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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第十八章:ヴァロワ辺境堡

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第182話 赤髪の魔導師

 セドリックは領主の報告を聞き終えると、すぐには答えず数秒ほど沈黙した。情報をゆっくり整理しているような間だった。

 そのあとで、ようやく口を開く。声は軽く、責める色も緊張もない。

「ヴァロワの魔導師たちでも……手が出ませんでしたか」


 領主の眉は鉄のように沈む。

「冗談はよしてくれ。王国で知らぬ者はいない。あなたこそが最強の魔導師だ」


 セドリックは「買いかぶりですよ」とでも言いたげな顔をする。


「残念ながら、私は治癒術は得意ではありません」

 言いながら視線をわずかに横へ流し、アッシュを見る。

「殿下ならご存じでしょう?」


 アッシュの表情は動かなかった。

 だが胸の奥では冷たい思考が走る。

 ――つい一戦場で俺の乱れた魔力源を修正したのはお前だろう。


 あれほどのことができて、治療が苦手と言うのか。

 もっとも、技術的に言えばあれは治療魔法ではないのも事実だった。


 まるで心の中の反論を拾ったかのように、セドリックは続ける。


「王国の治療魔法は、せいぜい止血や状態の安定が限界です。

 本当の意味での深い治癒や浄化は……教国の領分ですから」


 領主が問う。

「では、殿下の昏睡は?」


 セドリックはわずかに考えるように間を置いた。

 不自然なほど静かな空白が生まれる。

「……違和感はありました」


「魔力の消耗とも違う。外傷による昏睡でもない」

 ゆっくりと目を上げる。

「オズモンド殿下の体には……特殊な魔力残滓があります」


 その言葉で領主の顔色が変わった。驚きというより、重い理解に近い。

 ――あなたでも処理できないのか。

 そう問う視線だった。


 セドリックはその表情を見て、ふっと笑う。

 だが次の瞬間には話題を滑らかに変えていた。


「それより、第七王子殿下」

 ゆっくりアッシュを見つめる。

 その目は、すべて承知していると言わんばかりだった。

「私に言いたいことが山ほどある顔ですね」


 アッシュのこめかみがわずかに動く。

 人の内側まで見透かされる感覚は、昔から好きではなかった。


 それでも声は平静だった。

「……当然だろう」


 セドリックはその言葉には答えず、視線を外す。

 まるで火薬の匂いを袖の中にしまい込むような仕草だった。


 領主が再び口を開く。

「セドリック卿。事情はどうあれ、オズモンド殿下の状態を一度確認していただきたい」


 セドリックはあっさり首を振った。

「今日は無理です」


「……何?」


「一日中移動してきたばかりです。かなり疲れている」

 さらりと続ける。

「それに、今見たところで殿下はすぐには目覚めません」


 周囲の空気が止まった。


「明日にしましょう。休んでから診ます、

 状態が今夜急変することはありません」


 あまりに自然な口調だった。

 まるで何でもない日常の判断のように。


 そのまま彼は背を向ける。

 その瞬間だった。


「セドリック」

 アッシュの声が廊下に落ちた。


 張りつめた空気が一気に揺れる。

 赤髪の魔導師が振り返り、口元に笑みを浮かべた。

「はい?」


 アッシュはまっすぐ見返す。

「……なぜ昏睡しているのか、知っているだろう」

 声は驚くほど冷静だった。


「教国がやったのか。それとも――お前か」

 その言葉は場の空気を完全に凍らせた。

 誰も動かない。


 セドリックは怒るでもなく、少し困った顔をする。

「それは冤罪ですね」


「私はずっと前線で戦っていました。

 オズモンド殿下に何かする暇などありません」

 そして軽く視線を落とす。

「むしろ——」


「殿下とラッセル、

 戦場から彼を連れ戻したのはお二人でしょう?」


 ラッセルの反応は早かった。

 腰の剣が鞘に当たって鳴る。


「どういう意味だ!」

 声が鋭く響く。

「俺が殿下への忠誠を裏切ったとでも言うのか!」


 セドリックは楽しげに笑った。

「そんなことは言っていませんよ。

 ただ——あなたは王命で第七王子を拘束する立場だった。

 それが今は隣に立っている、

 理由は……いくらでも説明のつかないものがある」


 ラッセルの歯がきしむ。

「事情がある」


 セドリックは片手を上げた。宥めるようでもあり、面白がっているようでもある。

「もちろん、承知しています」


 懐から羊皮紙を取り出す。

 最初から用意していたかのように。


「本当は明日話すつもりでしたが……殿下が今知りたいなら、少しくらい早めても構いません」

 羊皮紙を軽く振る。だが渡さない。


「そういえば」

 不意にグランツへ向き直る。

「教国の聖女も、この城にいるそうですね」


 グランツの表情がわずかに硬くなる。

 触れてほしくない場所を突かれた顔だった。


 セドリックは軽く言う。

「彼女なら、オズモンド殿下の状態を見ればすぐ分かるでしょう」


 グランツは低く答えた。

「それは私の判断だ。戦が終わりきっていない以上、立場の定まらぬ聖女を王族に近づけるわけにはいかない」


 さらに声を落とす。

「もし治療ではなく——」


 セドリックは微笑む。

 柔らかく、しかし凍るように鋭い。

「賢明なご判断です、領主殿」


 皮肉でも賛辞でもない。

 ただ事実を言っただけという口調だった。


 それから再びアッシュを見る。

「殿下」

 一瞬の間。

 一瞬だけ立ち止まる。

 その目に、わずかな愉悦が浮かんだ。


「話はすべて、明日にしましょう」

 そして続ける。

「今夜の自由を楽しんでください、

 明日になれば――状況は完全に変わりますから」

 言い終えると、彼はそのまま歩き去った。 マントが廊下に鋭い弧を描く。


 ラッセルが低く吐き捨てた。

「……くそったれ」


 アッシュは何も言わなかった。

 ただ冷たい風の中に立ったまま、胸の奥で重く鼓動するものを感じていた。


 セドリックが知っていることは――

 自分が思っているより、ずっと多い。

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