機械の街 B2F
B3Fのゲートが背後で閉じた瞬間、ニコとヘラは、まるで異世界に迷い込んだかのような感覚に襲われた。B3Fの湿った土とアンモニア、そして菌類のむせ返るような匂いは消え去り、代わりに鼻をついたのは、熱せられた油と金属、そして空気が焼けるような、微かなオゾンの匂いだった。耳には、絶え間なく続く機械の駆動音、金属同士がぶつかる甲高い音、圧縮空気の噴出するシューという音、そして低く唸るような振動が、鼓膜を圧迫するかのごとく響いてくる。
「ここが…B2F…」ヘラが、目の前の光景に圧倒され、呟いた。
目の前に広がるのは、剥き出しのパイプラインとケーブルダクトが天井や壁を縦横無尽に走り、あちこちで火花が散り、蒸気が噴き出している、複雑怪奇な機械仕掛けの空間だった。照明はB3Fよりは明るいが、それは作業効率のためだけの、無機質で強い光であり、暖かみは全く感じられない。通路の脇には、ガラス窓の向こうで巨大な歯車が回転していたり、ロボットアームのようなものが忙しく何かを組み立てている工房が見える。B3Fの静的な農場とは対極の、絶えず何かが動き、変化し続ける、ダイナミックで、しかしどこか人間味のない世界。
「ああ、俺がいた頃と、基本的な構造は変わっていないようだ」カイが、懐かしさと、それ以上の苦々しさが入り混じったような表情で言った。「だが、油断するな。ここはB3FやB4Fとは危険の種類が違う。むき出しの高圧電線、突然動き出す自動化された機械、そして…見えない監視の目だ」
カイは、二人を促して、素早く通路の隅にある、巨大な配管の影へと身を隠した。「まずは、落ち着く場所を探す。俺たちの格好は、どう見てもここでは浮いている。特に、君たち二人はな」
確かに、周囲を行き交う人々は、皆、体にフィットした機能的な作業服やつなぎを着ており、ニコやヘラのような薄汚れた農夫の服装は異様に見えるだろう。彼らは一様に無表情で、自分たちの作業に没頭しており、ニコたちのような場違いな存在には、あからさまな不審の視線を向けてくる者もいた。
「カイは…大丈夫なのか?」ニコが小声で尋ねた。「ここは、あんたが前にいた場所なんだろ? 顔を知られてるんじゃ…」
「かもしれんな」カイは頷いた。「だからこそ、慎重に行動する必要がある。幸い、俺がいたのはもう何年も前だ。それに、技術者の数は多い。俺一人の顔を覚えている奴が、どれだけいるか…。だが、万が一ということもある。できるだけ人目を避け、必要以上に顔を見られないように動くぞ」
カイは、かつての記憶と知識を頼りに、三人にとって安全な潜伏場所を探し始めた。彼は、公式の通路を避け、壁のメンテナンスハッチや、床のグレーチング(格子蓋)の下に隠された通路など、一般の技術者ですら知らないような裏道を選んで進んだ。ニコとヘラは、その手際の良さと知識に舌を巻きながら、必死で彼についていく。
「この先は、古い冷却水の循環パイプが通っているはずだ。今は使われていない可能性が高い。その周辺なら、少しは息を潜められるかもしれん」カイは、壁の識別コードのようなものを確認しながら言った。
彼らがたどり着いたのは、巨大なパイプラインが複雑に絡み合う、薄暗く、埃っぽい一角だった。確かに、他の区画に比べて機械の稼働音は小さく、人通りもほとんどない。パイプの隙間には、人が数人隠れるのに十分なスペースがあった。
「とりあえず、ここで少し休もう。そして、今後のことを考える」カイは、周囲を警戒しながら言った。
三人は、冷たい金属パイプに背を預け、ようやく一息ついた。B3Fでの強盗と関門突破の興奮と緊張が、どっと疲れとなって押し寄せてくる。だが、休んでいる暇はあまりない。
「次の目標は、B1Fへの関門だ」カイが切り出した。「場所は、おそらく中央管理タワーの基部だろう。だが、問題はその警備体制だ。B3Fへのそれとは比較にならんほど厳重なはずだ」
「何か、情報はないのか?」ニコが尋ねた。
「俺がいた頃の情報は、もう古いかもしれん。それに、B1Fに関する情報は、B2Fの一般技術者にもほとんど知らされていなかった。徹底した情報統制が敷かれているからな」カイは首を振った。「まずは、あのゲートを直接、遠くからでもいい、観察してみる必要がある。どんな警備兵がいて、どんなシステムが使われているのか…」
彼らは、短い休息の後、再び動き出した。カイの案内で、B2Fの構造を把握しながら、中央管理タワーがあると思われる方向へと、慎重に進んでいく。途中、彼らは技術者たちの会話の断片を耳にした。新しいエネルギーコアの効率、旧世界のデータ解析の進捗、そして時折、B1Fの「上層市民」に関する、羨望と揶揄が入り混じったような噂話。この階層には、B3Fとは違う種類の、技術力や知識に基づいたヒエラルキーが存在するようだった。
そして、ついに彼らは、目的の場所が見渡せる通路の分岐点にたどり着いた。息を殺し、物陰から覗き込むと、その先には、今まで見てきたどの関門よりも巨大で、冷たく、そして威圧的なゲートがそびえ立っていた。
磨き上げられた金属製の分厚い扉。その両脇には、B3Fの警備兵とは明らかに違う、精悍な顔つきをした警備兵が、完全武装で直立不動の姿勢をとっている。ゲートの上部や周囲には、無数の監視カメラや、正体不明のセンサーらしきものが設置され、青白い光を放っている。そこは、もはや「関門」というよりは、「要塞」と呼ぶ方がふさわしい威容を誇っていた。
「…あれが、B1Fへの扉か」ニコが、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「想像以上だな…」カイも、険しい表情で呟いた。「あれを突破するのは、容易なことではないぞ」
ヘラは、ただ恐怖に目を見開いている。
三人は、その場にしばらく立ち尽くした。機械の街B2Fは、彼らにとって、新たな希望の地であると同時に、さらに高く、さらに困難な壁が存在する場所であることを、改めて思い知らされたのだった。彼らは、ひとまず安全な隠れ家へと戻り、この鉄壁の要塞をどう攻略するか、作戦を練り直す必要があった。




