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伯爵夫婦、初の朝

この話からようやく新婚生活です。

 不意に目が覚めたら、目の前にエトワールの寝顔があった。驚愕して、全身の筋肉が固くなる。あどけない、子供みたいな寝顔。実に可愛らしい眠り顔。


 ああ、そうだと思い出す。歩み寄って夫婦になりましょうという提案を鵜呑みにして、というより自己弁明の理由にして、我慢せずにエトワールに手を出した。


 口説くのは禁止。抱きしめる以上は禁止。すぐに破ってしまった。


 そのエトワールは本を枕にして寝ている。本なんて、昨夜は無かった。フィラントが隣室からエトワールを今いる寝台に運んで、ことが終わるまでずっと本なんて存在してなかった。


 枕は……ある。エトワールの後頭部側に役目を果たしていない枕があった。勝手に頭を動かしたりしたら、安眠妨害か? しかし、固そうな表紙の本が枕など痛そう。フィラントはそろそろとエトワールの頭に手を伸ばした。


「フィラント様……」


 起こした! と思ったら寝言だった。以前も確か名前を呼ばれた。気持ち良さそうな寝顔に、なんとも気持ち良さそうな微笑み。


 フィラントはそっと枕と本を入れ替えた。手にした本は、チェスの定石本。


「チェス?」


 カンタベリ公爵夫人対策で、苦手なチェスに励んでいるのは知っているが、寝る時まで? エトワールは一度起きたらしい。裸ではないし、この本。あんなことをした後に、布団の中で読書とは、エトワールには随分と余裕がある。フィラントは割と頭の中が真っ白だった。理性なんて吹き飛んで、自制不可能だったのに。


 フィラントが朝まで1度も起きないで寝るのは随分と久々だった。嫌な夢にうなされて飛び起きることが多い。余程、昨日疲れたのだろう。そもそも、睡眠不足だった。そこにエトワール。次々と女に手を出していたレグルスの気持ちが始めて分かった。あれは、大変良い。


 金を出してでもしたい男が多い理由も理解した。しかし、逆を思うとやはり嫌悪しか湧かない。生活のために身を売る娼婦、ましてや子供は減らさないとならない。無くならない商売だろうから、線引きや法整備が必要。急に、エトワールに対する罪悪感が押し寄せてきた。吐きそう……。


 フィラントは本を手に持って、布団から出た。


「寒っ……」


 思わず口から溢れた。布団の中があんまりにも温かったので、落差が激しい。フィラントは机の上に本を置いて、部屋を出ようとした。


「おはようございます……。今朝は寒いですねフィラント様……」


 起こしてしまったらしい。フィラントは緊張しながら振り返った。怯えて……いない。怒って……ない。眠そうに目をこすって、小さな欠伸をしている。嘔気が引っ込んでいく。嫌と言われないで、もっとという様子だったのは、気のせいではなかった。そして今の様子。手酷い事ではなかった。エトワールの雰囲気から、自分にそう言い聞かせる。


「おはようございますエトワール様……」


「昨夜みたいに、エトワールで良いですフィラント様。妻を様付けなんて社交場で笑われますよ」


「ええ、すみ……ありがとうございますエトワール。気をつけます」


 布団から元気いっぱいというように飛び出してきたエトワール。フィラントの前まで来た。まるで想定してなかった、機嫌の良さそうなニコニコ笑顔。罪悪感がシュルシュル消えていく。


 夢?


「フィラント様。……あの、昨夜は素敵な夜でした。嫌ではなかったので、きっと恋の第1歩です。フィラント様は……違います?」


 真っ赤な顔で、しどろもどろながらそう告げたエトワール。笑顔は曖昧になっている。困り笑い。


 素敵な夜でした?


 恋の第1歩?


 幻聴?


 上目遣いでジーッとフィラントを見つめているエトワール。自分の手を弄りまわしている。とても恥ずかしいという様子。これを夢だとか、幻聴だとか言ってはいけない。失礼である。そう、自分に言い聞かせる。違ったら、傷ついて落胆するのはフィラントなのでエトワールの話に乗ろう。


「いや、あの、はい。違くないです……」


 随分前から慕っていました。至福で気持ちが良すぎました。とは流石に言えない。なんの打算なく、夫婦になりましょうという気持ちがエトワールにあるのなら、生きてきた中で最大の奇跡。


 彼女、本気なのか? 本当なのか?


