一家団欒
とくにヤマのないお話しです
アルタイル王国はクロディア大陸中央よりもやや北西部に位置する小国。その歴史は——。
「パパー、あれなに?」
俺の膝の上で、まもなく2歳になる息子クラウスの顔は歴史書から離れ、小さな指が澄み渡った空を示した。
太陽を横切るのは、鷲らしき鳥。両翼を広げ、風を切るように飛んでいる。
今日は休日。親子でピクニックをしましょうという妻の提案を二つ返事で受け入れて、城下街から程近い丘へやってきたのは小一時間前。
「鷲だ、クラウス」
「わし? わしはなに?」
「鳥だ」
「といはなに?」
「鳥は……翼があって空を飛ぶ生き物だな」
「つばさ?」
首を傾げられたので、両手の親指をくっつけて「こう、バサバサ動かしているだろう? あれが翼で、それで飛んでいる」と手を動かして説明。
「ちょちょもとい?」
クラウスの目線が下がった。丘の上に咲き乱れる白詰草の周りを飛ぶ蝶々を指差して「わし!」と口にする。
「いやクラウス、あれは蝶々で合っている。鳥ではなく蝶々だ。蝶々のヒラヒラしてるのは、あれは翼ではなくて羽……」
急に膝の上が軽くなった。膝の上からクラウスが降りて、敷物からも飛び出してしまっている。慌てて立ち上がった。
「クラウス!」
「パパー! あれはなに?」
クラウスが「待って」と追いかけ始めたのは野兎。本人としては全速力なのだろうが、よたよたした走り。
「ひい、クラウス! 転ぶから歩きなさい!」
緩やかな丘で、緑豊かで土も柔らかいが、倒れて頭をたまたま石にぶつけたりしたら、死んでしまう。
急いでクラウスの後を追い、抱き上げた。
「パパたかい!」
楽しい、というようにクラウスは大笑いして手足をバタバタさせた。
「あっ! 暴れるなクラウス。父が落としたらどうする!」
しっかり抱き締めて、元の場所へ戻ろうと歩き出した。これだけしっかり掴んでいれば落とさないだろう。
「パパにわしいる」
「俺にわし? どうしたクラウス?」
顔を覗き込もうと腕を少しだけ緩めた。するとクラウスは俺の右肩を両手で掴み、よいしょと登ってきた。おまけに体を折る。
「あー! わし! にげた!」
「クラウス、危ないから父によじ登るな」
背中にクラウスの手がパシパシとぶつかる。首を捻って確認すると、遠ざかっていくアゲハ蝶が見えた。
「あれは鷲ではなくてアゲハ蝶だクラウス」
「あげあちょってなに?」
「蝶々だ」
「ちょちょはといでわし! たくさ、なまえあるねーパパー」
クラウスを元の位置に戻す。クラウスはウンウン唸りながら「たくさおぼえる。たいへんだ」と繰り返した。
「そうだなクラウス。沢山の名前を覚えるのは大変だ。ごちゃ混ぜのようなので父が説明して整理してやろう」
敷物へと戻り、再びあぐらをかいて、膝の上にクラウスを座らせようとした。
しかしクラウスは俺の隣にしゃがみ、自分の靴を眺め始めた。
「ママー、これなに?」
クラウスはしゃがんだまま歩いて、顔を上げた。少し離れた位置に座り、白い布に何やら刺繍をしている妻エトワールが、クラウスと目を合わせる。
エトワールは刺繍の手を止め、針などを箱にしまい、箱に鍵をかけるとクラウスを手招きした。
「クラウス、何? とは何を見つけたの?」
エトワールがにじり寄ってクラウスに近寄る。2人の同じ色の髪がさらら、と微風に揺れる。
太陽に照らされて、きらきらと輝くプラチナブロンドに一瞬目を奪われる。
「ママあのね、このくよいの」
「あら、生き物ね。ほら、一生懸命動いているでしょう?」
クラウスが黒いの、と言って見つめるのは蟻。恐らく皿に乗るクッキーに近寄ろうとしている。
「うん。うごいてゆ」
「生き物だから潰したりしてはいけませんよ」
