↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/29

第1話 美の女神、降臨

 今日も平穏無事に学校生活が終わった。誰にも注目されず、余計なことをせず、笑われる材料をひとつも渡さずに。


 完璧だ。何も起こらなかった、という一点において、俺の一日は完璧だった。



 高校二年生に進級して、最初の金曜日。


 帰りのホームルームが終わると、教室のあちこちで椅子を引く音が重なった。部活へ急ぐやつ。新しいクラスでできたばかりの輪に残るやつ。スマホを覗き込みながら、駅前へ寄る相談を始めるやつ。


 俺はそのどれでもない。第四の選択肢――「机の中の忘れ物を確認している一般生徒」だ。地味だが、誰の記憶にも残らない、優秀なポジションである。


「日高、今日このあと暇?」


 隣の席の山本が、鞄を肩へ掛けながら聞いてきた。


「暇ではあるけど、帰るよ。洗濯物を取り込まないと」


「一人暮らしって大変だな。駅前の新しい店、田中も行くっていうから誘おうと思ったんだけど」


「俺は行くと言ってない」


 後ろの席で文庫本を閉じた田中が、顔も上げずに訂正した。


「ほら、こう言ってるけど来るから」


「他人の予定を勝手に確定させるな」


「じゃ、また今度な」


「おう。また誘うわ」


 山本は気にした様子もなく笑って、田中の肩を叩いた。田中は世界一迷惑そうな顔をして、それでも結局、一緒に教室を出ていく。ああいうのを腐れ縁と呼ぶんだと思う。


 悪いやつらじゃない。断っても、あっさり引いてくれる。その距離感に、俺は内心でかなり感謝していた。


 廊下の向こうで、誰かの笑い声が弾けた。


 ――鞄のファスナーを引く手が、止まる。


 違う。俺じゃない。あの笑い声は俺とは何の関係もない。そんなことは、確かめるまでもなく分かっている。


 分かっているのに、心臓が先に跳ねるのをやめてくれない。せめて頭の許可を取ってから跳ねてほしい。


 肩の奥に入った力が抜けるまで、たっぷり三秒かかった。


 教室の後ろで、誰かが配布物の束を落とした。紙が床に散る。手を伸ばしかけて――近くにいた二人が先にしゃがんだのを見て、指を鞄の持ち手へ戻した。


 人手は足りている。俺が加わっても、しゃがむ人間が一人増えるだけだ。


 ……拾うかどうかより先にそういう計算を済ませている自分に、たまに嫌気が差す。差すだけで、やめないんだけど。


 俺は鞄を持ち上げ、誰にも呼び止められないうちに教室を出た。


 誤解のないように言っておくと、俺は別に、孤立しているわけじゃない。


 山本や田中とは話す。授業で組めと言われれば組むし、頼まれればプリントだって運ぶ。ただ、自分から誰かの輪へ入ろうとしないだけだ。


 余計なことを話さなければ、余計なところを見られずに済む。笑われる材料も渡さずに済む。


 目立たないこと。あれは一種の技術だ。そして俺は、その一点にかけては学年上位の自信がある。


 誇る場所を盛大に間違えている自覚は、ある。


     ◇


 朝凪高校から自転車で十分。東雲台の朝凪パークレジデンス、八階の角部屋が俺の家だ。


 玄関の鍵を閉め、チェーンまで掛けたところで、ようやく肺の底まで息が吸えた。


 静かだ。


 両親は海外赴任中。週末には必ず連絡をくれるし、俺のことを心配してくれているのも分かっている。だからこそ母さんに「学校はどうだった?」と聞かれれば、俺は「普通だった」と答える。嘘は言っていない。言っていないが、全部を言ってもいない。


