幕間 ヴァロワ領主 ――寒鋒の観察
ヴァロワ領主グランツ・ヴァロワは、主堡の広間に残る反響音が好きではなかった。
あの空間は整いすぎている。冷たく、余計なものを一切許さない。人の言葉も感情も削ぎ落とし、隠していたものまで輪郭をはっきりさせてしまう。
先ほどそこに立っていた少年――第七王子ノアディス。
そして、竜王の繫名者。
領主は眉間を指で押さえ、低く呟いた。
「……辺境も、ますます穏やかではなくなったな」
窓辺に歩み寄る。外では風が雪を巻き上げ、白い灰のように空を舞っていた。
その光景を見た瞬間、ひと月前の記憶が自然と浮かび上がる。
一か月前――
雪はすべての足跡を覚えている。
ただ、あの夜の足跡だけは、まるで世界から拭い去られたかのようだった。
辺境の外、十三里の荒野。
風が白雪を裂き、獣の咆哮のように鳴り響く。
その白い静寂の中央に、一人の男が立っていた。黒いマントの中で、赤い髪だけが夜に異様なほど鮮やかだった。血の光のように。
男はしゃがみ込み、雪に指先を当て、低く呟いた。
「……やっと、ここまで来た」
声は驚くほど静かだった。
だが彼の掌から広がる魔力は、波紋のように雪原を覆っていく。
軍の魔導士が使う術式ではない。
あまりにも繊細で、あまりにも静かで、ほとんど形を持たない。まるで大地そのものの鼓動を解析するかのような魔力だった。
岩坡の上から、ヴァロワ領主は静かにその姿を見下ろしていた。
男の正体は知っている。
王国唯一の宮廷魔導顧問、
セドリック。
魔導院も竜騎士団も従う、王国魔導の頂点に立つ存在。
「一人で戦局を変える男」と、軍の将校たちは評していた。
その日、セドリックは魔導兵団を率いて辺境へ来た。名目は「雪原での新型魔導兵器の試験」。表向きは何の問題もない。
だが領主は、どこか違和感を覚えていた。
彼の足取りも、放つ魔力も、巡視や布陣のそれではない。
まるで、何かの匂いを追う獣のようだった。
領主は近づいた。
「セドリック閣下。
こんな時間に何をしておられる」
赤髪の魔導士は顔を上げ、微笑んだ。
優しすぎる。
だが同時に、あまりにも無機質。
まるで人の感情を完璧に模倣した仮面。
「……ある子どもを待っているのです」
探すでもなく、追うでもなく、ただ「待つ」と言った。
領主の胸がわずかに縮む。
その瞳に浮かんだ光は、執着と後悔、そして――必ず訪れる運命を疑わない確信だった。
「待って……その後は?」試すように問いかける。
セドリックは北の夜空を見上げた。そこに、彼にしか見えない星でもあるかのように。
「その時が来たら……彼を正しい場所へ連れていきます」
子どもに語りかけるような柔らかい口調だった。
だが領主の背筋には冷たいものが走る。運命を宣告するような声だった。
次の瞬間、男の周囲の魔力が光の粒となって散る。
夜はそれをすぐに飲み込み、跡形も残さなかった。
その背中を見送りながら、領主は確信した。
――この男は兵器の試験などに来たのではない。
――王国そのものを揺るがす存在を待っているのだ。
現在――
領主は窓辺で目を開いた。
記憶は今も鮮明だった。
一か月前、あの男は第七王子を待っていた。
その少年を、領主は実際に見たことはなかった。
聞いたのは噂ばかりだ。
竜王に選ばれた少年。西域戦で英雄となり、北境で竜王と共に死んだとされた男。
だが王都の発表は後に変わった。
「第七王子は竜王を殺し、遺卵を奪って叛国した」
そして今、その王子が自分の城に現れた。
偶然のはずがない。
何かが動き始めている。
「……第二王子は昏睡、聖女は城内にいる。繫名者も現れた。しかもセドリックはまだ戻らない」
すべての線が一つの方向へ集まりつつあった。
王権は傾く。
新しい竜王の力が目覚めようとしている。
そして第七王子――ノアディスは、間違いなくその中心に立つ。
彼は叛国者などではない。
それは王都が都合よく貼った札にすぎない。
領主は白い息を吐き、広間の中央へ戻った。
静まり返った空間に、低い声が落ちる。
「……王都の連中に、あの子を好きにさせるわけにはいかん」
それは反逆ではない。
王権よりも古い法への従順だった。
――竜王の血を守ること。
――竜と共に歩む者の道を守ること。
窓を叩く風の音が、遠い誓いを呼び起こす。
領主は静かに呟いた。
「願わくば……あの少年が、それに耐えられる器であることを」




