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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第十八章:ヴァロワ辺境堡

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第176話 拘束される前に

 アッシュが目を覚ましたのは、石床を踏む靴音だった。

 金属のぶつかる音、鎧を締める音、外で兵士が点呼を取る声。辺境堡の朝はいつも騒がしい。


 目を開けると、自分が騎士用の簡素な宿舎で眠っていたことに気づく。粗い木の寝台に毛布一枚、窓の隙間から吹き込む冷たい風が髪を乱していた。


「……寝過ごしたか」

 額に手を当てながら起き上がる。戦闘の疲労がまだ肩に残っている。

 マントを羽織ろうとしたとき、扉が開いた。


「よう、第七王子殿下」

 ラッセルが扉枠にもたれかかり、いつも通りのふてぶてしい顔でこちらを見ている。

「一言頼めば領主の塔の部屋にだって泊まれるだろ。なのに、こんな臭い男どもの宿舎で寝てるとはな」


 アッシュは顔も上げずに答えた。

「……領主に知られたくない」


「知られてないと思ってるのか?」

 ラッセルは腕を組む。

「この砦じゃ、噂は風より速く回る。お前が昨夜戻った瞬間、十人は勘づいてる」


 アッシュはベルトを留めていた手を止めた。

「『勘づく』のと『確認する』のは違う。正式に知らされていない限り、領主は口に出さない。それで十分だ」


 ラッセルはしばらく彼を見ていたが、やがて短く息を吐いた。

「……まあ、それはそうだな。今はまだ『勘』の段階だから、お前もこうして寝てられる」

 そして少し声を落とす。

「だが『確認』された瞬間、俺はお前を拘束しなきゃならん」


 アッシュが顔を上げる。

 ラッセルは眉をしかめ、誤解されないように言い添えた。

「勘違いするなよ。俺が見逃してるわけじゃない」


 彼は肩をすくめる。

「お前が第二王子を助けるって言い出した時点で、お前は『俺の指揮下で行動してる』扱いになった。つまり俺は、規則の範囲でお前を使ってるだけだ」


 冷たい言い方だったが、そこに敵意はない。ただ事実を確認するような調子だった。

「……それももう終わりだろうけどな。殿下が目を覚ましたら、お前の立場も計算し直しだ」


 アッシュは何も言わず、別のことを尋ねた。

「……兄上の容態は」


「昨夜、治療官が交代前に診てる。まだ目は覚めてないが、命は安定してる」


 アッシュは静かに頷いた。

 部屋の空気が少し重くなる。


 数秒後、ラッセルがまた口を開いた。

「……お前はどうする?」


「どう、とは?」


「とぼけるな」ラッセルの声が珍しく鋭くなる。

「王国へ戻るのか。それとも——逃げ続けるのか」


 未来を二つに断ち切るような問いだった。


 アッシュは答えず、代わりに尋ねる。

「……セドリックはいつ戻る」


 ラッセルは露骨に顔をしかめた。

「大軍と一緒じゃなく、先行してるなら……今夜か、遅くても明日だ」

 言い終えると、彼は鎧についた埃を払って立ち上がる。


「とにかく、俺の目の届く範囲で動け。忙しくなったら面倒見きれん」

 背を向けながら言う。

「仕事が山ほどあるんだ。余計な騒ぎは起こすなよ」

 そうして出ていった。


 宿舎に一人残されたアッシュは、自分の手の甲を見下ろす。今こうして自由に動けるのは、ラッセルが騎士のやり方でぎりぎりまで庇っているからだと分かっていた。


 しばらく窓の外の曇った朝の光を眺める。


 セドリックが戻れば、王国の政治は一気に動き出す。戦の最中だから棚上げされているだけで、彼の立場は変わらない。

 彼は客ではない。王国全体から追われている「反逆者」だ。


 さっきのラッセルの言葉が頭に残る。

 ――王国へ戻るか。逃げ続けるか。


 王都へ戻れば拘束される。逃げれば、わずかな自由は残る。だが逃亡を続ければ、リゼとリメアもその網に巻き込まれる。


 彼は初めて感じていた。

 去ることも、残ることも、同じくらい難しい。


 ゆっくり息を吐く。

「……先にリゼとリメアの様子を見ておくか」


 外の風は昨日よりも冷たい。それでも彼の足取りは、昨夜よりずっと迷いがなかった。

 宿舎の扉を開けると、そこに二人の男が立っていた。エルンストとダリオンだ。どうやらしばらく待っていたらしい。アッシュの姿を見ると同時に敬礼する。


「……殿下」

 エルンストの声はいつもより重かった。

「至急お伝えしなければならないことがあります」


 胸の奥に嫌な予感が走る。

「……言え」


 ダリオンが一度息を整えてから口を開いた。

「聖女エルセリアが、オズモンド殿下の治療を申し出ました」


 胸が締めつけられる。やはりそうなる。


 エルンストが続けた。

「ただし領主は即答していません。状況が分からないまま聖女に術を使わせるのは危険だと判断しています」


 それは当然の判断だった。だが、次の言葉でアッシュの眉がさらに寄る。


「それと……もう一つ」

 ダリオンが言う。

「聖女は、あなたに会いたいと」


「……俺に?」


「はい」

 ダリオンは頷いた。

「そして、その報告の際——」


 二人の竜騎士は一瞬顔を見合わせる。最後にエルンストが言った。


「……隠しきれませんでした。領主が不審に思い、直接確認してきたのです。私たちは、こう答えるしかありませんでした」


 彼はゆっくり続ける。

「『第七王子は現在、軍中にいる』と」


 アッシュの瞳がわずかに縮む。

 さきほどのラッセルの言葉がよみがえる。あの妙な言い方は、このことを指していたのだ。


 エルンストはすぐに付け加える。

「竜隊と共に戻ったことまでは伝えていません。しかし……存在そのものは、もう隠せません」


 ダリオンも低い声で言う。

「私たちはあなたを王都へ送るつもりはありません。ですが嘘を重ねれば、領主や兵士たちまで処罰される」


 廊下の空気は冷たかった。


 アッシュはしばらく黙ってから、ゆっくり顔を上げる。

「……一つ理解しておいてくれ」


 二人が真っ直ぐ彼を見る。


「今エルセリアが治療すれば、兄上はすぐ目を覚ます可能性が高い」

 空気が張り詰める。

「兄上が目を覚ました瞬間、俺には拘束命令が出る。セドリックでもそれは止められない。ヴァロワ領主も王命には逆らえない」


 二人の表情が暗くなる。

 アッシュは続けた。


「俺だって兄上を助けたくないわけじゃない。だが——今は目を覚まされては困る」

 リゼのため。リメアのため。そして命令に縛られる兵士たちのためでもある。

 ——今ここで俺が牢に入れば、あいつらは確実に巻き込まれる。


 必要なのは時間だった。エルセリアには、今すぐ動いてもらうわけにはいかない。少なくともセドリックが戻るまでは。


 彼だけができる。

「兄上を押さえつつ、王命を止めない形で動くことが」

 アッシュはセドリックに頼るのを好まない。それでも、今はそれしかない。


 エルンストが静かに言った。

「……オズモンド殿下を救ったのはあなたです。我々はその事実を知っています」


 ダリオンも続ける。

「ですが、もし事態が最悪の形で解釈されれば——」


「その責任は俺が負う」

 アッシュが遮った。

「お前たちが背負う必要はない」


 二人の竜騎士は息を呑む。それは安堵ではなく、彼の覚悟を受け取った反応だった。


 アッシュは顔を上げる。瞳には鋭い光が宿っていた。

 ――逃げるわけにはいかない。

 ――兄はまだ目覚めさせられない。

 ――少なくとも、セドリックが戻るまでは。


「……エルセリアに会う」

 それが彼の結論だった。


 アッシュは一歩踏み出す。外の風は朝よりも鋭く、まるで彼の決意を刃のように研いでいくかのようだった。

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