 この家では、それを言わなくていい。


 誰の視線も気にしなくていい。声の調子を整えなくていい。自分で決めた順番で家事を回していれば、この城の中では、予定外のことは何ひとつ起きない。


 制服から部屋着へ。夕食を作って食べ、食器を洗って水切り籠へ。洗濯物を取り込み、畳んで、それぞれの場所へ。


 退屈だとは思わない。これは俺が設計した、完璧に安全な夜だ。


 他人の生活へ踏み込まない。


 自分の生活にも、踏み込ませない。


 それだけ守っていれば、傷つく夜は永遠に来ない。


 ――はずだった。


     ◇


 週明けの教科書を鞄へ入れ、机の上の数学の教科書を閉じた、その時。


 視界の端で、光が揺れた。


 外を走る車のライトが反射したのかと顔を上げる。消えない。というか、光っているのは窓じゃなかった。


 部屋の中央。何もないはずの空間が、水面を指でなぞったみたいに歪んでいる。


「……なんだ、これ」


 最初に浮かんだのは、物理法則への疑問じゃなかった。


 ――どこかにカメラがある。


 ――誰かが、俺の反応を見ている。


 ――大きく反応した瞬間、どこかで笑い声が上がる。


 部屋の隅。本棚の隙間。カーテンレールの上。目だけで走査する。何もない。あるわけがない。玄関は施錠した。チェーンも掛けた。ここはマンションの八階だ。


 理屈は一瞬で出揃った。出揃ったのに、身体の警戒だけが一ミリも解けなかった。


 耳鳴りに似た低い音が響く。閉め切った窓の前でカーテンがふわりと持ち上がり、机の上のプリントがばたばたと暴れた。


 照明が落ちる。


 暗闇の中、天井のすぐ下に、銀白色の線が一本。


 線は天井から床へ向かって、布を引き裂くように走り、空間そのものに縦の亀裂を作った。


 裂け目の向こうに、俺の部屋の続きはなかった。


 あるのは、底の見えない銀色の光だけ。上も下も、奥行きすら分からない。光でできた深い井戸みたいな空間が、部屋の真ん中に口を開けている。


 椅子を蹴って立ち上がった膝が、机の角に激突する。痛い。弾みで陶器のペン立てが床へ落ち、乾いた音とともに縁が欠けた。


 拾っている場合じゃなかった。


 亀裂の奥――俺の頭よりずっと高いところに、人影が見えたからだ。


「は……?」


 光の奥から、影が、こっちへ落ちてくる。


 反射的に一歩下がった。けれど、その人物が床へ叩きつけられることはなかった。


 亀裂からこぼれた銀色の光が全身を包み、落下の勢いをほどいていく。長い髪がふわりと広がって――少女は、羽根が降りるみたいに、音もなく俺の部屋へ着地した。


 照明が戻る。


 息をするのを、忘れた。


 月の光をそのまま編んだような銀色の髪が、腰の近くまで流れている。こちらを向いた瞳は、紫水晶を透かしたみたいに深い。身につけているのは、どこの国のものとも違う白銀の衣装。ただの蛍光灯の下にいるだけなのに、彼女の周りだけ、世界の解像度が上がっていた。


