第28話 逃げてやるわ!
城から出たことは、ほとんどなかった。
王女が城下に出るには手続きがある。護衛が必要で、事前の届け出が必要で、訪問先の調整が必要で、シルフィへの通達が必要だ。最後の一つが最大の障害だった。シルフィに知らせた瞬間に何かが動く。
だから今回は知らせない。
朝の公務の合間を縫って、侍女の外出着を一着借りた。借りた、というより引き出しから取り出した。誰かが置いておいたものだ。サイズが合っていた。なぜ合っているのかは考えないことにした。
城の東側の通用門は、午前中は衛兵が1名しかいない。そこを抜けた。
衛兵が止めなかった。一瞬目が合ったが、会釈して通り過ぎた。止めなかった。
城下に出た。
久しぶりだった。
石畳の上に人が歩いていた。屋台が出ていた。子どもが走っていた。どこかから焼き菓子の匂いがした。城の中では嗅いだことのない匂いだった。
歩いた。
特に目的はなかった。とにかく外に出たかった。城の中にいると、全部が「王女ルナリア」の話になる。評議会も、支持率も、シルフィの変換も、セヴェロの動きも。城下に出れば、少しだけ「ルナリア・ディ・アステリア」ではなく、ただの誰かになれる気がした。
気がした、だけだった。
「あの方、どこかで見たことありませんか」
背後から聞こえた。
振り返らなかった。
「目元が……」
「まさか」
「でも」
歩くペースを少し上げた。屋台の列の間に入った。人が増えた。混じれば分からない。侍女の外出着だ。普通の通行人に見えるはずだ。
「失礼ですが」
正面から声をかけられた。
初老の女性だった。買い物かごを持っていた。
「あなた、もしかして……」
「人違いですよ」
「でもその目の色が——」
「よくある色です」
「淡い紫は——」
「日当たりが良いと少しそう見えるんです」
女性が少し首を傾けた。
その間に横の路地に入った。
路地は細かった。石壁が続いた。どこに続くか分からなかった。奥に進むと、小さな広場に出た。噴水があった。子どもが3人、縁に座って何かを話していた。
人がいなかった。子どもだけだった。
ベンチに座った。
静かだった。噴水の音だけがした。
こういう場所を書いたことがある。前世で。何かの作品の、確か中盤の転換点の場面で、主人公が喧騒から離れて一人になる場面があった。読者から「ここで泣いた」というコメントが来た。書いている時は泣かなかった。
今は少し分かる気がした。
どのくらい座っていたか分からなかった。
子どもたちがいつの間にか増えていた。5人になっていた。こちらをじっと見ていた。
「お姉さん、誰ですか」
一番小さい子が聞いた。
「通りすがりよ」
「お城の人ですか」
「なぜそう思うの?」
「きれいだから」
返す言葉が出なかった。
「お菓子あります?」と別の子が言った。
「ないわ」
「じゃあ歌える?」
「歌えないわ」
「踊れる?」
「踊れないわよ」
「じゃあ何ができるの?」
少し考えた。
「……小説が書けるわ」
「なにそれ」と子どもが言った。
そうね、と思った。なにそれ、で正解だ。
気づいたら子どもたちが隣に来ていた。噴水の縁に並んで座った。何の用もなく並んでいた。しばらく誰も何も言わなかった。噴水の音だけがした。
「お姉さん、またここに来る?」
「分からないわ」
「来てほしい」
「……考えておくわ」
子どもたちが散った。
城に戻ったのは昼過ぎだった。
通用門から入ろうとしたら、シルフィがいた。
門の内側に、無表情で立っていた。
「お帰りなさいませ、殿下」
「……いつから?」
「朝から」
「外出着を引き出しに入れたのはあなたね」
「殿下がお出かけになる際に必要となる可能性があると思いまして」
「衛兵に通させたのもあなたね」
「衛兵には、王女殿下の通行を妨げないようお伝えしております。それは常時の指示でございます」
「今朝特別に何か言ったのでしょう」
「常時の指示の確認をしただけでございます」
「……その確認のタイミングが今朝だったのね」
シルフィが一礼した。否定しなかった。
着替えて執務室に戻ったら、盆の上に号外が置いてあった。
朝刷りだった。
『殿下、城下を電撃訪問。民と直接触れ合い、路地裏の子どもたちと語らう。支持率、ついに100%達成』
号外を持ったまま、しばらく動かなかった。
「……朝刷り、ね」
「はい」
「私が出る前に刷ったの?」
シルフィが一拍置いた。
「準備しておりました」
「私が城下に出ることを知っていたのね」
「さあ」
号外を置いた。
100%。
数字として見ると、意外と実感がなかった。99%から1%動いただけだ。でも何かが変わった気もした。99%と100%の間には、数字以外の何かがある。
「支持率が100%になったということは」
「はい」
「あとは下がるだけね」
シルフィが少し間を置いた。
「……殿下」
「何?」
「本日の城下での様子が、各所に広まっております。路地裏で子どもたちと噴水の縁に並んで座っていた、という話が」
「それで?」
「民衆の間では、支持率という概念を超えた何かになりつつある、と評議会から報告が入っております」
「超えた、って何が超えるの?」
シルフィが答えなかった。
執務室に夕方の光が差し込んでいた。号外が盆の上にあった。100%という数字が印刷されていた。
夜、一人になってから、思った。
もう待っていられない。
理由を言葉にしなかった。ただそう思った。今日城下で座っていた時間が、何かを変えた気がした。噴水の音と、子どもの声と、焼き菓子の匂いが、まだどこかに残っていた。
残っているうちに、動く。




