第175話 一緒に向き合う約束
リゼリアはアッシュから三歩ほど離れた場所で足を止めた。胸がわずかに上下しているが、駆け寄ることも、抱きつくこともない。ただ、その瞳には押さえきれない安堵が静かに宿っている。
――本当に帰ってきた。
そう確かめるような表情だった。
その微妙な距離の中で、先に口を開いたのは彼女の方だった。
「……大丈夫? 怪我はしてない?」
彼女は一歩も近づかないまま、アッシュの肩甲や腕、胸元へと視線を走らせる。まるで彼が出発する前の姿と一つひとつ照らし合わせるように。
アッシュはわずかに視線を落とし、いつもと変わらない口調で答えた。
「……問題ない」
短い言葉だったが、それを聞いた瞬間、リゼリアの胸の緊張がようやくほどけたようだった。小さく息を吐く。
「でも、顔色が……少し悪い」
「疲れてるだけだ」
彼女はそれ以上問い詰めなかった。責めることもない。
ただ、彼がここに立っていることをもう一度確かめるように見つめている。
ほんの二、三日のことなのに、まるで長い冬を越えたあとのような感覚だった。
しばらくして、今度はアッシュの方が口を開く。
「……そっちは無事だったか」
リゼリアは頷いた。
「ええ。辺境堡に着いてから、エルにも会ったわ。元気そうだった。ずっとあなたの無事を祈ってた」
アッシュは視線を落とし、少し考えるように沈黙する。
「……正体は、誰にも知られてないな?」
「大丈夫」
リゼリアは迷いなく首を振った。
「エルも秘密を守るって約束してくれたわ。あの子、昔から本当にいい子なの」
アッシュはそれ以上言わなかった。多少の不安は残るが、姉妹が互いに頼れるのは確かに救いでもある。
「……ただ」
低く言葉を続ける。
「いずれは教国へ帰すことになる」
リゼリアは静かに答えた。
「それは、あなたが決められることじゃないでしょう?」
責任を押しつけるような言い方ではなかった。ただ事実を確認するような、落ち着いた声だった。
アッシュは半秒ほど黙り、やがて視線を上げる。
「……心配してるのは俺のことか。ここに残ってる件」
リゼリアは否定しなかった。
「あなたはまだ王国に追われてる身でしょう。でもこの砦の領主も兵士も、すぐに捕まえようとはしない。……本当に大丈夫なの?」
アッシュは少し考えるように目を伏せる。
「辺境堡は王都の軍系統とは別だ。地方領主には王族案件に関わる者を拘束する権限がない」
「じゃあ……?」
「通報するだけだ」
リゼリアはその言葉を繰り返した。
「通報……」
「そうだ」
アッシュの声は淡々としていたが、語っている制度はかなり冷酷なものだった。
「通報された後は、王家直属の特令部隊が動く。民間人でも通報はできる。賞金も出る。ただ――実際に拘束できるのは」
そこで一瞬言葉を切る。
「王命を受けた騎士だけだ」
リゼリアの頭に、自然と一つの名前が浮かんだ。
「……ラッセル?」
アッシュは小さく頷く。
「当時、命令を受けた一人だ。だから……この砦で俺を捕まえられるとしたら、あいつくらいだろう」
「なるほど……」
リゼリアは小さく呟く。今まで彼が避けてきた行動の理由が、ようやくつながった気がした。
「だからあなた、ずっと辺境の外を動き回ってたのね。通報される場所を避けていれば、誰も捕まえられない」
少し間を置いてから、さらに問いかける。
「それで王国軍と協力することにしたの?」
アッシュは短く沈黙した。
「……他に選択肢がなかった」
声は低い。
「教国に追われていた状況で、王国軍に身を寄せなければ息もつけなかった」
リゼリアは複雑な表情で頷いた。
「でも、ラッセルが前線にいるなんて思わなかったわ」
苦笑まじりの声だったが、どこか本心からの安堵も含まれている。
「彼、あなたのこと嫌ってるけど……少なくとも、話の通じない人じゃない」
アッシュも否定はしなかった。
「だが、これはただの時間稼ぎだ」