 綺麗だ。


 いや、綺麗とか、そういう次元じゃない。人間の造形として何かがおかしい。こんな顔が実在していいのか。


 ……と、思考が三秒ほど完全に持っていかれて。


 直後、胸の奥で警報が鳴った。


 ――目を奪われた。だからこそ、信じるな。


 こんな少女が、理由もなく俺の前に現れるわけがない。綺麗なものとうまい話には、必ず裏がある。俺はそれを、知識じゃなく経験で知っている。


 俺は少女の顔から無理やり視線を引き剥がし、もう一歩だけ距離を取った。


 少女は俺の警戒を歯牙にもかけず、まず室内を見回した。


 机。本棚。ベッド。閉ざされた窓。背後で揺らめく銀白色の亀裂。


 品定めするような視線が部屋を一周して、最後に俺へ着地する。


「あなたが、この住居の主ね」


「…………」


「聞こえなかったの?」


「……どちら様ですか。というか、どこから、どうやって」


 我ながら間の抜けた質問だった。どこからかは見ていた。空中からだ。どうやってかは、まったく分からない。


 少女は、疑われていること自体が心外だという顔をした。それから、名乗れば全てが解決すると信じて疑わない態度で、堂々と胸を張る。


「私はエルミナ。内在する美と価値、調和を司る女神よ」


「…………」


「…………」


「……警察と救急、どっちを呼ぶべきか迷ってます」


「なぜ選択肢の両方に人間の治安組織が入っているの」


 俺は少女から目を離さないまま、じりじりと後退して廊下へ出た。


 玄関。鍵、掛かってる。チェーン、掛かってる。リビングの窓、施錠。自室の窓は、さっき目の前で閉まっていた。


 隠しカメラの類もなし。潜んでいる誰かもなし。


 つまり、いたずらの線が消えていく。


 消えていくのが、逆に怖い。ドッキリなら、笑われて終われるのに。


 自室へ戻ると、自称女神は不満そうに眉を寄せて待っていた。


「女神が名乗っているのよ。少しは驚きなさい」


「今の俺が、驚いていないように見えますか」


「見えるわね。ずいぶん落ち着き払っているもの」


「落ち着いてるんじゃなくて、処理が追いついてないんです」


 とにかく、まともな大人に判断を投げよう。俺は机の上のスマートフォンへ手を伸ばした。


「待ちなさい」


 鋭い声に、指が勝手に止まった。


 ……いや、止まるな俺の指。誰の命令だ。


「人間の治安組織を呼ぶ必要はないわ。私は盗人でも侵入者でもないもの」


「鍵の掛かった家に勝手に入ってきた人は、だいたい全員そう言うと思います」


「入ったのではなく、降臨したのよ」


「言い換えても状況は変わりません」


「状況ではなく、事実の訂正よ」


 駄目だ。話が一ミリも進まない。


 俺だって、鍵の掛かった自宅で、女神を名乗る少女と押し問答する夜が来るなんて信じたくない。


「では、あなたにも理解できるように説明してあげるわ」


「お願いします」


「私は人間ではない。神界から人間界へ降りてきたの」


「説明の一行目から理解できないんですけど」


「最後まで聞きなさい」


 叱られた。


 空から俺の部屋に降ってきた自称女神に、俺が、叱られた。


「私はしばらく、人間界に滞在する必要があるわ。ただ、こちらへ降りるために力を大きく消耗した。すぐに神界へ戻ることはできないの」


「戻れない……」


「ええ。今の私には、安全に滞在できる場所が必要よ」


 そこで一度言葉を切って、女神さま(自称)は俺の部屋をぐるりと見回した。


 嫌な予感がした。今年に入ってから一番の嫌な予感だった。


「この住居は私の降臨地点として選ばれた。設備にも大きな問題はなさそうね」


「選ばれたって、誰にですか。どうしてうちなんですか」


「今、あなたが知る必要のあることは全て話したわ」


「一番知りたいところが丸ごと抜けてます」


 少女は答えなかった。答えないまま、話はまとまったという顔で頷く。


「つまり、ここを私の滞在場所にするわ」


「今の流れのどこに、俺の許可を取る工程があったんですか」


「許可?」


 きょとん、とした顔をされた。


 演技には見えない。この人はたぶん、本気で分かっていない。


「ここ、俺の家なんです。見ず知らずの人を泊めることはできません」


「見ず知らずではないわ。エルミナと名乗ったでしょう」


「名前しか知りません」


「女神であることも教えたわ」


「自称です」


 少女の目が、すっと細くなった。部屋の温度が二度ほど下がった気がする。


「まだ信じていないのね」


「初対面の相手をいきなり信じられる人の方が、少ないと思います」


 彼女は言い返す代わりに、片手を持ち上げた。


 白い指先が、床に転がったままのペン立てを指す。


 欠けた破片の周りに、銀色の光が集まった。


「え……」


 破片がふわりと浮き上がる。欠け口へ吸い寄せられ、細い光の糸が傷を縫い合わせていく。光が散ったあとには、どこが欠けていたのかも分からない、無傷のペン立てだけが残っていた。


 続けて、指を払う。


 部屋の中央に残っていた銀白色の亀裂が、左右から押し戻されるように細くなった。最後に小さな光の粒を残して、完全に消える。壁も天井も、何事もなかったような顔をしている。


