第179話 夕暮れの廊下
主堡の冷たい空気は、日が沈む直前の静けさの中でいっそう濃く感じられた。
アッシュが宿舎の扉を押し開けると、室内には夕方の暗い金色の光だけが残り、寝台の縁や鎧掛けをかすかに照らしている。
――ようやく、息がつける。
鎧の冷気が肩甲骨を伝って肌へと滲む。
アッシュは外衣を解き、埃をかぶったマントを外す。
動作は落ち着いているが、そこには隠しきれない疲労が滲んでいた。
今日は主堡と廊下を何度も往復した。領主との駆け引き、状況の調整、余計な衝突を避けるための言葉選び。どの瞬間も気を抜くことができなかった。
それでも、頭の奥から離れないのは別のことだった。
リゼとリメア。
装具を整え終えると、アッシュは深く息を吸う。まだ完全に夜ではない。今なら、二人の様子を見に行く時間がある。
――無事だと、確かめておきたかった。
宿舎の扉を開けて廊下へ出る。石の床は夕光を鈍く反射している。二歩ほど進んだところで、交差する通路の先に人影が見えた。
リゼリア。
そして――ラッセル。
どうやらリゼリアが何か話し終えたところらしい。足音に気づいたラッセルが顔を上げる。
アッシュを見た瞬間、眉がわずかに跳ねた。まるで見られたくない場面を見られたような顔だった。
彼はすぐ視線を逸らし、短く言う。
「……来たぞ」
それだけ言って、背を向けた。
いつもよりもわずかに硬い足取りで去っていく。
アッシュが近づくと、リゼリアは小さな包みを抱えていた。
彼を見ると、ほっとしたように微笑む。
「アッシュ」
柔らかな声。
安心したあとの、かすかな息混じり。
アッシュはラッセルの去った方向を一瞥した。
「……何を話していた?」
リゼリアは少し戸惑い、わずかに頬を曇らせる。
「大したことじゃないの。
あなたを探してて……でも」
包みを少し持ち上げる。
「一人で部屋に入るのは、あまり良くないでしょう? だから廊下で待ってたの」
「……ラッセルは?」
リゼリアは唇を軽く噛んだ。
「帰ってくる時間を聞いただけ」
そう言って包みを差し出した。
「今日はずっと忙しかったでしょう?
厨房でもらったの。パンとスープ用の焼き菓子。きっとまた食事を忘れてると思って」
アッシュはそれを受け取り、しばらく包みを見下ろした。指先が布に触れた瞬間、胸の奥に溜まっていた空気が静かに抜ける。
「……ありがとう」
短い言葉だったが、先ほどの広間の圧力よりもずっと現実味のある響きだった。
リゼリアは彼を見上げる。
「リメアのところに行こう」
その一言で、胸の奥に残っていた冷たい霧が少しだけ薄れた。
アッシュはうなずき、二人は並んで竜棚へ向かう。
――だが途中で、騒がしい声が聞こえてきた。
「こんな時間にこそこそしてるとは、怪しいな!」
「だから用事があって戻ったって言ってるだろ! お前ら新入りか?」
「証拠は? 敵の間者じゃないとどう証明する!」
「竜騎士ってのは頭まで竜並みに高いところにあるのか?!」
遠慮のない言い方だった。アッシュはすぐに誰か分かる。
リゼリアも同じらしく、小さく苦笑した。
「……ロックさんね」
「ガレスさんが傭兵団を二手に分けたとき、
ロックさんが私たちをここまで護送してくれたの。そのあとすぐ出て行ったはずなのに……どうして戻ってきたのかしら」
二人は足を速める。
竜棚の前では、深灰のマントを羽織った男が立っていた。風のように軽い身のこなしの傭兵――ロック。彼を二人の竜騎士が半ば囲む形になっている。
アッシュが近づくと、竜騎士たちは一瞬で姿勢を正した。
「で、殿下!」
慌てて敬礼する。
一方ロックは大げさに目を転がし、手を振った。
「やれやれ、面倒だなあ。竜騎士ってのはどこで覚えたんだ? 『人を見下す』ってやつを」
まるで税金の高さを愚痴るような口調だった。竜騎士の一人が怒りかける。
「まあいい」
アッシュが手を上げて止めた。
「持ち場に戻れ」
二人は顔を見合わせ、しぶしぶ退いた。
夜風の中、三人だけが残る。
リゼリアが先に声をかける。
「ロックさん、もう出発したと思っていました。何か思い出して戻ってきたんですか?」
ロックは途端に調子を変え、軽い笑顔を浮かべた。
「いやあ、さすがライラック嬢。相変わらず頭が切れて、しかも綺麗だ。反則だよ、それ」
アッシュの眉がわずかに動く。その距離感に、ほんのわずかな違和。
リゼリアは小さく咳払い。
「護送の途中で、少しお話を。
ロックさん、情報通だから……旅の話を聞かせてくれて」
アッシュは横目でそれを聞きながら、なぜか胸の奥が少し締めつけられるのを感じていた。
彼女は誰とでも自然に話せる。
誰とでも、すぐ打ち解ける。
――それが、自分にはできないことだ。




