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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第十八章:ヴァロワ辺境堡

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幕間 ヴァロワ領主 ――寒鋒の観察

 ヴァロワ領主グランツ・ヴァロワは、主堡の広間に残る反響音が好きではなかった。


 あの空間は整いすぎている。冷たく、余計なものを一切許さない。人の言葉も感情も削ぎ落とし、隠していたものまで輪郭をはっきりさせてしまう。


 先ほどそこに立っていた少年――第七王子ノアディス。

 そして、竜王の繫名者。


 領主は眉間を指で押さえ、低く呟いた。

「……辺境も、ますます穏やかではなくなったな」


 窓辺に歩み寄る。外では風が雪を巻き上げ、白い灰のように空を舞っていた。

 その光景を見た瞬間、ひと月前の記憶が自然と浮かび上がる。



 一か月前――


 雪はすべての足跡を覚えている。

 ただ、あの夜の足跡だけは、まるで世界から拭い去られたかのようだった。


 辺境の外、十三里の荒野。

 風が白雪を裂き、獣の咆哮のように鳴り響く。


 その白い静寂の中央に、一人の男が立っていた。黒いマントの中で、赤い髪だけが夜に異様なほど鮮やかだった。血の光のように。

 男はしゃがみ込み、雪に指先を当て、低く呟いた。


「……やっと、ここまで来た」

 声は驚くほど静かだった。

 だが彼の掌から広がる魔力は、波紋のように雪原を覆っていく。


 軍の魔導士が使う術式ではない。

 あまりにも繊細で、あまりにも静かで、ほとんど形を持たない。まるで大地そのものの鼓動を解析するかのような魔力だった。


 岩坡の上から、ヴァロワ領主は静かにその姿を見下ろしていた。


 男の正体は知っている。

 王国唯一の宮廷魔導顧問、

 セドリック。


 魔導院も竜騎士団も従う、王国魔導の頂点に立つ存在。

「一人で戦局を変える男」と、軍の将校たちは評していた。


 その日、セドリックは魔導兵団を率いて辺境へ来た。名目は「雪原での新型魔導兵器の試験」。表向きは何の問題もない。


 だが領主は、どこか違和感を覚えていた。

 彼の足取りも、放つ魔力も、巡視や布陣のそれではない。


 まるで、何かの匂いを追う獣のようだった。


 領主は近づいた。

「セドリック閣下。

 こんな時間に何をしておられる」


 赤髪の魔導士は顔を上げ、微笑んだ。

 優しすぎる。

 だが同時に、あまりにも無機質。


 まるで人の感情を完璧に模倣した仮面。


「……ある子どもを待っているのです」

 探すでもなく、追うでもなく、ただ「待つ」と言った。


 領主の胸がわずかに縮む。

 その瞳に浮かんだ光は、執着と後悔、そして――必ず訪れる運命を疑わない確信だった。


「待って……その後は?」試すように問いかける。


 セドリックは北の夜空を見上げた。そこに、彼にしか見えない星でもあるかのように。


「その時が来たら……彼を正しい場所へ連れていきます」


 子どもに語りかけるような柔らかい口調だった。

 だが領主の背筋には冷たいものが走る。運命を宣告するような声だった。


 次の瞬間、男の周囲の魔力が光の粒となって散る。

 夜はそれをすぐに飲み込み、跡形も残さなかった。


 その背中を見送りながら、領主は確信した。

 ――この男は兵器の試験などに来たのではない。

 ――王国そのものを揺るがす存在を待っているのだ。




 現在――

 領主は窓辺で目を開いた。

 記憶は今も鮮明だった。


 一か月前、あの男は第七王子を待っていた。

 その少年を、領主は実際に見たことはなかった。

 聞いたのは噂ばかりだ。


 竜王に選ばれた少年。西域戦で英雄となり、北境で竜王と共に死んだとされた男。

 だが王都の発表は後に変わった。


「第七王子は竜王を殺し、遺卵を奪って叛国した」


 そして今、その王子が自分の城に現れた。

 偶然のはずがない。

 何かが動き始めている。


「……第二王子は昏睡、聖女は城内にいる。繫名者も現れた。しかもセドリックはまだ戻らない」


 すべての線が一つの方向へ集まりつつあった。


 王権は傾く。

 新しい竜王の力が目覚めようとしている。


 そして第七王子――ノアディスは、間違いなくその中心に立つ。

 彼は叛国者などではない。

 それは王都が都合よく貼った札にすぎない。


 領主は白い息を吐き、広間の中央へ戻った。

 静まり返った空間に、低い声が落ちる。


「……王都の連中に、あの子を好きにさせるわけにはいかん」


 それは反逆ではない。

 王権よりも古い法への従順だった。


 ――竜王の血を守ること。

 ――竜と共に歩む者の道を守ること。


 窓を叩く風の音が、遠い誓いを呼び起こす。

 領主は静かに呟いた。


「願わくば……あの少年が、それに耐えられる器であることを」

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