第177話 小塔の灯り
エルセリアの仮の部屋は、堡の東側にある小塔の上階にあった。細い石の階段がぐるりと巻き上がるように続いている。
アッシュが角を曲がったところで、かすかな香りに気づいた。教国の祈祷で使われる草木の香だ。柔らかく落ち着いた匂いだが、どこか張り詰めた気配も混じっている。
踊り場には一人の女騎士が立っていた。金茶の髪を後ろで束ねた姿は、すぐに分かる。
セイフィナ――エルセリアに仕える聖女騎士だ。
アッシュを見ると、彼女はすぐに姿勢を正した。
「……ノアディス殿下」
礼を欠くことのない口調だったが、その視線には「やはり来たか」という確信が宿っている。彼女は半歩前へ出て軽く頭を下げた。
「聖下にお伝えしてまいります。きっと、すぐにお会いになりたいはずです」
返事を待つことなく、彼女は階段を軽やかに駆け上がっていった。
アッシュも後に続く。塔の扉の前にはエルンストとダリオンが控えていた。
二人は衛兵のように直立している。
「殿下」
エルンストが静かに言った。「……我々は外で待機します」
アッシュはうなずき、扉を押し開けた。
室内は、辺境堡とは思えないほど明るかった。石の部屋だが、どこか教国の礼拝堂を思わせる白い清潔さがある。
窓辺に立っていたエルセリアは、彼の姿を見ると一瞬で表情を輝かせた。隣にはセイフィナが半歩後ろに控え、影のように静かに立っている。
「……ノアディス!」
エルセリアは思わず駆け出した。裾を翻してこちらへ向かってくる。
アッシュはとっさに手を伸ばし、ぶつからないよう軽く制した。
「戻ってきたんですね……」
指先がわずかに震えている。
本当にそこにいるのか、確かめるように。
「ずっと……ご無事を祈っていました。
きっと戻ってくださると……」
声はだんだん小さくなり、胸に溜めていたものがようやく下りたようだった。
アッシュは黙って聞いていた。彼女の呼吸が落ち着くのを待ってから口を開く。
「エルセリア。
兄上を治療したいと聞いた」
緑の瞳が瞬時に輝く。
「はい。オズモンド殿下はまだ昏睡状態だと聞きました。……もし私の力が役に立つなら」
アッシュは一言だけ告げた。
「……今はだめだ」
静かな声だったが、刃のように鋭かった。
エルセリアは瞬きをした。驚きよりも、理由を考える表情だった。
「私が治療するのを望まれないのですか?」
すぐに思考を整理する。
「状態が危険すぎるからでしょうか。それとも治療の結果が新しい誤解を生む可能性があるから……?」
彼女はさらに続ける。
「あるいは――私が王国の政治に関わることを望まれない?」
冷静で、感情に流されていない。アッシュの事情を読み取ろうとしていた。
アッシュは否定も肯定もせず、ただ言った。
「……今じゃない」
エルセリアはしばらく沈黙し、やがて小さくうなずいた。
「──そういうことですね」
瞳の奥に、柔らかな確信が宿る。
「あなたの選択には、きっと理由があるのでしょう。神は私を、あなたの決めた道から逸らしたりはしません」
狂信的な調子ではなかった。ただ、静かな信念だった。
アッシュは視線を外す。
「……巻き込みたくないんだ。今は動かないでくれ」
部屋の空気が静まり返る。
エルセリアは少し俯き、彼の袖をそっとつまんだ。
「あなたがそう言うなら……従います」
そのとき、セイフィナが口を開いた。
「殿下。聖女が術を行わないのであれば、もう一つ確認させてください」
声音は少し硬い。
「聖女とリゼリア様の扱いです。いつ教国へ戻すおつもりですか?」
アッシュは淡々と答える。
「ここで決める権限はない。セドリック――指揮官が戻ってから話す」
セイフィナは眉を寄せたが、エルセリアが小さく首を振って制した。
彼女はアッシュを見つめ、静かな声で言う。
「……もし教国へ戻ることになるなら」
一瞬だけ言葉を選び、
「あなたに一緒に来てほしいのです」
アッシュはわずかに目を見開いた。
「……それは、できない」
エルセリアは俯き、無理は言わない。
「では、せめて途中まででも。ほんの少しでも護送していただけたら……安心できます」
アッシュは低く答えた。
「それもセドリックの命令次第だ。勝手には動けない」
彼女は失望を見せなかった。ただ穏やかに彼を見つめている。
そして、ふと決意したように言った。
「……ノアディス。お昼を、一緒に召し上がりませんか」
アッシュはわずかに眉を寄せる。
「最近ずっと……一人で食べていたので。少し、お話ししたいのです」
甘える声ではなかった。
ただ、祈りが届いた相手をもう少しそばに置いておきたい――そんな静かな願いだった。
アッシュは断ろうとしたが、思いとどまる。ここで突き放せば、彼女は別の形で動こうとするかもしれない。
それは避けたかった。
小さく息を吐き、
「……食事だけなら」
エルセリアの表情がふっと明るくなる。
「すぐ準備させます」
彼女はセイフィナに向き直った。
「お願いできる?」
セイフィナは短くうなずき、食事の手配のあと、扉の外へ控えに出ていった。
アッシュは扉の方へ視線を向ける。
「……お前たちも戻っていい」
外にいたエルンストとダリオンに合図を送る。二人は事情を理解し、敬礼して去った。
塔の部屋には、エルセリアとセイフィナ、そしてアッシュだけが残る。廊下の奥から食事の準備をする気配がかすかに聞こえてくる。
エルセリアは向かいに座り、静かな笑みを浮かべていた。彼をここに留めていることも、アッシュは分かっている。それでも席を立たなかった。
彼女が不安を募らせれば、次に何をするか分からない。
今はそれを抑える役目を、自分が引き受けるしかない。
小塔の灯りが揺れ、二人の影を同じ場所に結びつけていた。
結局、エルセリアとの会話は長引き、アッシュが塔を出た頃にはすでに夕方になっていた。
階段を降りたところで、エルンストとダリオンが慌てて駆け寄ってくる。
「殿下……ヴァロワ領主がお呼びです。至急、主城の広間へ」
短い言葉だが、昼よりも重い響きだった。
アッシュの頭に浮かんだのは一つだけ。
――来たか。
理由を聞く必要はない。エルセリアの部屋の前からわざわざ名指しで呼び出されるとなれば、考えられるのは二つだけだ。
王命が届いたか、あるいは領主がもう「第七王子が軍中にいる」という事実を隠しきれなくなったか。
暗い廊下を歩きながら、冷たい石壁が肌に迫る。その感覚は、かつて王都の議政大広間へ呼ばれた時の記憶を思い出させた。
審問の前の、あの静まり返った空気に似ていた。




