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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第十八章:ヴァロワ辺境堡

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第179話 夕暮れの廊下

 主堡の冷たい空気は、日が沈む直前の静けさの中でいっそう濃く感じられた。


 アッシュが宿舎の扉を押し開けると、室内には夕方の暗い金色の光だけが残り、寝台の縁や鎧掛けをかすかに照らしている。


 ――ようやく、息がつける。

 鎧の冷気が肩甲骨を伝って肌へと滲む。


 アッシュは外衣を解き、埃をかぶったマントを外す。

 動作は落ち着いているが、そこには隠しきれない疲労が滲んでいた。


 今日は主堡と廊下を何度も往復した。領主との駆け引き、状況の調整、余計な衝突を避けるための言葉選び。どの瞬間も気を抜くことができなかった。


 それでも、頭の奥から離れないのは別のことだった。

 リゼとリメア。


 装具を整え終えると、アッシュは深く息を吸う。まだ完全に夜ではない。今なら、二人の様子を見に行く時間がある。

 ――無事だと、確かめておきたかった。


 宿舎の扉を開けて廊下へ出る。石の床は夕光を鈍く反射している。二歩ほど進んだところで、交差する通路の先に人影が見えた。


 リゼリア。

 そして――ラッセル。


 どうやらリゼリアが何か話し終えたところらしい。足音に気づいたラッセルが顔を上げる。

 アッシュを見た瞬間、眉がわずかに跳ねた。まるで見られたくない場面を見られたような顔だった。


 彼はすぐ視線を逸らし、短く言う。

「……来たぞ」


 それだけ言って、背を向けた。

 いつもよりもわずかに硬い足取りで去っていく。


 アッシュが近づくと、リゼリアは小さな包みを抱えていた。

 彼を見ると、ほっとしたように微笑む。


「アッシュ」

 柔らかな声。

 安心したあとの、かすかな息混じり。


 アッシュはラッセルの去った方向を一瞥した。

「……何を話していた?」


 リゼリアは少し戸惑い、わずかに頬を曇らせる。

「大したことじゃないの。

 あなたを探してて……でも」


 包みを少し持ち上げる。

「一人で部屋に入るのは、あまり良くないでしょう? だから廊下で待ってたの」


「……ラッセルは?」


 リゼリアは唇を軽く噛んだ。

「帰ってくる時間を聞いただけ」

 そう言って包みを差し出した。

「今日はずっと忙しかったでしょう?

 厨房でもらったの。パンとスープ用の焼き菓子。きっとまた食事を忘れてると思って」


 アッシュはそれを受け取り、しばらく包みを見下ろした。指先が布に触れた瞬間、胸の奥に溜まっていた空気が静かに抜ける。


「……ありがとう」

 短い言葉だったが、先ほどの広間の圧力よりもずっと現実味のある響きだった。


 リゼリアは彼を見上げる。


「リメアのところに行こう」

 その一言で、胸の奥に残っていた冷たい霧が少しだけ薄れた。



 アッシュはうなずき、二人は並んで竜棚へ向かう。

 ――だが途中で、騒がしい声が聞こえてきた。


「こんな時間にこそこそしてるとは、怪しいな!」

「だから用事があって戻ったって言ってるだろ! お前ら新入りか?」

「証拠は? 敵の間者じゃないとどう証明する!」

「竜騎士ってのは頭まで竜並みに高いところにあるのか?!」


 遠慮のない言い方だった。アッシュはすぐに誰か分かる。


 リゼリアも同じらしく、小さく苦笑した。

「……ロックさんね」

「ガレスさんが傭兵団を二手に分けたとき、

 ロックさんが私たちをここまで護送してくれたの。そのあとすぐ出て行ったはずなのに……どうして戻ってきたのかしら」


 二人は足を速める。

 竜棚の前では、深灰のマントを羽織った男が立っていた。風のように軽い身のこなしの傭兵――ロック。彼を二人の竜騎士が半ば囲む形になっている。


 アッシュが近づくと、竜騎士たちは一瞬で姿勢を正した。


「で、殿下!」

 慌てて敬礼する。


 一方ロックは大げさに目を転がし、手を振った。

「やれやれ、面倒だなあ。竜騎士ってのはどこで覚えたんだ? 『人を見下す』ってやつを」

 まるで税金の高さを愚痴るような口調だった。竜騎士の一人が怒りかける。


「まあいい」

 アッシュが手を上げて止めた。

「持ち場に戻れ」


 二人は顔を見合わせ、しぶしぶ退いた。

 夜風の中、三人だけが残る。


 リゼリアが先に声をかける。

「ロックさん、もう出発したと思っていました。何か思い出して戻ってきたんですか?」


 ロックは途端に調子を変え、軽い笑顔を浮かべた。

「いやあ、さすがライラック嬢。相変わらず頭が切れて、しかも綺麗だ。反則だよ、それ」


 アッシュの眉がわずかに動く。その距離感に、ほんのわずかな違和。


 リゼリアは小さく咳払い。

「護送の途中で、少しお話を。

 ロックさん、情報通だから……旅の話を聞かせてくれて」


 アッシュは横目でそれを聞きながら、なぜか胸の奥が少し締めつけられるのを感じていた。


 彼女は誰とでも自然に話せる。

 誰とでも、すぐ打ち解ける。

 ――それが、自分にはできないことだ。

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