第178話 主堡の広間――冷光と権力
ヴァロワ辺境堡の主堡広間は、厚い石と鉄で組み上げられた重い空間だった。細い矢狭間から差し込む昼の光が、冷たい刃のように床へ落ちている。
アッシュが足を踏み入れたとき、領主はすでに最上段の階台に立っていた。黒鉄の鎧をまとった中年の将で、長く辺境を守ってきた者特有の疲労と警戒をその眼に宿している。
アッシュを見ると、わずかに眉が動いた。
――驚き。
だがその感情はすぐに礼節の下に押し込められた。
「……第七王子、ノアディス殿下でいらっしゃいますか」
声は丁寧だが、臣下らしい温度はない。王族と領主のあいだに張られた氷のような距離だった。
アッシュは静かに答える。
「そうだ」
その一言に、領主の眉がもう一度かすかに動く。
広間の左右では、武官や魔導士、書記官たちが一斉に彼を見つめていた。突然現れた危険な要素を測る視線だった。
やがて領主が立ち上がる。鎧の擦れる音が、静まり返った広間に響いた。
「殿下」
彼は回りくどい言い方をしなかった。
「あなたが軍中に現れた事実は――『叛逃後の帰参』、あるいは『軍を味方につける意図』と受け取られても不思議ではありません」
背後に立つエルンストとダリオンの肩がわずかに緊張する。合図一つで剣を抜く覚悟だった。
だがアッシュの目は、灰色の霧の中の星のように冷たく静かだった。
「ヴァロワ卿」
低い声が広間を制する。
「あなたに、ここで私を裁く権限はない」
空気が喉を締め上げられたように凍る。
領主の顔色が険しくなる。言い返しかけた彼の視線が、アッシュの背後で止まった。
二人の竜騎士――その襟には、第二王子の紋章が刻まれている。
怒りを押し殺し、領主は言葉を飲み込んだ。
「……その権限は確かにありません」
それでも声には不満が滲む。
「しかし殿下の存在が、辺境の情勢を複雑にしているのは事実です」
話題を変える。
「さらに、教国の聖女と親しい関係にあると聞きました。殿下、それが何を意味するかお分かりでしょう」
視線がいっせいにアッシュへ向く。
――教国と通じているのではないか。
だがアッシュは眉一つ動かさなかった。
「聖女は私とは無関係だ」
領主の目が鋭くなる。
「本当に?」
「本当だ」
石壁のように揺るがない声だった。
アッシュは一歩進み、静かに言う。
「ヴァロワ卿。もう一度言う」
その声音は、法律そのものを読み上げるようだった。
「あなたに、私を尋問する資格はない。王国軍務に関わる実質的議題がないなら、この場はここで終わりだ」
広間がざわめく。だが誰も大声を出さない。
エルンストとダリオンが短く視線を交わす。
――これが、かつて王国の英雄と呼ばれた男だ。
国に捨てられ、反逆者と呼ばれてもなお、王族としての圧倒的な威圧を失っていない。
領主が口を開くより先に、アッシュはさらに続けた。
「王家軍律第十二章。王命なき場合、地方領主は王族を処断できない」
法律。
「そして現在、この砦の軍務は第二王子の竜騎士隊が代行している」
軍権。
その証拠が、彼の背後に立つ二人だった。
最後にアッシュは静かに言った。
「さらに今回の軍備と魔導技術は、宮廷魔導顧問セドリック・ローンが統括している。本人不在の場で、何を議しても意味はない」
魔導権限。
三つの枠組みを突きつけられ、広間は完全に封じられた。反論できる者はいない。領主でさえも。
やがて彼は苦々しい表情でうなずいた。
「……殿下のお考え、理解しました」
わずかに頭を下げる。それは敬意というより、現実への譲歩だった。
アッシュは淡々と言う。
「軍務の話がないなら、失礼する」
背を向けかけたそのとき、
「殿下、少しお待ちください」
領主の声が広間を止めた。
アッシュが振り返る。
「……まだ何か?」
領主はしばらく彼を見つめ、やがて低く言った。
「一つ確認したいことがあります。――竜王の遺卵の噂です」
武官たちが息を呑んだ。軽々しく口にできる話題ではない。
しかし長年この辺境を守ってきた彼は知っている。竜王に関わる話は、王権だけでなく大陸全体の秩序を揺るがす。
アッシュは逃げなかった。
「噂は事実だ」
領主の瞳がわずかに縮む。広間の空気が張り詰めた。
「孵化した竜は……私と繫名している」
誇示でも自慢でもない。ただの事実の提示だった。
小さなざわめきが広がる。
領主はすぐに次の問いを放った。
「では、その竜は……新たな竜王になるのですか」
「そうだ」
アッシュはまっすぐ見返す。
「ただし、リメアはまだ幼い」
その一言で、領主の肩の緊張がわずかに緩んだ。
落胆ではない。
むしろ、敬意に近いものだった。
竜王がまだ成熟していない。つまり今すぐ世界の均衡が動くわけではない。だがその繫名者が、今ここに立っている。
それは、王国の力の線が王都だけではなくなったことを意味していた。
領主はもう一度アッシュを見つめる。
まるで、ようやく本当の力の所在を理解したかのような目だった。
「……話はそれだけか」
アッシュが言う。
領主はしばらく沈黙したあと、鎧の姿勢を正した。そして深く、正式な軍礼を取る。
それは王族への礼でも、反逆者への礼でもない。
竜の繫名者への礼だった。
「……理解しました」
アッシュは返礼せず、軽くうなずくだけで広間を後にした。
重い扉が背後で閉じる。
その瞬間、彼はようやく小さく息を吐いた。
広間の圧力を表には出さなかったが、決して楽ではなかった。
すぐにエルンストとダリオンが近づく。
「殿下、大丈夫ですか」
アッシュは首を振った。
「……後ろを支えてくれて助かった。君たちの名を借りた」
エルンストは即座に答える。
「当然の務めです」
ダリオンも低く言った。
「領主は越線しませんでした。……扱いやすい種類の人間です」
アッシュは主堡の方を一度振り返る。
「そうだ」
そして静かに続けた。
「彼は竜王を信じている」
その言葉の意味は重かった。
竜王を信じる者は、王都よりも竜の伝承を重んじる。
アッシュは知っている。竜族に「竜王」は存在しない。だが王国はその伝説を信仰のように守っている。
だからこそ――使える。
信頼する必要はない。ただ、力の線として利用すればいい。
エルンストとダリオンも、その意図を理解していた。
三人が外の回廊へ出ると、冷たい風が顔を打った。
だがその冷気さえ、広間の重苦しさに比べればずっと軽く感じられた。
――アッシュに必要な同盟者は、戦場の残骸の中から少しずつ姿を現し始めていた。




