第25話 感情的になってやるわ!
朝、廊下を歩いていたら声が聞こえた。
角の向こうから、侍女たちの話し声だった。名前は出なかった。だが内容は分かった。
立ち止まった。
聞くつもりはなかった。角を曲がれば声は止む。そのまま歩けばよかった。なのに足が止まった。
声はすぐ消えた。侍女たちが気配に気づいて散ったのだろう。廊下に静寂が戻った。
歩き続けた。
執務室に入ると、シルフィがいた。いつもより少し早かった。
「殿下、少々ご報告がございます」
「何?」
「ドミナ様が新しい工作を仕掛けております。今回は……少々、対処に時間がかかりそうでございます」
少々、という言葉をシルフィが使うのは珍しかった。
「どういうこと?」
「手口が変わっております。これまでの方法では即座に対処できません」
「対処できないの?」
「現時点では」
「どれくらいかかるの?」
「数日、かと」
数日。シルフィが数日と言った。これも珍しかった。
「……分かったわ」
それだけ言った。
これを使えないか、と思った。
数日間、シルフィが後手に回る。その間に動ける。廊下の声のことを、もっと大きく広める方向に動けるかもしれない。評判が落ちるなら、落ちた方がいい。
そう考えて、廊下に戻った。
しかし、体が止まった。
廊下に誰もいなかった。静かだった。
さっきの声のことを、誰かに言いに行こうとした。どこに行くつもりだったのか、動きながら分からなくなった。誰に言えばいい。何と言えばいい。「侍女たちが私の悪口を言っていた」と、どこへ報告するのか。
報告先がない。
王女として、臣下の噂を訴える場所が、どこにも思い当たらなかった。
廊下に立ったまま、少しの間、動かなかった。
結局、何もせずに執務室に戻った。
その日の夕方、城内の空気が変わっていた。
廊下ですれ違う文官の目が、少しだけ違う。大広間で挨拶をしてくる貴族の声が、心なしか薄い。見える範囲では何も起きていない。でも何かが変わっていた。
翌朝も同じだった。
翌々朝、また廊下で声が聞こえた。今度は遠かった。内容まで聞こえなかった。でも誰の話をしているかは分かった。
部屋に戻った。
窓の外を見た。城下が見えた。いつもと同じ城下だった。
欲しかったものが、ある。
そう思った。ずっとこれを望んでいた。評判が落ちることを。陰口を言われることを。追放への道が開けることを。それが目的だったはずだ。
なのに。
なのに、という先が出てこなかった。言葉にならないまま、窓の外を見続けた。城下はいつもと同じだった。変わったのはこちらだけだ。
前世で物語を書いていた時、登場人物が追い詰められる場面を何度も書いた。うまく書けた時は、読者から「苦しかった」とコメントが来た。書いている本人は苦しくなかった。追い詰めているのは自分だったから。
今は追い詰めているのも自分だが、追い詰められているのも自分だった。
窓から離れた。椅子には座らなかった。
次の手を考えようとした。出てこなかった。
追放まで、まだどのくらいある。プロットには書かなかった。内乱が来るまでの時間も書かなかった。分からないまま、時間だけが動いている。欲しかったものが目の前にあって、手が届かない。届かないどころか、手を伸ばすたびに遠ざかる。
今日初めて、そのことが腹立たしいのか悲しいのか、自分でも判断がつかなかった。
3日後の朝、シルフィが入ってきた。
「対処が完了いたしました」
顔を上げた。
「ドミナ様の今回の工作は、証拠ごと評議会に提出されました。また、これまでの手口との差異を分析し、今後同様の方法が使われた場合でも即時対処できる準備が整っております」
「支持率は?」
「戻りました」
部屋に静寂が流れた。
「……戻したの?」
「はい」
「戻さなくてよかったのに」
シルフィが止まった。ほんの一瞬だった。返事が来るまでに、これまでにない間があった。
「……戻さない選択もございました。ただ、そのままにした場合、ドミナ様の次の工作の足掛かりになる可能性がありましたので」
「理由があったのね」
「はい。殿下にとって有益な状況ではありましたが、他の要因を考慮しました」
「私は問責されたかったのよ」
「それは承知しておりました。それでも、今回は戻すことが全体として適切と判断しました」
「……あなたが判断するの?私の追放計画を、あなたが。毎回、毎回、全部」
声が少し大きくなった。自分でも気づいた。
「殿下」
「分かってるわよ。あなたは私を守るためにやってる。分かってる。でもね、守られれば守られるほど、私は死に近づくのよ。分かる?追放されなければ内乱で死ぬの。あなたが守るたびに、私は少しずつ死に近づいてる」
シルフィが止まった。今度はいつもより長かった。
「……承知しております」
「承知してるなら——」
「それでも、今この瞬間の殿下のご安全が優先されます。私にはそのようにしか動けません」
返す言葉が出なかった。
シルフィが一礼した。
「今更よ。もう戻ったんでしょう?」
「はい。申し訳ございません」
また間があった。今度はシルフィの方から口を開いた。
「殿下」
「何?」
「廊下で聞こえた声のことは、調べております」
「調べなくていいわ」
「承知いたしました。ただ、調べた事実はございます。それはご報告すべきかと思いまして」
「調べた結果は聞きたくないわ」
「では、結果についてはお申し付けがあった際にご報告いたします」
「本当に調べなくていいのよ」
「調べることと、結果をお伝えすることは、別のことでございます。調べることは私の判断で既に行いました。結果のご報告については、殿下のご意向に従います」
返す言葉が出なかった。
調べることは既に終わっていた。止める前に終わっていた。
「下がっていいわ」
シルフィが一礼して、下がった。
部屋にひとりになった。
調べることと、伝えることは別だとシルフィが言った。調べた結果を聞きたくないと言ったら「承知しました」と言った。でも調べた事実は告げた。
どちらでもよかった、とは言えなかった。
窓の外はいつもと同じだった。城下の音が遠くに聞こえた。
痛かった、という感覚はもうなかった。あったのかもよく分からなかった。
ただ、戻ってしまったという事実だけがあった。




