別れ
皇帝の命令書は、わざわざ正式な文書にしたためられていた。
真っ白な高級紙には、皇国の紋章が型押しされ、さらに皇帝陛下のサインと日付入り。
文字が読めない幼女にも、きちんと見せてくれた。
『夏の始まりの日迄に、北の地に恵みの雨をもたらすべし』
書かれている文章は、簡単だ。
だが内容の方は簡単ではない。
一緒に覗き込んだ母親も、目を丸くさせている。
アリアーツェは、文字を習っていない。分からないフリをして母親にしがみつきながら、ちらっとカイルを盗み見れば、面白そうに観察している。
ムカついた。
サッと視線を戻し、ぎゅっと母親に抱きつく。あやすように頭を撫でられる。
「あの、カイル殿下、これはどういう意味なのでしょう?」
珍しく母親の眉が寄っていた。
「書かれている通り、そのままの意味だ」
いぶかしむ母親に、カイルは余裕の表情を崩さない。
「北の領地まで、婚約者の私が案内するよう、仰せつかった。出発は明日だ」
「なっ」
「遠出の準備はこちらで済ませた。明日の朝迎えに来る──これは決定事項だ」
「……」
アリアーツェを抱きしめた母親の腕が震えている。母親のあごしか見えない。
「母様?」
「……」
立ち上がる気配がして、皇子と騎士は館を後にして行く。
「……母様? だいじょうぶ?」
母親が、離してくれないから顔が見えない。
さわさわと風が吹き込み、母娘の髪を、身体を優しく撫でていく。
ゆっくり身体を離しながら頬を両手に包み込まれ、何かを呑み込んだ苦しい眼差しが、アリアーツェを見詰めた。
「アリアーツェ」
おでこに、閉じた目蓋の上に、頬に唇を寄せて、母親はもう何も言わずに小さな娘を抱きしめ続けた。
夜。
仕事を終えた父親が帰宅して、両親だけで話し合ったのだろう。
眠る時、久しぶりにアリアーツェは両親と一緒に眠った。
他愛ないお喋りを、眠りに落ちるまで両親とした……。
おばばが作ってくれた小さなポシェット。
迷ったが、御守りを持っていく事にした。
あと、お小遣いにもらった硬貨。
肩にかかる重さは驚く程に軽い。
小さなトランクに、着替えと木製のカップ、スプーンとフォークを入れてもらった。用意するとは言われたが、どこまでかが分からないから。
いつものように朝ごはんをいただき、
畑に水やりをした後、馬車の迎えがきた。
「アリアーツェ……」
母親は言葉が出て来ないようで、ただぎゅっと抱き締めてくれた。
「アリアーツェ、しっかりな」
父親は少し涙ぐんで、頭を撫で肩を撫で、背中を優しく叩いてくれた。
(ソレは……戦場に送り出す時の)
寄り添い立つ両親の姿を、心に焼き付ける。
馬車に乗り込む。
小窓が左右についていて、馬車が走り出したあと、急いで外を覗くと。
領民達が、みんな自宅の前に立ち、見送ってくれている。ぴょんぴょん飛び上がり、懸命に腕を振るシャーネットの小さな姿が見えた。
何かを叫んでいる。
「……風さん」
(──ともだちだよって)
(はなれても、ずっと、ともだち)
「……うん、って、伝えて?」
すぐに風が飛んで行き、シャーネットの髪を服を、掻き回すのが見えた。
夕暮れ色の瞳が、驚いたあと、涙を浮かべたままにっこりしてくれた。
胸がきゅうっと苦しくなる。あっという間に、領地は見えなくなった。
精霊達がアリアーツェの髪を撫でて、滲んだ涙を拭ってくれる。
(いるよ)
(ワタシたちがいる)
(なかないで?)
「……うん、ありがとう……みんな」
そうだ。アリアーツェは一人ではない。ずっと精霊達がそばにいてくれる。
(──大丈夫だ。必ず戻ってくる)
前世の剣士が冷静に思考を巡らせはじめる……。
アリアーツェを乗せた馬車は、センツィオ領を通り過ぎ、そのまま街道に進んで行く。
迎えは御者のみで、同乗者もいなかった。
今すぐ逃げる?
いや、それだと領地に迷惑がかかるだろう。
幸い、彼らはアリアーツェを五歳の少女と認識している。
精霊達はついてくるが、何ができるかまでは知らないのだ。
時期を待とう。
「……ん」
精霊達も同意した。
大人しく馬車に揺られていると、街道の開けた場所に、テントや馬車が待機していた。馬の世話をする騎士達も。
水色の旗が、テントの傍にある。
馬車は、野営の近くに停まった。
小さなトランクを片手に馬車から降りたアリアーツェを、いくつもの視線がとらえた。
待つように言われ、降りた場所でポツネンと待っていると、皇子がやって来た。
アリアーツェの事を見て、頷く。
「逃げずに来たな。褒めてやる」
最初の、丁寧な対応は止めたらしく、普段の口調と態度に戻っていた。
一緒に引き連れてきた侍女に、指示を出す。
「着替えさせよ」
「はい、殿下」
それだけ言って、自分のテントに帰っていく後ろ姿を、睨みつけなかったのは褒めてほしい。
「さあ、こちらへ」
無表情な侍女に、アリアーツェは手をつながれ、別のテントに連れて行かれたのだった。
湯浴みをさせられ、下着と衣服も着替えさせられた。無表情な割には侍女の手は優しく、髪も丁寧にくしけずられる。
「……お美しいこと」
ほう、と思わずため息をつき、侍女は軽く髪を結ってくれた。何故か少し頬が上気している。
真新しい衣服は滑らかで、最上級の布だと分かった。用意された新しい靴も、綿が敷かれた柔らかい皮で出来ている。
爪先も整えられ、軽く磨かれた。最後に全体を眺め、やりきった表情で侍女は頷く。
「完璧ですわ。……この後、お昼はこちらに運びます。お昼寝されたあと、夕餉になります。殿下とご一緒に。……今夜はここに野営し、明日の朝出発します」
アリアーツェは、こくりとした。
自分の衣服とポシェットに手を伸ばしたが、遠ざけられ、長持ちに仕舞われてしまった。小さなトランクも。
「このまま、テントの中でお待ちくださいね。お昼を運んで参ります」
「……はい。ありがとう、ございます」
侍女はにこりと、控えめに笑ってくれた。
テント内でひとりになると、急に寂しさが込み上げてくる。
我慢しようとしたのに、両親やシャーネットの顔が浮かび、領地や領民や、おじじとおばばの顔も浮かんで、消えていった。
「畑……どうしよ……?」
(仲間がみてて、くれるって)
(大丈夫、心配しないで)
(えいぞー、も、見れるよ?)
「そうなの? ありがとう……みんな」
心がきゅうっとなって、ハラハラと涙が止まらなかった。




