第181話 風暴の帰還
竜棚の外の夜風は、高地特有の冷たさを含んでいた。木の柵や太い綱が風に揺れ、かすかな軋みを立てている。
だが棚の中は思いのほか静かだった。干し草の上で丸くなっていたリメアは、足音に気づくとすぐに銀白の頭をもたげた。
【アッシュ……!】
翼がひとつ小さく動き、布が擦れるような音がする。アッシュが首筋の鱗を撫でると、胸の奥に溜まっていた疲れが少しだけほどけた。
リゼリアも入ってきて、扉を閉める。
「……やっと少し静かになったね」
そう言ってリメアの額にそっと触れる。
アッシュは木柱のそばに腰を下ろし、長く息を吐いた。
「ラッセルが言ってた。セドリックは……今夜か、遅くとも明日には戻るかもしれないって」
向かいに座ったリゼリアは、落ち着いた顔でうなずいた。
「それと、もう一つある」
アッシュは少し間を置いた。
「エルセリアが……兄上を治したいって言い出した」
リゼリアがすぐに顔を上げる。
「……もうお願いして、今はやめてって言ったの?
責める響きはない。ただ確認するだけ。
アッシュは視線を逸らし、低く答えた。
「……ああ。行ってきた」
短い沈黙のあと、彼は口を開く。
「リゼ、聞きたい。……兄上はなぜ昏睡している? 教国が何かしたのか」
リゼリアは考え込む。
「……私は魔力がないから、魔導師の手口までは分からない。
でも教国には、人を短時間眠らせる薬草があるよ。治療の補助とか、重傷者を強制的に休眠させる時に使うことがある」
その言葉でアッシュは思い出す。
リュミエラ大聖堂のあの夜——エルセリアの腕の中で意識を失ったあの時、鼻先に残っていた甘く柔らかな香り。抗いようのない眠気を連れてくる、あの匂いだ。
リゼリアは慎重に言った。
「教国があなたを辺境へ移送した時も……たぶん同じ系統の薬が使われていたと思う」
アッシュの指先がわずかに強張った。
刺すような感覚が胸の奥をかすめる。それは痛みというより、もっと冷たい不快感だった。自分の意識を奪われたことへの、生理的な拒絶だ。
それを察したのか、リゼリアは話を先へ進めた。
「ただ、今回の第二王子のことは、私は実際に診たわけじゃないから推測しかできない。薬の量も、体質も、精神状態も、目覚めるまでの時間に関わるから」
少し言葉を選んでから、
「あなたの時は……かなり強い量だったと思う。私が起こそうとしても、無理だったもの」
アッシュは目を伏せた。
リゼリアに対してではない。意識を奪われ、何も選べなくなること自体への嫌悪だった。自分を制御できない状態が、昔から何より嫌いだった。
しばらくして、リゼリアがまた静かに言う。
「オズモンド殿下は……すぐ目覚めるかもしれない。
あるいは……目覚めないかもしれない。でも、教国が理由もなく長く眠らせ続けるとは思えない」
アッシュは顔を上げる。
軍営でのあの時——セドリックは、オズモンドをすぐには目覚めさせなかった。もしあいつもこういう薬や術の扱いを知っているなら、あえて微妙な「時間差」を作ることだって不可能ではない。
「……セドリックも、同じようなことをしたのか」
吐き出すように呟くと、彼は深く息を吸い、乱れた思考を押し戻した。
「……さっきロックが渡してきた手紙」
視線が、彼女のマントの内側へ落ちる。
「中に、セドリックを牽制できる材料が入ってるかもしれない。
話し合うなら、こっちにも切れる札が必要だ」
リゼリアは頷き、封筒を半分引き出した。
「今、読む?」
アッシュが手を伸ばしかけた、その時だった。
堡の外から、短く鋭い号角が鳴り響いた。切迫した、軍の帰還を告げる音だった。
アッシュは反射的に立ち上がり、腰の剣に手をかける。
「……見てくる」
扉を開けると、冷気が一気に流れ込む。
リゼリアは入口に立ち、封筒を強く握りしめたままだ。
