表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第十八章:ヴァロワ辺境堡

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

195/245

第178話 主堡の広間――冷光と権力

 ヴァロワ辺境堡の主堡広間は、厚い石と鉄で組み上げられた重い空間だった。細い矢狭間から差し込む昼の光が、冷たい刃のように床へ落ちている。


 アッシュが足を踏み入れたとき、領主はすでに最上段の階台に立っていた。黒鉄の鎧をまとった中年の将で、長く辺境を守ってきた者特有の疲労と警戒をその眼に宿している。


 アッシュを見ると、わずかに眉が動いた。

 ――驚き。

 だがその感情はすぐに礼節の下に押し込められた。


「……第七王子、ノアディス殿下でいらっしゃいますか」

 声は丁寧だが、臣下らしい温度はない。王族と領主のあいだに張られた氷のような距離だった。


 アッシュは静かに答える。

「そうだ」


 その一言に、領主の眉がもう一度かすかに動く。

 広間の左右では、武官や魔導士、書記官たちが一斉に彼を見つめていた。突然現れた危険な要素を測る視線だった。

 やがて領主が立ち上がる。鎧の擦れる音が、静まり返った広間に響いた。


「殿下」

 彼は回りくどい言い方をしなかった。

「あなたが軍中に現れた事実は――『叛逃後の帰参』、あるいは『軍を味方につける意図』と受け取られても不思議ではありません」


 背後に立つエルンストとダリオンの肩がわずかに緊張する。合図一つで剣を抜く覚悟だった。

 だがアッシュの目は、灰色の霧の中の星のように冷たく静かだった。


「ヴァロワ卿」

 低い声が広間を制する。

「あなたに、ここで私を裁く権限はない」


 空気が喉を締め上げられたように凍る。

 領主の顔色が険しくなる。言い返しかけた彼の視線が、アッシュの背後で止まった。

 二人の竜騎士――その襟には、第二王子の紋章が刻まれている。

 怒りを押し殺し、領主は言葉を飲み込んだ。


「……その権限は確かにありません」

 それでも声には不満が滲む。

「しかし殿下の存在が、辺境の情勢を複雑にしているのは事実です」


 話題を変える。

「さらに、教国の聖女と親しい関係にあると聞きました。殿下、それが何を意味するかお分かりでしょう」


 視線がいっせいにアッシュへ向く。

 ――教国と通じているのではないか。

 だがアッシュは眉一つ動かさなかった。


「聖女は私とは無関係だ」


 領主の目が鋭くなる。

「本当に?」


「本当だ」

 石壁のように揺るがない声だった。


 アッシュは一歩進み、静かに言う。


「ヴァロワ卿。もう一度言う」

 その声音は、法律そのものを読み上げるようだった。

「あなたに、私を尋問する資格はない。王国軍務に関わる実質的議題がないなら、この場はここで終わりだ」


 広間がざわめく。だが誰も大声を出さない。


 エルンストとダリオンが短く視線を交わす。

 ――これが、かつて王国の英雄と呼ばれた男だ。

 国に捨てられ、反逆者と呼ばれてもなお、王族としての圧倒的な威圧を失っていない。


 領主が口を開くより先に、アッシュはさらに続けた。


「王家軍律第十二章。王命なき場合、地方領主は王族を処断できない」

 法律。


「そして現在、この砦の軍務は第二王子の竜騎士隊が代行している」

 軍権。

 その証拠が、彼の背後に立つ二人だった。


 最後にアッシュは静かに言った。

「さらに今回の軍備と魔導技術は、宮廷魔導顧問セドリック・ローンが統括している。本人不在の場で、何を議しても意味はない」

 魔導権限。


 三つの枠組みを突きつけられ、広間は完全に封じられた。反論できる者はいない。領主でさえも。


 やがて彼は苦々しい表情でうなずいた。

「……殿下のお考え、理解しました」

 わずかに頭を下げる。それは敬意というより、現実への譲歩だった。


 アッシュは淡々と言う。

「軍務の話がないなら、失礼する」


 背を向けかけたそのとき、

「殿下、少しお待ちください」

 領主の声が広間を止めた。


 アッシュが振り返る。

「……まだ何か?」


 領主はしばらく彼を見つめ、やがて低く言った。

「一つ確認したいことがあります。――竜王の遺卵の噂です」


 武官たちが息を呑んだ。軽々しく口にできる話題ではない。

 しかし長年この辺境を守ってきた彼は知っている。竜王に関わる話は、王権だけでなく大陸全体の秩序を揺るがす。


 アッシュは逃げなかった。

「噂は事実だ」


 領主の瞳がわずかに縮む。広間の空気が張り詰めた。


「孵化した竜は……私と繫名している」

 誇示でも自慢でもない。ただの事実の提示だった。


 小さなざわめきが広がる。

 領主はすぐに次の問いを放った。

「では、その竜は……新たな竜王になるのですか」


「そうだ」

 アッシュはまっすぐ見返す。

「ただし、リメアはまだ幼い」


 その一言で、領主の肩の緊張がわずかに緩んだ。

 落胆ではない。

 むしろ、敬意に近いものだった。


 竜王がまだ成熟していない。つまり今すぐ世界の均衡が動くわけではない。だがその繫名者が、今ここに立っている。

 それは、王国の力の線が王都だけではなくなったことを意味していた。


 領主はもう一度アッシュを見つめる。

 まるで、ようやく本当の力の所在を理解したかのような目だった。


「……話はそれだけか」

 アッシュが言う。


 領主はしばらく沈黙したあと、鎧の姿勢を正した。そして深く、正式な軍礼を取る。

 それは王族への礼でも、反逆者への礼でもない。

 竜の繫名者への礼だった。

「……理解しました」


 アッシュは返礼せず、軽くうなずくだけで広間を後にした。




 重い扉が背後で閉じる。

 その瞬間、彼はようやく小さく息を吐いた。

 広間の圧力を表には出さなかったが、決して楽ではなかった。


 すぐにエルンストとダリオンが近づく。

「殿下、大丈夫ですか」


 アッシュは首を振った。

「……後ろを支えてくれて助かった。君たちの名を借りた」


 エルンストは即座に答える。

「当然の務めです」


 ダリオンも低く言った。

「領主は越線しませんでした。……扱いやすい種類の人間です」


 アッシュは主堡の方を一度振り返る。


「そうだ」

 そして静かに続けた。

「彼は竜王を信じている」


 その言葉の意味は重かった。

 竜王を信じる者は、王都よりも竜の伝承を重んじる。


 アッシュは知っている。竜族に「竜王」は存在しない。だが王国はその伝説を信仰のように守っている。


 だからこそ――使える。

 信頼する必要はない。ただ、力の線として利用すればいい。

 エルンストとダリオンも、その意図を理解していた。


 三人が外の回廊へ出ると、冷たい風が顔を打った。

 だがその冷気さえ、広間の重苦しさに比べればずっと軽く感じられた。


 ――アッシュに必要な同盟者は、戦場の残骸の中から少しずつ姿を現し始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