第182話 赤髪の魔導師
セドリックは領主の報告を聞き終えると、すぐには答えず数秒ほど沈黙した。情報をゆっくり整理しているような間だった。
そのあとで、ようやく口を開く。声は軽く、責める色も緊張もない。
「ヴァロワの魔導師たちでも……手が出ませんでしたか」
領主の眉は鉄のように沈む。
「冗談はよしてくれ。王国で知らぬ者はいない。あなたこそが最強の魔導師だ」
セドリックは「買いかぶりですよ」とでも言いたげな顔をする。
「残念ながら、私は治癒術は得意ではありません」
言いながら視線をわずかに横へ流し、アッシュを見る。
「殿下ならご存じでしょう?」
アッシュの表情は動かなかった。
だが胸の奥では冷たい思考が走る。
――つい一戦場で俺の乱れた魔力源を修正したのはお前だろう。
あれほどのことができて、治療が苦手と言うのか。
もっとも、技術的に言えばあれは治療魔法ではないのも事実だった。
まるで心の中の反論を拾ったかのように、セドリックは続ける。
「王国の治療魔法は、せいぜい止血や状態の安定が限界です。
本当の意味での深い治癒や浄化は……教国の領分ですから」
領主が問う。
「では、殿下の昏睡は?」
セドリックはわずかに考えるように間を置いた。
不自然なほど静かな空白が生まれる。
「……違和感はありました」
「魔力の消耗とも違う。外傷による昏睡でもない」
ゆっくりと目を上げる。
「オズモンド殿下の体には……特殊な魔力残滓があります」
その言葉で領主の顔色が変わった。驚きというより、重い理解に近い。
――あなたでも処理できないのか。
そう問う視線だった。
セドリックはその表情を見て、ふっと笑う。
だが次の瞬間には話題を滑らかに変えていた。
「それより、第七王子殿下」
ゆっくりアッシュを見つめる。
その目は、すべて承知していると言わんばかりだった。
「私に言いたいことが山ほどある顔ですね」
アッシュのこめかみがわずかに動く。
人の内側まで見透かされる感覚は、昔から好きではなかった。
それでも声は平静だった。
「……当然だろう」
セドリックはその言葉には答えず、視線を外す。
まるで火薬の匂いを袖の中にしまい込むような仕草だった。
領主が再び口を開く。
「セドリック卿。事情はどうあれ、オズモンド殿下の状態を一度確認していただきたい」
セドリックはあっさり首を振った。
「今日は無理です」
「……何?」
「一日中移動してきたばかりです。かなり疲れている」
さらりと続ける。
「それに、今見たところで殿下はすぐには目覚めません」
周囲の空気が止まった。
「明日にしましょう。休んでから診ます、
状態が今夜急変することはありません」
あまりに自然な口調だった。
まるで何でもない日常の判断のように。
そのまま彼は背を向ける。
その瞬間だった。
「セドリック」
アッシュの声が廊下に落ちた。
張りつめた空気が一気に揺れる。
赤髪の魔導師が振り返り、口元に笑みを浮かべた。
「はい?」
アッシュはまっすぐ見返す。
「……なぜ昏睡しているのか、知っているだろう」
声は驚くほど冷静だった。
「教国がやったのか。それとも――お前か」
その言葉は場の空気を完全に凍らせた。
誰も動かない。
セドリックは怒るでもなく、少し困った顔をする。
「それは冤罪ですね」
「私はずっと前線で戦っていました。
オズモンド殿下に何かする暇などありません」
そして軽く視線を落とす。
「むしろ——」
「殿下とラッセル、
戦場から彼を連れ戻したのはお二人でしょう?」
ラッセルの反応は早かった。
腰の剣が鞘に当たって鳴る。
「どういう意味だ!」
声が鋭く響く。
「俺が殿下への忠誠を裏切ったとでも言うのか!」
セドリックは楽しげに笑った。
「そんなことは言っていませんよ。
ただ——あなたは王命で第七王子を拘束する立場だった。
それが今は隣に立っている、
理由は……いくらでも説明のつかないものがある」
ラッセルの歯がきしむ。
「事情がある」
セドリックは片手を上げた。宥めるようでもあり、面白がっているようでもある。
「もちろん、承知しています」
懐から羊皮紙を取り出す。
最初から用意していたかのように。
「本当は明日話すつもりでしたが……殿下が今知りたいなら、少しくらい早めても構いません」
羊皮紙を軽く振る。だが渡さない。
「そういえば」
不意にグランツへ向き直る。
「教国の聖女も、この城にいるそうですね」
グランツの表情がわずかに硬くなる。
触れてほしくない場所を突かれた顔だった。
セドリックは軽く言う。
「彼女なら、オズモンド殿下の状態を見ればすぐ分かるでしょう」
グランツは低く答えた。
「それは私の判断だ。戦が終わりきっていない以上、立場の定まらぬ聖女を王族に近づけるわけにはいかない」
さらに声を落とす。
「もし治療ではなく——」
セドリックは微笑む。
柔らかく、しかし凍るように鋭い。
「賢明なご判断です、領主殿」
皮肉でも賛辞でもない。
ただ事実を言っただけという口調だった。
それから再びアッシュを見る。
「殿下」
一瞬の間。
一瞬だけ立ち止まる。
その目に、わずかな愉悦が浮かんだ。
「話はすべて、明日にしましょう」
そして続ける。
「今夜の自由を楽しんでください、
明日になれば――状況は完全に変わりますから」
言い終えると、彼はそのまま歩き去った。 マントが廊下に鋭い弧を描く。
ラッセルが低く吐き捨てた。
「……くそったれ」
アッシュは何も言わなかった。
ただ冷たい風の中に立ったまま、胸の奥で重く鼓動するものを感じていた。
セドリックが知っていることは――
自分が思っているより、ずっと多い。