蟻に手を伸ばしかけたクラウスの小さな手を、エトワールはそっと掴んだ。クラウスの少し垂れ目がちな、母親似の瞳がエトワールを捉える。
「あのね、ママ。わしはちょちょなの」
「そうなの? クラウスは物知りね。パパに教わったの?」
「うん。パパしてるの」
「物知りのフィラント様から教わったの。良かったわねクラウス」
エトワールの手がクラウスの頭を軽く撫でた。微笑み合う2人にじんわりと胸が温まる。
可愛い妻に愛くるしい息子の微笑ましい姿には、いつも癒される。
この幸福がどうか永遠に続きますように。エトワールのアルタイル大聖堂への礼拝に伴い、彼女の隣で目を瞑るたびにそう願っている。
神など信じていないので、どちらかというと自分に誓いを立てているという方が正しい。
誰よりも、何よりも、家族を大事にして守る。日々、そう決意している。
「あのね。ママね。あっいにもいるの」
クラウスの手がエトワールの手を握り締める。クラウスは立ち上がり、エトワールの手を引いた。目線はいつの間にか近くに来ている野兎。
「あら本当」
エトワールがクラウスの手を引いて歩き出す。2人は野兎の近くへ向かっていった。
護衛兵もいるが、心配なので2人の後ろについていく。
「あれなに?」
「生き物よ」
クラウスの問いかけに対するエトワールの返答に首を傾げそうになる。
「くよいのとおなじ?」
「そうよ。同じ生き物よ」
ふーん、とクラウスは小さく頷いた。その後に首を横に振った。
「ちがうよ?」
クラウスは手を頭の上にあげて、ウサギの耳のようにした。
「そうね。見た目が違うわね。だから名前がついているの。あれは兎よクラウス。黒くて小さいのは蟻ね」
「うさきとあい」
「そうよ。パパはフィラント、ママはエトワール。同じ生き物でも、いくつか名前があるから覚えるのが大変ね。あしが沢山あるのは虫よ。蟻は虫。小さいけど一生懸命生きているから潰してはいけませんよ」
ニコリ、とエトワールがクラウスに微笑みかけた。
「クラウス、脚って何かしら?」
「あしはねー、あゆくの」
クラウスが足を動かして地面を何度か踏んだ。
「そう。クラウスは物知りね。すごいわ」
そう言うと、エトワールはクラウスの頭に優しく触れた。すらりとした指が、柔らかなクラウスの髪を撫でる。クラウスは嬉しそうに破顔した。
「鷲や蝶々のあしはいくつあるかしら。ママと数えてみましょうか」
「クラウスはね。パパとかおえてママにおちえる」
そう言うと、クラウスはエトワールから離れて「パパー」と俺の方へ駆け寄ってきた。
クラウスは俺にべったり。普通、母親にくっつくいて回ると思うのだがと不思議に思う。先日その疑問を口にしたら、エトワールは「フィラント様は不在がちで、一緒にいる時に目一杯甘えたいのでしょう」と言われた。
確かに外交で他国へ行くこともある。しかしそれ以外は毎日、可能な限り早く帰宅している。
「あれなに?」
「クラウス、足を数えてママに教えるんじゃなかっ……。は、走るなクラウス! 転んで怪我をする!」
駆け寄ってきて、俺の手を掴んだクラウスが走り出した。丘を駆け下りていく。
身長差がありすぎて体のバランスが取りにくい。
クラウスが目を輝かせて目指しているのは鹿。大小2頭。近寄ってクラウスが蹴られたら、と考えた瞬間、背筋が凍る。
「クラウス、大きくて危険だ。遠くから見ていよう」
クラウスを抱き上げて足を止める。湖の水を飲む鹿の親子をクラウスはジッと見つめている。
「いちにいさんよ。よはうさいだけおちがいね」
「あー。4はウサギだけど? ああ、あれは鹿だクラウス」
「しかはむしやない? あてる?」
「ああ、そうだな。鹿は虫ではない。鹿は……動物だ」
「どおぶはなに?」
何? とクラウスの丸い目が俺を真っ直ぐ見つめてきて、言葉に詰まる。動物と虫の違いって何だ?
