喉の奥で小さく鳴き声を漏らした。

 安心したように、そっと彼の掌に頬を寄せる。


【あたしはね……アッシュと、リゼと、一緒にいたいだけ】

【ほかのことは……どうでもいい】


 アッシュは目を閉じた。

 胸の奥から込み上げてくるものが、呼吸を止めそうになる。


 ——この子は、使命のために生きているわけじゃない。

 彼女の望みは、誰よりも単純だった。

 ただ、一緒にいたい。それだけ。


 そのときだった。

 リメアが前脚を持ち上げ、何かを掴もうとするように動かした。


【アッシュ……手を出して】

「……?」

 アッシュは少し驚いたが、言われた通り手を差し出す。


 次の瞬間。

 リメアの胸の奥で、鱗が淡い青い光を放った。


 その中から、内側の奥深くにある一枚——

 月光の欠片のように小さな鱗が、静かに外れ落ちる。


 音もない。

 痛みもない。

 まるで、この瞬間をずっと待っていたかのように。


 リメアはそれをそっと口で拾い上げ、アッシュの掌へ押し出した。

 淡い青の光が、彼の手の中で静かに脈打つ。


 アッシュは息を呑んだ。

「……これは……」


【アッシュにあげる】

 幼い竜は静かに彼を見つめていた。


 本魂の鱗。


 それは、ただの抜け落ちた鱗ではない。

 竜の最も深い核に近い鱗。

 真名と魂の一部を象徴する、特別なもの。


 アッシュは息を詰めた。

「リメア……これがどういう意味か、分かってるのか?」


【うん】

 彼女は一瞬も迷わなかった。

【あたしが、アッシュを選んだってこと】


 夜灯の光が、彼女の銀白の鱗を淡く青く染めている。

 アッシュは喉が詰まったように言葉を失い、ただその鱗を握りしめた。


 たとえ「竜王」という存在が人間の作った物語だったとしても——

 人と竜を結ぶもの。

 繫名者の間にある想い。


 それだけは、本物だった。

 この瞬間が、その証だった。


 リメアがここにいるのは、竜王の使命のためではない。

 彼女自身が選んだからだ。


 アッシュは掌の中の淡青色の鱗を見つめ、低く呟いた。

「……アエクセリオンの鱗」


 リメアは首を傾げる。

 アッシュの指先がわずかに力を込める。

 触れることを避けてきた真実を探るように。


「俺は……あれが、お前に記憶を継がせるためのものだと思っていた」

「次の竜王になるための」


 リメアは首を横に振った。

 その動きは静かだが、迷いがない。


【あたし、あれは欲しくない】

【あれはあたしの記憶じゃない。だから、いらない】

 彼女はそっと額を彼の手首に寄せた。

【あたしは、自分の記憶がいい】

【アッシュと、リゼと、一緒に過ごす時間。それが……あたしのもの】


 アッシュの喉が詰まる。

 胸の奥を、柔らかくて深い力が掴んだようだった。


 ——彼女は「継承」を拒んだ。

 代わりに選んだのは、ただ一つ。

 ——絆。


 そのとき、アッシュは初めて気づいた。

 この小さな竜は、こんなにも——自由なのだと。


 そしてその瞬間、

 記憶の奥から、ひとつの声が浮かび上がる。


 言葉ではない。

 音でもない。

 アエクセリオンが死の間際、灼ける風のように魂へ刻み込んだもの。


『お前が王である必要はない。

 ただ――

 彼女が飛び立つ時、振り返る必要がないようにしてやれ』


 アッシュの呼吸が止まった。

 ずっと、その言葉を誤解していた。


 幼竜の守護者になれという意味だと。

 王位を継ぐまで守れという意味だと。

 だが、違った。


【……アッシュ?】

 リメアが指先に鼻先を触れる。


 アッシュはかすれる声で呟いた。

「……俺が導くんじゃない」

「お前を……自由にするんだ」


 夜灯が静かに揺れる。

 遠くから、もう一度アエクセリオンの声が響いたような気がした。


『契約を終わらせよ。

 竜族を、王国の千年の鎖から解き放て。

 そして彼女を、彼女のまま生きさせろ。』


 アッシュはその場で動けなかった。

 掌の本魂の鱗が、かすかに脈打つ。

 まるで、死を越えて届いた古い約束に応えるように。


 リメアは首を傾げたまま、彼の心の中の嵐など知らずに見上げている。

【アッシュ……】

【あたし、ここにいていい?】

【竜王じゃなくても……アッシュのそばにいられる?】


 アッシュは手を伸ばし、彼女の頬の鱗に触れた。

「もちろんだ」


 声は低く、少しかすれていた。

 だが、これまでになく確かな響きを持っていた。


「お前は誰かの望む姿になる必要なんてない」

「飛びたければ飛べ。止まりたければ止まれ」

「お前の未来は、王国でも教国でもなく——お前自身が決めるものだ」


 彼はそっと額を彼女の竜額に重ねた。


「自由になれ、リメア」

「……俺たちも、一緒にな」


 リメアは嬉しそうに小さく鳴いた。

 銀白の尾が床をぱたぱたと叩く。


 深い夜の竜舎の中で——

 二つの魂の繫がりは、初めて「竜王の物語」という鎖から解き放たれた。


 そのとき、ようやく彼らは理解する。

 本当の繫名とは、服従ではない。

 選択なのだ。


 そしてこの夜、アッシュは初めて気づいた。

 自分はもう「選ばれた者」ではない。

 ——自分たちの未来を、自分で選ぶ者なのだ。

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