奪った服と偽りの日常
ニコが合図を送ると同時、彼とヘラは植え込みの影から左右に分かれて飛び出した!
ターゲットの若い男女ペアは、突然現れた汚れた姿の侵入者に気づき、驚愕に目を見開いたが、反応する間もなかった。
ニコは、迷うことなく、男の方に狙いを定めて突進した。B4Fでの生存競争で磨かれた、獲物を仕留める獣のような動き。彼は男の口を左手で塞ぎ、体当たりするようにしてバランスを崩させ、そのまま通路の壁際へと押し倒した。男は抵抗しようともがくが、ニコは馬乗りになって全体重をかけ、鉄パイプを喉元に突きつけるような仕草で威嚇し、完全に動きを封じる。その目に、慈悲や躊躇の色はない。ただ、目的を遂行するための冷徹な光があるだけだった。
一方、ヘラもニコの動きに合わせ、恐怖を振り払うように女の方へと飛びかかっていた。彼女はニコほど非情にはなりきれない。それでも、B3Fで培ったしぶとさで、女の腕に必死にしがみつき、体当たりして転ばせる。女は悲鳴を上げようとしたが、ヘラが咄嗟にその口を手で覆った。
「静かにして!」ヘラの声は震えていたが、必死だった。
「早く服を奪え!」ニコが、男を押さえつけながらヘラに鋭く指示を飛ばす。
ヘラは、必死で抵抗する女を押さえつけながら、その白いチュニックを引き剥がそうとする。ニコも、押さえつけている男から、素早く衣服を剥ぎ取り始めた。被害者たちの目には、恐怖と、信じられないものを見るような色が浮かんでいる。まさか、この安全で平和なB1Fで、こんな暴力的な略奪に遭うとは、夢にも思っていなかっただろう。
ニコは、服だけでなく、男が持っていた携帯端末と、腰につけていたIDカードホルダーも、有無を言わさず奪い取った。ヘラも、女のポケットを探り、同様のIDカードを見つけ出す。
「よし、縛るぞ!」
ニコは手早く男の手足を、ヘラが用意していた布で縛り上げた。ヘラも、まだ怯えている女の手を縛る。最後に、二人の口に布をきつく詰め込み、声を出せないようにした。彼らは、もう抵抗する気力も失っているようだった。
ニコは、縛り上げた二人を、まるで荷物でも扱うかのように、近くにあったサービスルーム(幸い、簡単なロックしかかかっていなかった)のドアを蹴破って中に押し込み、転がした。そして、何も言わずに扉を閉める。部屋の中から、かすかな呻き声が聞こえたが、すぐに聞こえなくなった。
「…行くぞ」ニコは、奪った二着分の衣服とIDカードを抱え、まだ震えが止まらないヘラを促した。ヘラは、自分がしたことの衝撃に、顔面蒼白のまま立ち尽くしていたが、ニコの強い視線に促され、ふらつく足取りで彼に従った。
二人は、そのサービスルームから少し離れた、別の階にある、使われていない様子の清掃用具室を見つけ、そこに隠れて奪った服に着替えた。
ニコは、ためらうことなく、自分のボロ切れを脱ぎ捨て、男物の白いチュニックとズボンに着替えた。サイズはほぼぴったりだ。ヘラも、震える手で、女物の衣服に袖を通した。こちらも、少し大きいが、着られないほどではない。
清潔で、滑らかな生地の感触。それは、彼らが今まで着ていたものとは、あまりにも違う。鏡のような金属板に映る自分たちの姿は、まるで別人のようだった。B1Fの住人。しかし、その中身は、下層から這い上がり、生きるために罪を重ねた二人だ。このギャップが、彼らに奇妙な感覚をもたらした。
「…これで、俺たちは『見えなく』なったはずだ」ニコは、自分の姿を確認しながら言った。彼の表情には、罪悪感よりも、目的を達成するための手段を得たという、冷たい満足感のようなものが浮かんでいる。「行くぞ、ヘラ。堂々としてろ。ここの連中みたいに」
