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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第十八章:ヴァロワ辺境堡

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第183話 明日、明かされるもの

 セドリックの足音が回廊の奥へ消えていくと、辺境堡の領主はようやく胸に溜め込んでいた息を深く吐き出した。

 そしてアッシュへ向き直り、重々しい軍礼を取る。


 それは王都の儀礼のような形式的なものでも、騎士の忠誠の礼でもない。

 ――竜の繫名者へ向ける礼だった。


「……殿下。本件は、軍律に従って処理いたします」

 そう言うと、武官と書記官を連れて静かに退いていく。


 残されたのはラッセルとアッシュだけだった。

 風の吹き抜ける回廊で、松明の火が鎧の縁を揺らし、二人の影を長く引き延ばしている。


 しばらく沈黙が続いたあと、ラッセルが低く言った。

「……俺は辺境隊の連中に顔を出してくる」


 アッシュはその背中を見ながら、ふと問いを投げた。

「兄上が目を覚ましたら――

 その時は俺を拘束するのか」


 ラッセルの足が止まる。


 一拍の沈黙。

 まるで「今さらそれを言うのか」とでも思ったような空気だった。


 だが結局、彼は振り返らずに言う。

「……目が覚める前に、やれることを全部やれ」

 それだけ残し、歩き去った。


 その背中は矛盾していた。

 王命に従う立場でありながら、誰よりも頑固にアッシュを守っている。




 主堡の客塔、最上階。

 淡い灯りがともる一室の前で、アッシュは足を止める。

 扉を一度叩くと、すぐ中から軽い声が返る。


「どうぞ、殿下。

 来ると思っていましたよ」


 扉を開ける。

 セドリックは魔導外套を脱ぎ、上着を外したところだった。

 赤い髪が肩に落ち、戦いを終えたばかりのような疲労を漂わせている。だがその奥には、計算し尽くされた余裕があった。


 アッシュを見ると、眉を上げた。

「こんな時間に何の用です?」

 冗談のようでもあり、試すようでもある声音。


 アッシュは真っ直ぐに言う。

「お前の意図を知りたい。

 結局……何をするつもりだ」


 セドリックはベッドの縁に腰を下ろし、首を傾ける。

 火が灰青色の瞳に映り、溶けた金のように揺れる。


「せっかちな子ですね」

 怠げに笑う。

「明日話すと言ったでしょう?」


 アッシュの声がさらに冷える。

「……逃げる機会を与えているのか」


 部屋の空気がわずかに沈んだ。


 セドリックはゆっくり目を上げ、口角を吊り上げた。

「そう思いましたか?」


 そのままベッドに身を倒し、両手を後頭部に組み、片膝を立てる。

「でも、あなたは逃げない」


 アッシュは低く言う。

「逃げても何も終わらない。

 今回は決着をつける必要がある。そうしないと、ずっと終わらない」


 セドリックが鼻で笑った。

「ええ。

 ようやく理解しましたね」


 アッシュはベッドのそばへ歩み寄る。

「お前は言った。

 俺を王にする、と」


 セドリックはゆっくり目を開き、灰青の瞳で彼を見据える。

「言いましたね」


 声はあまりにもあっさりしていた。

 まるで「ようやく覚悟したのか」とでも言いたげに。


 アッシュは拳を握る。

「だが今の状況を見ろ。

 俺はただ王都に連行される罪人だ。

 裁かれて罪を押しつけられて……それがお前の描いた筋書きなのか」


 その瞬間、セドリックは突然笑い出した。

 嘲りではない。

 むしろ、待ち望んでいた言葉を聞いたような笑いだった。


「なるほど。そこを心配していたんですか、ノアディス」


 笑いが収まると、急に真顔になる。

 火の光が刃のようにその瞳に走った。

「――でも、あなたは否定しませんでしたね」


「『王になること』を」


 アッシュは一瞬、言葉を失う。

「……意味が分からないだけだ」


 セドリックは再び目を閉じた。

 両手は頭の後ろのまま、まるで無防備に横たわっている。

「明日にしましょう」

「今日は本当に疲れているんです」


「セドリック」

 返事はない。


 もう一度呼ぶ。

 それでも沈黙のままだった。

 眠ったのか、それとも答えるつもりがないのか。


 アッシュは小さく息をつき、傍らの厚い毛布を取り上げた。

 無言でそれを広げ、セドリックに掛ける。


 セドリックは動かない。

 呼吸は穏やかだった。眠っているようでもあり、ただ黙って任せているようでもある。


 アッシュは扉へ向かった。

 ノブに手をかけた、その瞬間——


「ノアディス」

 闇の奥から届くような声。


 アッシュは振り向かない。


 セドリックは目を閉じたまま言う。

「——明日、分かりますよ」


 アッシュは何も言わず、扉を開け、静かに外へ出る。


 重い扉が背後で閉まった。

 まるで、これから動き出す運命を封じ込めるような音だった。




 廊下は再び、辺境堡らしい冷たい静けさに戻っていた。

 石床に響く自分の足音が、遠くから聞こえてくるように感じる。


「——明日、分かりますよ」

 その言葉が胸の奥に残っていた。

 脅しでも約束でもない。ただ、すでに準備された何かを告げる響き。


 アッシュは眉間を指で押さえる。

 思考は冷たい夜の中で二つに裂けていた。


 セドリックの野心は昔から単純ではない。

 だがさっきの言葉――

「王になることを否定しなかった」


 あれは冗談ではない。

 あいつが本当に望んでいる未来だ。


 だがアッシュ自身の考えは違う。


 彼が言った「解決する」という言葉は、王位のためではない。

 王都に戻るためでもない。

 王になるためでもない。


 必要なのは――力だ。

 この世界が自分に押しつけてくる鎖を断ち切るための力。


 王国から自由になるための力。

 リゼリアを守るための力。

 リメアを守るための力。


 三人が誰かの駒ではなくなるための力。


 ふと、リゼリアの言葉が思い出された。

 ――一緒に向き合いましょう。


 そしてリメアの声。

【大丈夫。あたしがいる】


 胸の奥が、火のように熱くなり、同時に雪のように冷えた。

 ……本当に、そんなことが可能なのか。


 初めて、その考えがはっきりと形を持つ。


 追われる王子。

 旅人を装う聖女。

 そして未来の竜王となる幼い竜。


 この三人が、王権も神権も血筋も命令も予言も――

 すべてから逃れられるのか。


 その考えに自分でも一瞬驚く。


 アッシュは冷たい夜気を吸い込んだ。

 心臓の鼓動が肋骨の奥で重く響く。

 ……今はまだ、その答えを考える時ではない。


 だがその小さな考えは、セドリックの言葉に押されて、確かに重みを持ち始めていた。


 明日は何かが変わる。

 それだけは分かっている。


 その前に、できる限り冷静でいなければならない。




 騎士宿舎へ戻る。

 扉を開けると、小さな火鉢だけが残っている。

 まだ消えきらない温もりが、彼の帰りを待っていた。


 武器を外し、マントを脱ぐ。

 ベッドの縁に腰掛け、肘を膝に乗せた。


 疲れていた。

 体だけではない。

 一年以上止まることなく続いてきた重さが、ようやく表面に浮かんできたようだった。


 明日――

 セドリックは「意図」を明かす。


 そして自分も、避け続けてきた道と向き合うことになる。


 アッシュは目を閉じた。

 呼吸が夜の闇の中で、ゆっくりと整っていく。

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