 手品の種を探そうにも、どこを見ればいいのかすら分からなかった。


「これでも、ただの人間に見える?」


「……少なくとも、普通の人ではなさそうです」


「女神よ」


「そこはまだ保留で」


「この期に及んで保留なの?」


「保留です」


「頑固な人間ね……」


 女神さま(自称・ただし超常の力あり)は、心底呆れた顔で息を吐いた。


 いたずら説と撮影説は、さすがにもう消えた。


 だからといって、警戒まで消えるわけじゃない。むしろ逆だ。本物の「人間じゃない何か」が、よりにもよって俺の家を選んだ。なぜ。何のために。俺に、何をさせるつもりだ。


 疑いの種類が変わっただけで、量は一グラムも減っていない。


 その時、彼女の身体が、ほんのわずかに揺れた。


 一瞬だった。すぐに背筋が伸びて、何事もなかったような澄まし顔に戻る。


 けれど、見てしまった。


 力を消耗したという話だけは――たぶん、本当なんだろう。


 俺は改めて、目の前の少女を見た。


 腰まで届く銀髪。夜の駅前を歩けば十秒で人垣ができそうな顔。どこの国のものでもない白銀の衣装。所持金、おそらくゼロ。身分証、確実にゼロ。


 このまま「出ていってください」と言ったら、どうなる。


 言えば、俺の完璧な夜は戻ってくる。それは間違いない。


 夜の街に、行くあてのない少女を放り出して手に入れる、完璧な夜が。


 ……。


 そのあと何が起きても「知らなかった」ことにできるほど、俺の想像力は都合よくできていなかった。


 かといって、信じたわけでもない。断じてない。


 ただ、今夜だけなら。


 明るくなってから、両親に相談するなり、まともな解決策を探すなりすればいい。


 俺は警戒を解かないまま、大きく一度、息を吐いた。


「……今日だけです。明日になったら、どうするかきちんと考えます」


「分かったわ。今日からここを私の居所とする、ということね」


「今の返事の、どこをどう聞いたらそうなるんですか」


「明日になれば、また明日の話をすればいいでしょう」


「今日だけって言いました」


「ええ、聞いていたわ。今日の分については承知した、という意味よ」


 ……この人、絶対にわざとやっている。


 いや、わざとじゃなかったら、もっと怖い。


「それと、この家にいる間は、家のルールに従ってください」


「女神である私へ、人間のあなたが規則を課すの?」


「俺の家ですから」


 自分でも意外なくらい、はっきりした声が出た。


 この家の中でまで相手に合わせ始めたら、俺には本当に、逃げ込む場所がなくなる。それだけは駄目だ。何がどうなっても、駄目だ。


 女神さまは不服そうに俺を見た。見たが、夜の街へ追い出されるよりはましだと判断したのか、すぐには反論しなかった。


 代わりに、交渉は成立したとばかりに室内を見回し、当然のような顔で俺へ向き直る。


「それではハル。まず食事を用意してちょうだい」


「……どうして俺の名前を知ってるんですか」


 心臓が嫌な音を立てた。まさか本当に、神様的な力で、俺のことを全部――


 女神さまは無言で机を指した。


 そこには、週明けの準備をしていた教科書と、鞄から出したままの学生証。


「そこに書いてあるでしょう」


「…………」


 一瞬でも神秘の力を信じかけた自分が、心の底から馬鹿みたいだった。


 まあ……少なくとも、この女神さまの欲しがっているものは分かりやすい。


 食事と、寝る場所。


 理由の分からない好意で近づかれるより、遠慮の欠片もない要求をされる方が、よっぽど身構えずに済む。裏を探さなくていいからだ。


 もちろん、安心したわけじゃない。


 ほんの少し前まで、風呂に入って眠れば終わるはずの、完璧に設計された夜だった。


 誰にも踏み込ませないから安全だった俺の城に、今、美の女神を名乗る少女が立っている。


 今日も平穏無事に終わった――そう思っていた俺の一日は、どうやら最後の最後で、盛大に取り消されたらしい。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。