彼はヘラを促し、清掃用具室を出た。そして、今度は、通路を歩く他の住人たちと同じように、落ち着いた、ややゆっくりとした足取りで歩き始めた。ヘラも、ニコの様子を見て、必死で平静を装い、彼に続く。
周囲の視線が、先ほどとは明らかに違う。誰も、彼らに特別な注意を払わない。時折すれ違う住人たちは、彼らに一瞥もくれず、自分の世界に没頭しているように見える。擬態は、成功したのだ。
彼らは、まずフードセンターへと向かった。今度は、臆することなく列に並び、ニコは奪った男のIDカードを、ヘラは女のIDカードを、それぞれ認証パネルにかざした。ピ、という軽い音と共に、メニューが表示される。二人は、温かい食事と、おそらくは合成されたものであろうが、新鮮に見えるサラダを受け取り、空いているテーブルについた。
周囲の住人たちは、穏やかに、あるいは無表情に、自分たちの食事をとっている。ニコたちの存在を気にする者は誰もいない。まるで、彼らがずっと以前から、ここにいる住人の一部であったかのように。
「…本当に、食べ物に困らないのね」ヘラが、シチューをスプーンで掬いながら、信じられないというように呟いた。その目には、恐怖と共に、ほんの少しの安堵の色が浮かび始めている。
「ああ。だが、これが奴らのやり方なんだろう」ニコは、周囲を観察しながら冷ややかに言った。「腹を満たして、不満を忘れさせる。考える力を奪う。飼い慣らすための、餌だ」
食事を終え、彼らはB1Fの探索を再開した。服装を変え、IDカードを手に入れたことで、彼らの行動範囲は格段に広がった。彼らは、人々が集う広場、静かな居住区画の通路、そして、様々な娯楽施設らしき建物(中には入れなかったが)の外観などを観察して回った。
どこもかしこも、徹底的に管理され、最適化されている。清掃ロボットが常に床を磨き、空気清浄システムが淀みない空気を供給し、壁のパネルは美しい映像と音楽で人々を癒す。まるで、完璧な調和の中に置かれた、巨大な箱庭のようだ。
ヘラは、その清潔さや、目新しい設備の数々に、時折、感嘆の声を漏らした。「見て、ニコ! あそこ、水が流れてるわ!」「この椅子、座り心地がいい…」下層での過酷な生活から解放された反動か、彼女はこの偽りの楽園の「快適さ」に、少しずつ心惹かれ始めているように見えた。
一方、ニコは、その快適さの裏にあるものを常に探していた。監視カメラの位置、警備兵(数は少ないが、要所に配置されている)の装備と巡回ルート、そして、この階層を支配している者たちの気配。彼は、この楽園が、巧妙に隠された檻であることを見抜いていた。
その夜、彼らは、カイのデータチップにあった古い区画図を頼りに、現在はほとんど使われていないらしい、古いデータケーブル用のメンテナンスダクトを見つけ出し、そこを新たな隠れ家とした。以前の場所よりは、いくらか安全だろう。
ダクトの冷たい床の上で、ヘラは、その日手に入れた清潔な毛布(これもまた、B1Fの共用施設から拝借したものだ)にくるまり、すぐに疲れた寝息を立て始めた。彼女の寝顔は、ここ数日では見られなかったほど、穏やかだった。
ニコは、眠るヘラの横顔を見ながら、静かに考えていた。ヘラがこの快適さに安らぎを見出すのは、当然のことだ。だが、自分は違う。この場所に安住することはできない。目的は、まだ遥か先にある。彼は、奪った携帯端末(使い方はまだよく分からないが)と、懐のガイドブックの感触を確かめた。そして、この偽りの楽園の支配者たちを探し出し、真実を暴き出すという決意を、改めて固めるのだった。彼らのB1Fでの生活は、まだ始まったばかりだ。




