第183話 明日、明かされるもの
セドリックの足音が回廊の奥へ消えていくと、辺境堡の領主はようやく胸に溜め込んでいた息を深く吐き出した。
そしてアッシュへ向き直り、重々しい軍礼を取る。
それは王都の儀礼のような形式的なものでも、騎士の忠誠の礼でもない。
――竜の繫名者へ向ける礼だった。
「……殿下。本件は、軍律に従って処理いたします」
そう言うと、武官と書記官を連れて静かに退いていく。
残されたのはラッセルとアッシュだけだった。
風の吹き抜ける回廊で、松明の火が鎧の縁を揺らし、二人の影を長く引き延ばしている。
しばらく沈黙が続いたあと、ラッセルが低く言った。
「……俺は辺境隊の連中に顔を出してくる」
アッシュはその背中を見ながら、ふと問いを投げた。
「兄上が目を覚ましたら――
その時は俺を拘束するのか」
ラッセルの足が止まる。
一拍の沈黙。
まるで「今さらそれを言うのか」とでも思ったような空気だった。
だが結局、彼は振り返らずに言う。
「……目が覚める前に、やれることを全部やれ」
それだけ残し、歩き去った。
その背中は矛盾していた。
王命に従う立場でありながら、誰よりも頑固にアッシュを守っている。
主堡の客塔、最上階。
淡い灯りがともる一室の前で、アッシュは足を止める。
扉を一度叩くと、すぐ中から軽い声が返る。
「どうぞ、殿下。
来ると思っていましたよ」
扉を開ける。
セドリックは魔導外套を脱ぎ、上着を外したところだった。
赤い髪が肩に落ち、戦いを終えたばかりのような疲労を漂わせている。だがその奥には、計算し尽くされた余裕があった。
アッシュを見ると、眉を上げた。
「こんな時間に何の用です?」
冗談のようでもあり、試すようでもある声音。
アッシュは真っ直ぐに言う。
「お前の意図を知りたい。
結局……何をするつもりだ」
セドリックはベッドの縁に腰を下ろし、首を傾ける。
火が灰青色の瞳に映り、溶けた金のように揺れる。
「せっかちな子ですね」
怠げに笑う。
「明日話すと言ったでしょう?」
アッシュの声がさらに冷える。
「……逃げる機会を与えているのか」
部屋の空気がわずかに沈んだ。
セドリックはゆっくり目を上げ、口角を吊り上げた。
「そう思いましたか?」
そのままベッドに身を倒し、両手を後頭部に組み、片膝を立てる。
「でも、あなたは逃げない」
アッシュは低く言う。
「逃げても何も終わらない。
今回は決着をつける必要がある。そうしないと、ずっと終わらない」
セドリックが鼻で笑った。
「ええ。
ようやく理解しましたね」
アッシュはベッドのそばへ歩み寄る。
「お前は言った。
俺を王にする、と」
セドリックはゆっくり目を開き、灰青の瞳で彼を見据える。
「言いましたね」
声はあまりにもあっさりしていた。
まるで「ようやく覚悟したのか」とでも言いたげに。
アッシュは拳を握る。
「だが今の状況を見ろ。
俺はただ王都に連行される罪人だ。
裁かれて罪を押しつけられて……それがお前の描いた筋書きなのか」
その瞬間、セドリックは突然笑い出した。
嘲りではない。
むしろ、待ち望んでいた言葉を聞いたような笑いだった。
「なるほど。そこを心配していたんですか、ノアディス」
笑いが収まると、急に真顔になる。
火の光が刃のようにその瞳に走った。
「――でも、あなたは否定しませんでしたね」
「『王になること』を」
アッシュは一瞬、言葉を失う。
「……意味が分からないだけだ」
セドリックは再び目を閉じた。
両手は頭の後ろのまま、まるで無防備に横たわっている。
「明日にしましょう」
「今日は本当に疲れているんです」
「セドリック」
返事はない。
もう一度呼ぶ。
それでも沈黙のままだった。
眠ったのか、それとも答えるつもりがないのか。
アッシュは小さく息をつき、傍らの厚い毛布を取り上げた。
無言でそれを広げ、セドリックに掛ける。
セドリックは動かない。
呼吸は穏やかだった。眠っているようでもあり、ただ黙って任せているようでもある。
アッシュは扉へ向かった。
ノブに手をかけた、その瞬間——
「ノアディス」
闇の奥から届くような声。
アッシュは振り向かない。
セドリックは目を閉じたまま言う。
「——明日、分かりますよ」
アッシュは何も言わず、扉を開け、静かに外へ出る。
重い扉が背後で閉まった。
まるで、これから動き出す運命を封じ込めるような音だった。
廊下は再び、辺境堡らしい冷たい静けさに戻っていた。
石床に響く自分の足音が、遠くから聞こえてくるように感じる。
「——明日、分かりますよ」
その言葉が胸の奥に残っていた。
脅しでも約束でもない。ただ、すでに準備された何かを告げる響き。
アッシュは眉間を指で押さえる。
思考は冷たい夜の中で二つに裂けていた。
セドリックの野心は昔から単純ではない。
だがさっきの言葉――
「王になることを否定しなかった」
あれは冗談ではない。
あいつが本当に望んでいる未来だ。
だがアッシュ自身の考えは違う。
彼が言った「解決する」という言葉は、王位のためではない。
王都に戻るためでもない。
王になるためでもない。
必要なのは――力だ。
この世界が自分に押しつけてくる鎖を断ち切るための力。
王国から自由になるための力。
リゼリアを守るための力。
リメアを守るための力。
三人が誰かの駒ではなくなるための力。
ふと、リゼリアの言葉が思い出された。
――一緒に向き合いましょう。
そしてリメアの声。
【大丈夫。あたしがいる】
胸の奥が、火のように熱くなり、同時に雪のように冷えた。
……本当に、そんなことが可能なのか。
初めて、その考えがはっきりと形を持つ。
追われる王子。
旅人を装う聖女。
そして未来の竜王となる幼い竜。
この三人が、王権も神権も血筋も命令も予言も――
すべてから逃れられるのか。
その考えに自分でも一瞬驚く。
アッシュは冷たい夜気を吸い込んだ。
心臓の鼓動が肋骨の奥で重く響く。
……今はまだ、その答えを考える時ではない。
だがその小さな考えは、セドリックの言葉に押されて、確かに重みを持ち始めていた。
明日は何かが変わる。
それだけは分かっている。
その前に、できる限り冷静でいなければならない。
騎士宿舎へ戻る。
扉を開けると、小さな火鉢だけが残っている。
まだ消えきらない温もりが、彼の帰りを待っていた。
武器を外し、マントを脱ぐ。
ベッドの縁に腰掛け、肘を膝に乗せた。
疲れていた。
体だけではない。
一年以上止まることなく続いてきた重さが、ようやく表面に浮かんできたようだった。
明日――
セドリックは「意図」を明かす。
そして自分も、避け続けてきた道と向き合うことになる。
アッシュは目を閉じた。
呼吸が夜の闇の中で、ゆっくりと整っていく。