 そう思ったら、エトワールは目を丸め、そのあとにまた満面の笑顔になった。


「それ、それなら私達の前途は洋々ですね。あ、あの、まい、毎晩は……毎晩はその……痛いのでたまにでお願いします。いいえ、痛くなくなると聞きました。慣れ? らしいです。そうなんですか? 適切な頻度は聞いてないので分かりません……。あの……キスは毎日いつでも良いです」


 フィラントは咳き込んでいた。え? 次も良いのか? 適切な頻度は聞いてないって、フィラントもそんなもの知らない。慣れたら痛くなくなるのかなんて、それも知らない。


 ()()()()()()()()()()()()()


「曜日とか、そういうのを決めます? 決めるものには思えませんけど……。浮気は禁止しますよ。外聞があります。私もしません。あんな、あんな、あんな恥ずかしいこと1人とで十分です……。そうです、エトワールは爆発するくらい恥ずかしかったので、次はフィラント様が誘ってください」


 俺に次を誘え⁈ そんなの今すぐが良い。今すぐなんてダメに決まっているだろう! 俺は浮かれすぎだ。また咳が出た。


 浮気は禁止って、最初の嘆願書には真逆の事が書いてあった。


 政略結婚させられた、可哀想な子爵令嬢はどこかに消えてしまったらしい。これは大変気が楽で、くるくる表情が変わるエトワールを見れるのも幸せで嬉しい。


 どうしてこうなった。何もしていないのに、フィラントはエトワールの信頼を勝ち取ったらしい。きっかけが分かれば、もっと親しくなれるかもしれない。いや、もう十分か。


 どうしよう。これは幸せ過ぎる。


「フィラント様、風邪をひきました?」


 大丈夫ですか? と背中を撫でられる。細い小さな手がフィラントを労ってくれる。


「いえ、色々驚いて……」


「私もですよ。お互い嫌な相手と結婚ではなくて良かったです。運命かもしれません。鉄は熱いうちに打ちましょう」


 エトワールはこんな娘だったのか。ポンポン、ポンポン、フィラントにはない発想を口にする。動揺で出た咳が、笑いに変わった。ぐじぐじ悩んでいたのは、無駄な時間だったらしい。これが全て何か目的がある演技なら、エトワールは王都大歌劇場の大女優になれるだろう。


「な、な、なんで笑っているんですか?」


「いえ、あの……エトワールは前向きですね」


「はい、フィラント様。それが私の長所です。今日は1日お休みですよね。用事は夜にカンタベリ公爵様やレグルス様に一緒にお礼を言いに行くくらいですよね?」


「ええ、そうです。疲れたでしょうからゆっくりして下さい」


「いいえ、私は元気です。鉄は熱いうちに打ちましょうと言ったばかりですよ。恋の芽が枯れたら困ります。なのでお出掛けしませんか? 一緒に朝食が先ですよ」


 恋の芽か。フィラントなんかに、どういうことだ? しかし、これはもう乗ろう。本物の夫婦になりたいですなんて、奇跡にも程がある。やっぱり無理でした、嫌ですといつか言われたとしても今この瞬間の幸せは残る。掌の上で転がされて、全財産を奪われるのでも良い。まあ、そういう風には見えない。


「街から少し離れた所に、綺麗な湖があるんですよ。アンナが教えてくれました。フィラント様なら馬で連れて行ってくれますよね? お弁当を作るので、見に行きません?」


 湖に行きたかったなんて、そんなこと知らなかった。期待の眼差しが眩しくて、くすぐったい。


——まずは相手と向き合え。君自身の幸せのためにだ


 ユース王子のアドバイスを忘れていた。1ヶ月、フィラントは勝手に決めつけて、距離を保ってエトワール令嬢の幻想を見ていた。まだ、彼女のことを何にも知らない。


「お弁当を作る? ステラ湖なら直ぐに行けますよ」


「違いますよフィラント様。ピクニックです。あー、そういうの嫌いです?」


 顔を曇らせたエトワールに、フィラントは即座に首を横に振った。


「ピクニックなんてした事がないので、好きも嫌いもないです」


 ごくごく自然に、本音が漏れていた。ピクニックって何をするんだ? 始めて聞いた単語である。


 しまった、と唇を結んだ。好きですと嘘をつけば良かった。彼女とは、生活してきた環境が違い過ぎる。


 エトワールは「それなら好きかもしれませんね。私達がお互いを嫌じゃなかったように」と、悪戯っぽく歯を見せて笑ってくれた。

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