第185話 リメアの鱗
リメアは一度うつむき、何かを考えるように静かに黙り込んだ。
やがて、少し迷うようにして口を開く。
【あたし……アエクセリオンみたいにすごい竜になりたい。竜王になって……アッシュとリゼを守りたい】
その言葉を聞いた瞬間、アッシュの胸が重く沈んだ。
——そうか。
彼女の願いは、すべて自分から始まっている。
竜族のためではない。
王になるためでもない。
ただ、自分のため。
アッシュは眉間を押さえ、小さく息を吐いた。
「……ごめん」
リメアは目を瞬かせる。
【え?】
「お前に、選ばせてこなかった」
声は胸の奥から無理やり押し出されるようだった。
「俺がずっと、お前の頭に詰め込んできた。使命とか、竜王とか……本当は、お前が背負う必要なんてないものを」
彼はゆっくりと彼女を見下ろした。
「もし——竜王なんて最初から存在しないとしたら?
もし竜族が、誰かに導かれる必要なんてないとしたら……」
一度、言葉を切る。
「そのとき、お前はどうする?」
リメアは驚いたように固まり、それから少しだけアッシュに近づいた。
【竜王じゃなかったら……アッシュを守れないの?】
アッシュの胸がきつく締めつけられる。
「違う。そういう意味じゃない」
リメアは彼の顔を見上げた。
その瞳が、かすかに揺れている。
【じゃあ……】
小さな声。
【……竜王じゃなかったら、あたしはアッシュのそばにいられないの?】
「そんなことない」
アッシュはほとんど反射のように答えた。
思っていた以上に、声が大きく、焦ったものになっていた。
その言葉を聞いた瞬間、リメアは喉の奥で小さく鳴き声を漏らした。
安心したように、そっと彼の掌に頬を寄せる。
【あたしはね……アッシュと、リゼと、一緒にいたいだけ】
【ほかのことは……どうでもいい】
アッシュは目を閉じた。
胸の奥から込み上げてくるものが、呼吸を止めそうになる。
——この子は、使命のために生きているわけじゃない。
彼女の望みは、誰よりも単純だった。
ただ、一緒にいたい。それだけ。
そのときだった。
リメアが前脚を持ち上げ、何かを掴もうとするように動かした。
【アッシュ……手を出して】
「……?」
アッシュは少し驚いたが、言われた通り手を差し出す。
次の瞬間。
リメアの胸の奥で、鱗が淡い青い光を放った。
その中から、内側の奥深くにある一枚——
月光の欠片のように小さな鱗が、静かに外れ落ちる。
音もない。
痛みもない。
まるで、この瞬間をずっと待っていたかのように。
リメアはそれをそっと口で拾い上げ、アッシュの掌へ押し出した。
淡い青の光が、彼の手の中で静かに脈打つ。
アッシュは息を呑んだ。
「……これは……」
【アッシュにあげる】
幼い竜は静かに彼を見つめていた。
本魂の鱗。
それは、ただの抜け落ちた鱗ではない。
竜の最も深い核に近い鱗。
真名と魂の一部を象徴する、特別なもの。
アッシュは息を詰めた。
「リメア……これがどういう意味か、分かってるのか?」
【うん】
彼女は一瞬も迷わなかった。
【あたしが、アッシュを選んだってこと】
夜灯の光が、彼女の銀白の鱗を淡く青く染めている。
アッシュは喉が詰まったように言葉を失い、ただその鱗を握りしめた。
たとえ「竜王」という存在が人間の作った物語だったとしても——
人と竜を結ぶもの。
繫名者の間にある想い。
それだけは、本物だった。
この瞬間が、その証だった。
リメアがここにいるのは、竜王の使命のためではない。
彼女自身が選んだからだ。
アッシュは掌の中の淡青色の鱗を見つめ、低く呟いた。
「……アエクセリオンの鱗」
リメアは首を傾げる。
アッシュの指先がわずかに力を込める。
触れることを避けてきた真実を探るように。
「俺は……あれが、お前に記憶を継がせるためのものだと思っていた」
「次の竜王になるための」
リメアは首を横に振った。
その動きは静かだが、迷いがない。
【あたし、あれは欲しくない】
【あれはあたしの記憶じゃない。だから、いらない】
彼女はそっと額を彼の手首に寄せた。
【あたしは、自分の記憶がいい】
【アッシュと、リゼと、一緒に過ごす時間。それが……あたしのもの】
アッシュの喉が詰まる。
胸の奥を、柔らかくて深い力が掴んだようだった。
——彼女は「継承」を拒んだ。
代わりに選んだのは、ただ一つ。
——絆。
そのとき、アッシュは初めて気づいた。
この小さな竜は、こんなにも——自由なのだと。
そしてその瞬間、
記憶の奥から、ひとつの声が浮かび上がる。
言葉ではない。
音でもない。
アエクセリオンが死の間際、灼ける風のように魂へ刻み込んだもの。
『お前が王である必要はない。
ただ――
彼女が飛び立つ時、振り返る必要がないようにしてやれ』
アッシュの呼吸が止まった。
ずっと、その言葉を誤解していた。
幼竜の守護者になれという意味だと。
王位を継ぐまで守れという意味だと。
だが、違った。
【……アッシュ?】
リメアが指先に鼻先を触れる。
アッシュはかすれる声で呟いた。
「……俺が導くんじゃない」
「お前を……自由にするんだ」
夜灯が静かに揺れる。
遠くから、もう一度アエクセリオンの声が響いたような気がした。
『契約を終わらせよ。
竜族を、王国の千年の鎖から解き放て。
そして彼女を、彼女のまま生きさせろ。』
アッシュはその場で動けなかった。
掌の本魂の鱗が、かすかに脈打つ。
まるで、死を越えて届いた古い約束に応えるように。
リメアは首を傾げたまま、彼の心の中の嵐など知らずに見上げている。
【アッシュ……】
【あたし、ここにいていい?】
【竜王じゃなくても……アッシュのそばにいられる?】
アッシュは手を伸ばし、彼女の頬の鱗に触れた。
「もちろんだ」
声は低く、少しかすれていた。
だが、これまでになく確かな響きを持っていた。
「お前は誰かの望む姿になる必要なんてない」
「飛びたければ飛べ。止まりたければ止まれ」
「お前の未来は、王国でも教国でもなく——お前自身が決めるものだ」
彼はそっと額を彼女の竜額に重ねた。
「自由になれ、リメア」
「……俺たちも、一緒にな」
リメアは嬉しそうに小さく鳴いた。
銀白の尾が床をぱたぱたと叩く。
深い夜の竜舎の中で——
二つの魂の繫がりは、初めて「竜王の物語」という鎖から解き放たれた。
そのとき、ようやく彼らは理解する。
本当の繫名とは、服従ではない。
選択なのだ。
そしてこの夜、アッシュは初めて気づいた。
自分はもう「選ばれた者」ではない。
——自分たちの未来を、自分で選ぶ者なのだ。




