皇子の訪問
センツィオ領。
領民僅か三百人程度の、小さな領地だ。
農業と狩りのみで暮らす領民の生活は、慎ましいもの。
ただこの数年、気候が穏やかで収穫量が上がってきており、農産物の価値が安定している。
雨も程よく降り、自然災害もない。領民の気質も朗らかで、穏やか。
そんな、のんびりとした田舎の風景を、第二皇子は馬車の小窓から眺める。
馬車の周りでは、側近の騎士達が騎乗して警戒に当たっているが、辺境の地にしては獣も少なく、野盗すら出ない。
土地は豊かな黒色をして、木々は瑞々しく繁り、空気は何処までも澄み渡り、風の匂いまで爽やかだ。
皇帝から下された命令書には、かなり厄介事が書かれているが、その内容を忘れてしまうほど。
「……平和なものだ」
なんでもない田舎の風景から、目が離せない。
見かける領民達は、みな笑顔で農作業をしている。
姿はみすぼらしいのに、貧しい彼らが輝いて見え──頭を横に振った。
カイルと、側近である騎士達20名、使用人が6名、あとは飛び入りでついてきた2名は、無事センツィオ領に到着した。
センツィオ子爵に出迎えられ、街に唯一ある宿屋に部屋をとり、翌日、隣りの領地──センテ領に向かった。
さらに小さな領地と聞いて、付き添いはジーク一人。
二人で騎乗して向かったが、あっという間についた。
畑に囲まれた小さな民家が、ポツポツと左右の丘に離れて建ち、ゆるく曲がった道の先。
古いのにどこか秘密めいた静けさに包まれた、小綺麗な館が一番奥にあった。
小鳥がさえずり、緑の木々に守られて、暖かな光に照らされて──あまりに静かなため声を出すのもはばかられていると、キイ、とゆっくりドアが開けられた。
「これは、まぁ……カイル殿下でいらっしゃいますか」
見覚えのある夫人が顔を覗かせ、驚いたように頬に手を当て外に出てくる。
カイル達は馬から降りて、挨拶を交わす。
「突然の訪問だが、許せ。アリアーツェ殿は?」
「娘は──」
夫人が館の中を振り向くと、小さなシルエットがそっと、ドアの陰から歩み出る。
その姿を目にして、カイルは衝撃を受けた。
まるで光が差したように、淡い金髪が日光を弾き、大きなアメジストの瞳が宝石のように瞬いて、カイルを見上げてくる。
真正面からじっくり眺めるのは、それが初めてだった。初対面の時はうつむくばかりで、チラリとしか見れなかったのだ。
幼いながらも整った美貌は、母親似か。肌が瑞々しく白く滑らかに目に映り、アメジストの瞳の奥にぱちりとはじける金色の光は、神秘そのもの。
古めかしい館から姿を現した少女は、儚く夢のようで、息を飲むほど美しかった。
なにより肌で感じとったのは、少女の放つ清浄さ。
存在するだけで、辺りの空気をはらうような──背後で、ジークすらも驚く気配を感じる。
「……お久しぶりですね、アリアーツェ殿。私を覚えているか」
不安に揺れた瞳が、おずおずと瞬いた。
「は──はい、……カイル……殿下……?」
ぎこちなく、小さなポシェットを握りしめ、こくりと頭を下げる。
緊張してか、震えているようだ。
怖がらせてはなるまいと、ことさら優しい表情と声を意識して、要件を告げる。
「あなたを迎えにきた」
うつむいたまま、固まっている娘を、夫人がそっと抱き寄せる。
カイルは不安げな母親に視線を移す。
「詳細を話します。お邪魔しても?」
「は、はい、どうぞ……生憎、主人は出払っておりまして」
「失礼」
先にジークが館内に入り、狭い家を見回した。夫人とアリアーツェ以外の気配はなかった。
見た目通りの古びた小さな館だったが、綺麗に掃除されていて、不快感はない。
玄関から入ってすぐの、一間の客間に案内される。
飲み物を用意しに夫人が席を外し、室内に沈黙が降りる。
緊張したまま、二人掛けのソファーの端っこに座る少女を、カイルは飽きずに眺めた。
依然見た時は頼りない、普通の少女に見えたのだが……じっとテーブルを見詰める瞳に、強い意志を感じた。視線は向けて来ないのだが、全身で、カイルとジークの事を警戒している。
そう、息を殺して……逃げる隙をうかがう小動物みたいに。
皇子や騎士の身分を敬う様子も、怖がる気配もない。ただ、強く警戒して、心の内を悟られぬようにしている。
カイルはうっすらと、口の端を上げる。
「……その、ポシェットは? 大事な物か?」
いかにも手作りな、簡易な物だ。
びくりと肩が揺れたが、アリアーツェはそっと視線を持ち上げ、目が合うとびっくりして慌てて目をそらす。
「……祖母に、いただきました」
「センツィオ子爵婦人かな?」
「はい……」
自分の背後に立つジークを、チラリと振り向く。騎士は無言を貫いている。
やがて夫人がお盆に乗せて、お茶を運んできた。
「きちんと、おもてなしもできず、申し訳ありません」
夫人は恐縮しているが、カイル達に臆している風はない。娘の隣に座り、話を聞く体勢になる。
「わざわざ、殿下が帝都からお越しになったのは……この子の関係でしょうか?」
母親も、身分を無駄に怖がらないようだ。真っ直ぐ見てくる眼差しは、なるほど娘にそっくりである。
(面白い母娘だ)
カイルは心底楽しくなった。
「察しが良くて助かります。実は陛下から、大任を任されまして……」
「皇帝陛下から?」
夫人は不思議そうだ。帝都と辺境では、遠くて実感が湧かないのだろう。
カイルは小さく頷いた。
「北の領地で、雨を降らせるように──と」
「……」
目を見開いたあと、夫人は娘を見た。
アリアーツェは、ポカンと、口を開けていた。