彼は静かに続ける。
「王命が出れば、地方の法律なんて意味を失う。どこへ逃げても同じだ」
そう言って目を閉じ、胸の奥の重さを押し込めるように息を吐いた。
「……セドリックが戻るのを待つしかない」
「ええ、わかってる」
リゼリアはそれ以上深く触れなかった。代わりに、少しだけ空気を軽くするような声で言う。
「そういえば——」
わざとらしく肩をすくめる。
「やっと会えるのかしら? メリッサが言ってた『笑顔の狐』に」
アッシュの眉がわずかに動いた。
その瞬間、別の厄介なことを思い出す。
「……そうだ」
声を落とす。
「あいつは、前から俺と君が一緒に動いてることを知ってる」
リゼリアは目を大きくした。
「じゃあ……もし私の正体まで知られたら」
「危険だ」
アッシュが言葉を継いだ。
リゼリアは一瞬だけ黙り、表情を引き締める。
「そうね……気をつけないと」
それからすぐ、柔らかく笑った。
「でも大丈夫。自分のことは守れるわ。必要なら……逃げる」
アッシュは目を伏せた。
それは、彼が聞きたかった言葉ではない。
何か言おうとしたそのとき、リメアがそっと彼の腕に鼻先を触れさせた。
【大丈夫。あたしがいる】
柔らかく、しかし揺るがない声だった。冬の夜でも消えない火のように。
リメアは同じ言葉を、龍語でリゼリアにも伝える。
リゼリアは一瞬驚いたあと、ふっと笑った。
それは竜の誓いであり、今この瞬間アッシュが頼れる確かな力でもある。
アッシュはゆっくり顔を上げた。今度はごまかさない。
「……俺が一番嫌なのは、君が一人で逃げることだ」
リゼリアが瞬きをする。
アッシュは深く息を吸い、はっきりと言った。
「君と一緒にいたい。
リメアと……
約束しただろ。三人で旅をするって」
竜棚の灯りが揺れ、その言葉を照らす。どこか不器用で、それでもまっすぐな告白だった。
「少し時間をくれ。……必ず、約束は守る」
リゼリアは一瞬だけ動きを止めた。胸の奥を小さく叩かれたような表情になる。
だがその直後、わずかな沈黙が生まれた。
アッシュはそれに気づく。
「……どうした?」
リゼリアは静かに顔を上げた。瞳の奥で、霧の中の火のような光が揺れている。
「ノアディス……」
声はとても静かだった。
「アエクセリオンの死のこと。……あなたに、まだ話してないことがある」
二人のあいだの空気が少し重く沈む。
アッシュは逃げなかった。ただゆっくり息を吐く。
「……わかってる」
胸に手を当てる。そこには、かつて竜王の鱗があった。
「まだ聞く覚悟ができてないんだ」
そして続ける。
「真実が怖いわけじゃない。
全部知ったあとで、君がここにいる理由を失うんじゃないかと思うんだ」
言葉を選びながら、ゆっくりと。
「……君が俺と一緒にいるのは、ただ借りを返すためなんじゃないかって」
「もしその借りが終わったら、
君はそのまま手を離して、どこかへ行くんじゃないかって」
それは逃げではなかった。むき出しの本音だった。
リゼリアは黙ってそれを聞き、しばらく彼を見つめる。そしてふっと笑った。
からかう笑いでも、無理に作った笑顔でもない。胸の奥で花が開くような、やわらかな笑みだった。
「……そう」
彼女は一歩前へ出る。二人の距離は、互いの呼吸が聞こえるほど近くなる。
まっすぐに彼を見上げて言った。
「じゃあ、一緒に向き合いましょう」
アッシュはそれ以上言葉を重ねなかった。ただ手を伸ばす。迷いながら、それでも決めたように。
そっと彼女を抱き寄せた。
リゼリアの肩が胸元でわずかに震える。だが拒まない。彼女も静かに腕を回し、彼を抱き返した。
二人の影が竜棚の灯りの中で重なっていく。
隣ではリメアが翼の先を小さく震わせていた。すべてを理解しているようでもあり、ただその光景を胸に刻んでいるようでもある。
竜棚の暖かな灯りの下で、三つの影はこれまでになく近く寄り添っていた。




