第174話 帰還の灯
夜の帳が落ちたころ、ヴァロワ辺境堡の上空に魔導信号が灯った。
「──竜隊確認! 王翼衛隊・蒼黎飛竜中隊、帰還!」
広場の兵士たちは松明を掲げ、整然と列を開いて降下のための空間を作る。この砦はもともと国境防衛の最前線だったが、いまは戦後の収容と中継の拠点として使われていた。
少し離れた高い堡楼の上には、一人の中年の男が立っている。ヴァロワ領主──グランツだ。寒風にマントを大きくはためかせながら、彼の視線は中央で吊り下げられている木製の護箱に注がれていた。
彼が迎えるのは第二王子オズモンドである。
──そして「第七王子」がここにいることを、彼はまだ知らない。
やがてエルンスト、ダリオン、ラッセルの三人の竜が順に翼を畳み、広場へと着地した。中央ではアッシュとピルナの竜も空中で一度旋回し、ゆっくりと地面に降り立つ。着地の衝撃で砂埃が広がった、その瞬間だった。
「ピルナ!!」
一人の青年が、ほとんど突進するような勢いで駆け寄ってきた。
セルジュだった。
どうやらここでずっと待っていたらしく、寝不足のせいか目は赤く充血している。彼はピルナを見るなり、その首元に飛びつくように抱きついた。
「……ピルナ!! よかった……本当に……!」
ピルナは「フッ!」と大きく鼻息を吐き、尾を振って地面の砂を舞い上げる。だが彼を払いのけようとはしなかった。むしろ、帰ってきたぞと言わんばかりの仕草だった。
アッシュが竜の背から飛び降りると、最初に口にした言葉は謝罪だった。
「……悪い、セルジュ。
俺の判断が少しでも違っていたら――ピルナを危険に晒していた」
セルジュは慌てて首を振る。
「えっ……い、いえ、殿下のせいじゃありません!
むしろこの子、殿下がいなければどうなっていたか……!」
慌てた調子だったが、その声には心からの真剣さがあった。彼は慌ててピルナから離れると、涙を拭い、改めて深く頭を下げた。
そのころには、護箱を吊った竜のもとへ治療官たちが駆け寄っていた。
「慎重に運べ! 治療棟へ、急げ!」
「呼吸状態を確認!」
重い靴音が階段から響く。
ヴァロワ領主が慌ただしく堡楼を降りてきた。外套を整える暇もなく、最初に発した言葉はそれだった。
「……殿下の容態は!?」
治療官が即座に答えた。
「まだ意識はありません! ですが生命反応は安定しています!」
ヴァロワ領主の表情が明らかに緩む。そしてすぐにエルンスト、ダリオン、ラッセルの三人へ向き直り、深々と礼をする。
「遠路ご苦労でした。ここから先は、ヴァロワ軍が引き受けます」
三人の隊長は同時に敬礼した。
だがラッセルだけは小さく鼻を鳴らし、少し離れた場所に立つアッシュへ視線を投げた。
――あとはお前の判断だ。
そう言わんばかりの目だった。
アッシュはそれに応えない。ただ治療官たちが運んでいく担架を見送り、オズモンドが砦の奥へ消えていくのを黙って見ていた。
三人の竜騎士隊長もすぐ後に続き、指揮区画へと入っていく。
夜の辺境砦は、竜隊の帰還によって昼間以上の騒がしさに包まれている。
だがその喧騒の中心で、アッシュとセルジュ、そしてピルナの周囲だけは、奇妙なほど静かな空気が流れていた。
「ピルナは棚へ。もう一度診せます。」セルジュが言う。
「リメアも棚にいるはずです。もし会うなら……案内します」
アッシュは顔を上げた。その目に、はっきりした決意が浮かぶ。
「……頼む」
セルジュはすぐにピルナの手綱を引き、歩き出す。
アッシュはその後ろを歩きながら、忙しく動き回る兵士や竜、松明の揺れる光を横目に見渡した。
戦後の疲労、勝利の余熱、慌ただしい指示の声。それらが入り混じる空気の中で、彼の足取りだけは不思議なほど迷いがない。
向かう先は一つだけだからだ。
竜棚――リメアのいる場所。
龍棚は辺境堡の中でも最も頑丈で、そして落ち着いた建物の一つだった。太い石柱に支えられた広い空間に、鉄の架台や鎖が整然と並ぶ。
常駐の竜はほとんど出征しているため、棚の中には大きな空きができており、蒼黎飛竜中隊の竜たちを収容するには十分な余裕があった。
だが広さゆえに陰影も多い。
アッシュは立ち止まり、目を閉じる。
【……リメア?】
すぐに応答が返る。
【アッシュ? ――帰ってきたの?】
駆ける爪音。
以前よりも重く、確かな足取り。
セルジュは空気を察し、ピルナを別の区画へ導いた。
次の瞬間――
柱の間から、リメアが飛び出してくる。
銀白と淡い青の鱗が魔導灯の光を柔らかく反射する。尾が地面を叩き、砂が舞った。彼女はアッシュの前で急停止すると、その銀色の瞳を月のように輝かせる。
彼女は真っ直ぐに近づき、鼻先をアッシュの胸元へ押し当てる。
【……変、怪我?】
震える息。
アッシュは額角に手を置く。
「……平気だ」
【怪我じゃない……魔力。……なんか、違う。変な感じ】
彼女は一歩引き、感覚を整理するように首を傾げる。竜の感覚は人間よりずっと鋭い。それでも説明できないらしい。
アッシュは少し驚いた。
「……分かるのか?」
答えはない。
代わりに、抑えていた感情が溢れる。
次の瞬間、彼女は全身を預けるように寄りかかった。
二メートル近い竜の体重が、彼を押す。
「……重い」
そう言いながらも、手はしっかり支える。
リメアは目を閉じ、吐息を彼の鎧の隙間に落とす。
【行かせない】
わがままではない。
失うことへの恐怖から来る本能。
アッシュは一瞬固まり、それからため息をつくように手を上げ、彼女の後頭部を軽く叩く。
「……行かない」
リメアの尾が静かに地を打った。
そのとき――
竜龍棚の入口に紫色の影がよぎった。
小さな足音が近づいてくる。
二人は同時に顔を上げる。
灯りに照らされて現れたのは――
リゼリア。
淡い紫の長い髪が少し乱れ、走ってきたせいで胸が上下している。
それでも必死に姿勢を整え、数歩手前で立ち止まった。
「……アッシュ!」
琥珀色の瞳が、ようやく見つけたものを確かめるように揺れている。
「帰って……きたのね」
アッシュは一瞬だけ沈黙し、頷いた。
竜棚の灯火が、二人のあいだで静かに揺れていた。




