第180話 風の残すもの
ロックは明らかに、自分の得意な茶化しの領域に入ったとでも思ったのか、
アッシュをちらりと見て眉を上げた。
「どうした? 第七王子様、やきもちか?
まさかその死人みたいな顔で嫉妬するとはな」
アッシュはその言葉を完全に無視した。
「……何の用で戻った」
ロックは肩をすくめる。
「やっと聞いてくれたか」と言わんばかりの顔だ。
「前に銃の修理屋を探してやった時、連邦の話をしただろ?
ガレスは何も言わなかったが、どうにも引っかかってな。だから少し調べ直してみた」
アッシュは驚いた様子もなく、静かに確認する。
「……セドリックがなぜ連邦にいたのか。
そして、どうやって王国の宮廷に入ったのか――その件か」
ロックはいつもの気楽そうな笑みを浮かべた。
「本当はあんたたちを砦まで送ったら、そのまま出るつもりだったんだ。だが途中でちょっと耳に入る話があってな」
そう言って自分の耳を指さす。狐のように鋭い表情だった。
「で、引き返してきたってわけだ」
遠くでこちらを警戒している竜騎士をちらりと見て、盛大に目を回す。
「戻ってきた途端、あんたの竜騎士どもに怪しい奴扱いさ。用があるって言ってるのに、身分証明しろの一点張りだ」
肘でアッシュを軽く突きながら言った。
「普通ならここで『わざわざ戻ってくれてありがとう』くらい言うところじゃないのか?」
アッシュは淡々と返す。
「辺境堡に自由に出入りして、竜棚の前まで来てから止められただけでも十分だろう。……それだけ潜り抜けたのはお前の腕だ」
少し間を置き、付け加える。
「だが、彼らも職務を怠ったわけじゃない」
ロックは二秒ほど黙り込み、次の瞬間、頭を仰け反らせて笑い出した。
「……ははっ、なるほどな」
笑いが収まると、マントを軽く払って言う。
「ガレスがあんたに惚れ込んでる理由、ちょっと分かった気がする」
それから表情を切り替えた。軽薄な調子は残っているが、声の奥には情報屋らしい冷静さが混じる。
「だが殿下。俺はガレスとは違う。
奴は義理で動く男だ。俺はそうじゃない」
「……では、なぜ従っている」
ロックは一瞬だけ言葉を失う。冗談で逃げられないと悟ったように、小さく息を吐いた。
「……あいつに命を拾われた」
その目には、ほんの短いあいだだが茶化しの色がなかった。
「それに、あの男は誰かに“何をしてくれる”かなんて聞かない」
言い終えると、何事もなかったように肩を回す。
「さて、本題だ」
外套の内側から濃い色の封筒を取り出し、アッシュに差し出す。
アッシュが手を伸ばした瞬間、ロックは「ぱん」とそれを引っ込めた。
アッシュは怒ることもなく、低く言う。
「……何が望みだ」
ロックは少し首を傾け、半分だけ笑った。
「俺か? 何も、ただな——」
視線がリゼリアへ向く。
そして、封筒を——
彼女に差し出した。
「え……? 私に?」
リゼリアは明らかに戸惑った。
ロックは優雅に小さく一礼する。
甘く、しかし毒を含んだ声音。
「旅の途中、楽しい時間をくれた礼だ。ライラック嬢」
「受け取ってくれ」
わざとアッシュに聞かせるような軽い調子だった。
アッシュが眉をひそめかけた瞬間、ロックはもう背を向けていた。
「おい」
アッシュが一歩踏み出す。
「ガレスを待たないのか」
ロックは手をひらひら振った。まるで蠅でも追い払うように。
「行き先くらい、あいつは分かってる」
振り返らないまま言葉だけが風のように残る。
「殿下、分かるだろう。俺が戻ったのは王族に恩を売るためじゃない」
「ただ――遅れたら手遅れになる話があるだけだ」
が風に翻り、そのまま辺境の闇に溶けていった。
アッシュはしばらくその場に立っていた。
リゼリアは手にした封筒を見つめ、そっと差し出す。
「アッシュ、これ……」
しかしアッシュは首を振る。
「君が持っていてくれ」
「どうして?」
アッシュはロックの消えた方向を見る。
目の奥に、次の局面へ押し出されたような静かな理解。
「彼はわかっている。
君に渡せば、いずれ俺の手に届くと」
「それでも、そうした」
つまり――その中身は、ただ俺に知らせるためのものじゃない。
リゼリアにも関わる話だ。
アッシュは静かに言った。
「……先に読んでくれ、
俺に見せるのは、その後でいい」
リゼリアは封筒を握りしめる。
これは、アッシュの運命だけではない。
彼女と、リメアと——
その先の未来をも巻き込むものだと感じていた。
封筒を胸元にしまい、深く息を吸う。
「……じゃあ、リメアに会いに行こう」
アッシュは頷く。
二人は並んで竜棚へ向かう。
石壁の隙間から吹き込む冷風が、
囁くように告げる。
——本当の嵐は、この手紙から始まる。




