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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第十八章:ヴァロワ辺境堡

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第174話 帰還の灯

 夜の帳が落ちたころ、ヴァロワ辺境堡の上空に魔導信号が灯った。


「──竜隊確認! 王翼衛隊・蒼黎飛竜中隊、帰還!」


 広場の兵士たちは松明を掲げ、整然と列を開いて降下のための空間を作る。この砦はもともと国境防衛の最前線だったが、いまは戦後の収容と中継の拠点として使われていた。


 少し離れた高い堡楼の上には、一人の中年の男が立っている。ヴァロワ領主──グランツだ。寒風にマントを大きくはためかせながら、彼の視線は中央で吊り下げられている木製の護箱に注がれていた。


 彼が迎えるのは第二王子オズモンドである。

 ──そして「第七王子」がここにいることを、彼はまだ知らない。


 やがてエルンスト、ダリオン、ラッセルの三人の竜が順に翼を畳み、広場へと着地した。中央ではアッシュとピルナの竜も空中で一度旋回し、ゆっくりと地面に降り立つ。着地の衝撃で砂埃が広がった、その瞬間だった。


「ピルナ!!」


 一人の青年が、ほとんど突進するような勢いで駆け寄ってきた。

 セルジュだった。


 どうやらここでずっと待っていたらしく、寝不足のせいか目は赤く充血している。彼はピルナを見るなり、その首元に飛びつくように抱きついた。


「……ピルナ!! よかった……本当に……!」


 ピルナは「フッ!」と大きく鼻息を吐き、尾を振って地面の砂を舞い上げる。だが彼を払いのけようとはしなかった。むしろ、帰ってきたぞと言わんばかりの仕草だった。


 アッシュが竜の背から飛び降りると、最初に口にした言葉は謝罪だった。


「……悪い、セルジュ。

   俺の判断が少しでも違っていたら――ピルナを危険に晒していた」


 セルジュは慌てて首を振る。

「えっ……い、いえ、殿下のせいじゃありません! 

 むしろこの子、殿下がいなければどうなっていたか……!」


 慌てた調子だったが、その声には心からの真剣さがあった。彼は慌ててピルナから離れると、涙を拭い、改めて深く頭を下げた。


 そのころには、護箱を吊った竜のもとへ治療官たちが駆け寄っていた。

「慎重に運べ! 治療棟へ、急げ!」

「呼吸状態を確認!」


 重い靴音が階段から響く。

 ヴァロワ領主が慌ただしく堡楼を降りてきた。外套を整える暇もなく、最初に発した言葉はそれだった。

「……殿下オズモンドの容態は!?」


 治療官が即座に答えた。

「まだ意識はありません! ですが生命反応は安定しています!」


 ヴァロワ領主の表情が明らかに緩む。そしてすぐにエルンスト、ダリオン、ラッセルの三人へ向き直り、深々と礼をする。

「遠路ご苦労でした。ここから先は、ヴァロワ軍が引き受けます」


 三人の隊長は同時に敬礼した。

 だがラッセルだけは小さく鼻を鳴らし、少し離れた場所に立つアッシュへ視線を投げた。


 ――あとはお前の判断だ。

 そう言わんばかりの目だった。


 アッシュはそれに応えない。ただ治療官たちが運んでいく担架を見送り、オズモンドが砦の奥へ消えていくのを黙って見ていた。

 三人の竜騎士隊長もすぐ後に続き、指揮区画へと入っていく。


 夜の辺境砦は、竜隊の帰還によって昼間以上の騒がしさに包まれている。

 だがその喧騒の中心で、アッシュとセルジュ、そしてピルナの周囲だけは、奇妙なほど静かな空気が流れていた。


「ピルナは棚へ。もう一度診せます。」セルジュが言う。

「リメアも棚にいるはずです。もし会うなら……案内します」


 アッシュは顔を上げた。その目に、はっきりした決意が浮かぶ。

「……頼む」


 セルジュはすぐにピルナの手綱を引き、歩き出す。

 アッシュはその後ろを歩きながら、忙しく動き回る兵士や竜、松明の揺れる光を横目に見渡した。


 戦後の疲労、勝利の余熱、慌ただしい指示の声。それらが入り混じる空気の中で、彼の足取りだけは不思議なほど迷いがない。


 向かう先は一つだけだからだ。

 竜棚――リメアのいる場所。




 龍棚は辺境堡の中でも最も頑丈で、そして落ち着いた建物の一つだった。太い石柱に支えられた広い空間に、鉄の架台や鎖が整然と並ぶ。


 常駐の竜はほとんど出征しているため、棚の中には大きな空きができており、蒼黎飛竜中隊の竜たちを収容するには十分な余裕があった。

 だが広さゆえに陰影も多い。


 アッシュは立ち止まり、目を閉じる。

【……リメア?】


 すぐに応答が返る。

【アッシュ? ――帰ってきたの?】


 駆ける爪音。

   以前よりも重く、確かな足取り。

 セルジュは空気を察し、ピルナを別の区画へ導いた。


 次の瞬間――

   柱の間から、リメアが飛び出してくる。


 銀白と淡い青の鱗が魔導灯の光を柔らかく反射する。尾が地面を叩き、砂が舞った。彼女はアッシュの前で急停止すると、その銀色の瞳を月のように輝かせる。


 彼女は真っ直ぐに近づき、鼻先をアッシュの胸元へ押し当てる。

【……変、怪我?】

 震える息。


 アッシュは額角に手を置く。

「……平気だ」


【怪我じゃない……魔力。……なんか、違う。変な感じ】

 彼女は一歩引き、感覚を整理するように首を傾げる。竜の感覚は人間よりずっと鋭い。それでも説明できないらしい。


 アッシュは少し驚いた。

「……分かるのか?」


 答えはない。

   代わりに、抑えていた感情が溢れる。


 次の瞬間、彼女は全身を預けるように寄りかかった。

 二メートル近い竜の体重が、彼を押す。


「……重い」

 そう言いながらも、手はしっかり支える。


 リメアは目を閉じ、吐息を彼の鎧の隙間に落とす。


【行かせない】

 わがままではない。

   失うことへの恐怖から来る本能。


 アッシュは一瞬固まり、それからため息をつくように手を上げ、彼女の後頭部を軽く叩く。

「……行かない」


 リメアの尾が静かに地を打った。


 そのとき――

 竜龍棚の入口に紫色の影がよぎった。

 小さな足音が近づいてくる。

 二人は同時に顔を上げる。


 灯りに照らされて現れたのは――

   リゼリア。


 淡い紫の長い髪が少し乱れ、走ってきたせいで胸が上下している。

 それでも必死に姿勢を整え、数歩手前で立ち止まった。


「……アッシュ!」

 琥珀色の瞳が、ようやく見つけたものを確かめるように揺れている。

「帰って……きたのね」


 アッシュは一瞬だけ沈黙し、頷いた。

 竜棚の灯火が、二人のあいだで静かに揺れていた。

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