偽りの楽園 B1F
重々しい金属のゲートが背後で完全に閉じた瞬間、ニコとヘラの耳には、B2Fの機械音が嘘のように消え去り、代わりに、ほとんど無音に近い静寂が訪れた。彼らは、B1F…この地下世界の最上階層に、ついに足を踏み入れたのだ。ケン隊長の死とカイとの別れを経た、重い代償の上での到達だった。
隣に立つヘラはまだ震え、顔面蒼白だったが、ニコは既に思考を切り替えていた。感傷に浸る時間は一瞬もない。この異質なほど清潔で静かな空間で、自分たちの姿はあまりにも場違いだ。泥と血の染み付いた服。疲労と緊張が刻まれた顔。一刻も早く、この「楽園」の風景に溶け込まなければ、即座に排除されるだろう。
「…綺麗すぎる」ニコは、周囲を見回し、冷ややかに呟いた。この完璧な環境こそが、彼らにとって最大の脅威だった。「行くぞ、ヘラ。隠れる場所を探す」
彼はヘラの手を半ば強引に引き、ゲート近くにあった装飾用の大きな人工植え込みの影へと素早く身を滑り込ませた。
息を殺し、植え込みの隙間から通路を観察する。穏やかな表情で歩く、白い清潔な服を着た住人たち。彼らの無関心さが、今は幸いしていた。
「どうしよう、ニコ…」ヘラが不安げに囁く。「私たちの格好…」
「ああ、見れば分かる。二人ともだ」ニコは即座に同意した。「服が必要だ。それも、すぐに。お前と俺の、二人分」
「でも、どうやって…?」
「決まってる。奪うんだ」ニコの答えに、ためらいはなかった。B4Fでは、必要なものは奪うのが当たり前だった。ここでは、その「必要」が服に変わっただけだ。「ぐずぐずしていたら見つかる。一番手っ取り早い方法でやる」
「で、でも…」ヘラは怯えたように周囲を見た。「誰から? どうやって?」
「一人ずつ探して襲うか? 時間がかかりすぎるし、リスクが倍になる。一度で終わらせる」ニコは、通路の向こうから歩いてくる若い男女のペアに目をつけた。服装は標準的な白いチュニックとズボン。体格も、ニコとヘラにそれぞれ合いそうだ。そして何より、楽しげに話しながら歩いており、周囲への警戒心は皆無に見える。
「あいつらだ」ニコは即断した。
「えっ? 二人も? 無理よ!」ヘラが小声で悲鳴を上げた。「もし抵抗されたら…!」
「だから、不意を突くんだ。俺が男を、お前が女を、同時にやる。抵抗する間も与えずに押さえ込めばいい。簡単なことだ」ニコの口調は、まるで害虫を駆除する手順でも説明するかのように、冷徹だった。B4Fでの経験が、彼の中から躊躇という感情を麻痺させているのかもしれない。「いいか、ヘラ。俺たちは生き延びなきゃならないんだ。そのためなら、なんだってやる。そう決めたはずだ」
ニコの有無を言わせぬ強い視線に、ヘラは反論の言葉を失った。彼女も、B3Fで生き抜いてきたのだ。甘さが命取りになることは理解している。彼女は恐怖を飲み込み、こくりと頷いた。
「…わかったわ。やる」
「よし」ニコは、ターゲットの男女が近づいてくるのを待ちながら、襲撃の段取りをヘラに短く指示した。「俺が合図したら、同時に飛び出す。俺は男の口を塞いで引き倒す。お前は女に体当たりして、転ばせろ。あとは力ずくで押さえつけて、服を奪う。いいな?」
ヘラは、再び小さく頷いた。彼女の顔はまだ蒼白だったが、その目には決死の覚悟が宿っていた。
ターゲットの男女ペアが、何も知らずに、楽しげな会話を続けながら、ニコたちが潜む植え込みへと近づいてくる。彼らにとって、この通路はいつもの安全な日常の一部でしかない。その油断が、彼らの運命を決めようとしていた。
ニコは、全身の神経を集中させ、飛び出すタイミングを計った。心臓の鼓動は早いが、奇妙なほど頭は冷静だった。これは、生き延びるための「仕事」だ。B4Fで何度も繰り返してきたことと、本質は変わらない。
男女が、植え込みの真横に差し掛かる。
(今だ!)
ニコは、ヘラに目配せを送ると同時に、植え込みから飛び出した!