リメアも頭を上げ、アッシュの背を見送る。
【アッシュ……気をつけて】
アッシュは振り返り、ほんの一瞬だけ目を向ける。
そこに約束はない。退路もない。
ただ無言の合図だけが残る。
――備えておいてくれ。
今夜を境に、何かが変わる。
竜棚を出たばかりの彼の前に、すぐ一つの影が立ちはだかった。
「……ノアディス」
ラッセルだった。早足で近づいてきた彼は、周囲に聞かれまいとするように声を抑えている。
「戻ってきた。予想よりずっと早い」
アッシュの眉が寄る。
「……セドリックか」
「ああ。先行部隊を連れてな。辺境堡に残ってた竜隊も一緒だ」
二人は棚の並ぶ区画を抜け、主堡へ向かう。近づくにつれ空気はざわつきを増していった。松明が風に煽られ、竜輔士が走り回り、竜騎士たちの怒鳴り声が飛ぶ。降りたばかりの巨竜の荒い息づかいが、胸の内側まで震わせた。
昨夜と同じ光景が、もう一度再現されたようだった。
ただ違うのは、今夜の中心にいるのがセドリックだということだけだ。
ラッセルはアッシュをやや人目の少ない側廊へ導いた。そこでは、辺境堡の領主グランツが一人の赤髪の魔導師と話していた。松明の火がその髪を照らし、焼けた銅のように光って見える。
——セドリック・ローン。
彼は穏やかな口調で軍情を報告していたが、アッシュの接近に気づいた瞬間、ぴたりと言葉を止めた。
そして次の瞬間、芝居がかったほど完璧な礼を取る。
「お二人とも。一日ぶりですね。お変わりなく?」
片膝をわずかに折るその所作は、ほとんど宮廷そのものだった。
火に照らされた彼の目には、二つの光が混じっていた。半分は従順さ、もう半分は――この場そのものを楽しんでいるような色だ。
ラッセルの顔色が、目に見えて険しくなる。
これは王子への礼ではない。
——お前たちの関係など、知らないと思ったか。
——俺はずっと見てきた。お前たちが育つところまで。
セドリックがわざわざこう礼をしたのは、敬意ではない。
ラッセルに突きつけるためだ。
——結局、お前はあいつを放っておけない。
見透かす眼差しがラッセルを苛立たせる。だが彼は何も言わず、奥歯を噛みしめた。
礼を終えると、セドリックは何事もなかったように口調を戻した。
「戦況は予想外に順調でした。予定より早く戻れました」
そのまま領主へ向き直り、絶妙な調子で続ける。
「この二人の竜騎士は前線で大きな働きを見せてくれました」
アッシュもラッセルも、その裏を理解していた。
褒めているのではない。
――この二人は私の側の人間だ。扱いには気をつけろ。
そう釘を刺しているのだ。
グランツはわずかに眉を動かし、冷ややかに返す。
「それは聞いている。とくに——殿下の身分について、な」
セドリックは大げさではない自然さで振り向き、驚いたような表情を作った。
「ああ……やはり一日も隠せませんでしたか。さすがはグランツ殿、鋭いですね」
礼儀、称賛、驚き——
すべて完璧で、まるで芝居。
だが誰もそれを指摘しない。ここにいる全員が知っていた。セドリックは最初からアッシュの正体が露見することを承知していたのだ。ただ、今はそれを《《演じて》》いるだけだった。
重い沈黙が落ちる。誰が次の手を打つかを待つような空気だった。
先に口を開いたのは領主だった。辺境の老将らしい、低く硬い声だ。
「……セドリック卿。第二王子殿下はいまだ目覚めておられない。堡内の魔導治療師たちも手を尽くしたが……進展はなかった」
その言葉とともに、風までもが止まったように思えた。
セドリックの表情がわずかに動く。ほんの小さな変化だったが、見逃せるほど鈍くはない。
アッシュは黙ってその横顔を見つめた。胸のどこかを、細い氷の糸で引かれるような感覚が走る。
――セドリック。
お前は何を考えている。
次にどこまで、俺を盤上へ押し出すつもりだ。