「動物は……」
「いきものなの。クラウスはちてる」
えっへん、とクラウスが俺の腕の中で胸を張った。
「えっ、ああ、クラウスは物知りだな」
ニコニコ笑うクラウスを見つめる。男児だが小さくしたエトワールというような容姿。
彼女が幼い頃もこのように笑っていたのだろうか。
いいや、違う。彼女はかつて母親の姉に預けられて不遇の幼少期を送っていたということを思い出した。
自分はというと、戦時での頭部外傷のせいで幼い頃の記憶はない。
「パパ?」
「クラウス、パパと駆けっこするか。転ぶと痛いが、走れる方が良い」
過保護にし過ぎて、一人で生きていけない男に育つのは困る。
人は一人では生きていけないとは分かっているが、自らの力で未来を切り開ける力は必要だ。
転ぶから走るな、ではクラウスは成長出来ない。
「クラウスはあしるのすごいのよ」
クラウスを地面に下ろすと、クラウスは一目散に走り始めた。鹿に向かって。
「クラウス! ママのところまで競争だ!」
「ずゆい!」
クラウスの走り出した方向とエトワールのいる場所は正反対。クラウスは怒りながら戻ってきた。
真剣に怒っている表情に思わず笑みが溢れる。
クラウスは小石か何かにつんのめって転んだ。恐ろしかったが、膝と手足をついたので、頭は無事。慌てて駆け寄る。
クラウスを抱き起こし、手足を確認。足はズボンが汚れただけ。その下が擦り傷になっているかは不明。
掌には土と小さな擦り傷。土をそっと払う。
「うえええええ!」
「痛かったなクラウス」
「クラヴウわあいたくないのお!」
ベソベソ泣きながら、クラウスは走り出した。
「くあううはまけないもん!」
えええ、と息子の負けず嫌いな一面を始めて見て放心してしまった。怪我の痛みや転んだショックよりも、俺に勝ちたいらしい。
「あー! うさい!」
泣きべそかいて走っていたクラウスは、急に野兎を追いかけ始めた。
「ま、待てクラウス。ママ達のところへ行って怪我の手当てを……」
方向転換したクラウスの後を追いかける。するとクラウスは行き先を変えて、エトワールに向かって駆け出した。
「ママー! クラウスいたいのちたの!」
両手を振るクラウスは、そのまましゃがんで息子を待っているエトワールの胸に飛び込んだ。
歩いて丘を登り、エトワールとクラウスの元へ近寄る。
「あのねー、パパにかった」
そう言うとクラウスはニッと歯を見せて、自慢げに俺を見上げた。
その表情はエトワールの勝ち気な笑顔にそっくり。
「ふふっ。クラウスの足は速いのね。フィラント様そっくり。凄いわ」
「そなの。クラウスはパパとにてゆの」
そう言うとクラウスは満足そうに微笑んだ。
俺は負けず嫌いではないけどな、と言おうとして口をつぐむ。
「クラウスは俺の息子だからな。どれ、怪我の手当てをしよう」
「クラウス、怪我をすると痛いわよね? だから誰かをわざと怪我させたらいけませんよ。それから転んだ人がいたらフィラント様がクラウスにしてくれたようにしましょうね」
エトワールの言葉にうんうん、と頷くクラウスに「素直で良い子に育っているな」と改めて感激。エトワールが日々そのように教育してくれているからだろう。
「エトワール、ありがとう」
「急にどうしました?」
エトワールはキョトンと目を丸めた。
「俺はその、普通の子育てとか、よく分からないので助かると思って」
「まあフィラント様。ふふっ、普通の子育てって何です? 私もフィラント様と同じて手探りですよ」
エトワールはクラウスを抱き上げて俺の隣に並ぶと、目を閉じて柔らかく微笑んだ。
風が吹く。
ふわりと香るアストライアジャスミンの香水の匂い。俺は大きく息を吸って、ゆっくりと息を吐いた。
来月また西の地へ外交に行くが、2人も連れて行こう。
「甥っ子が今日も元気で何より。なあフィラント、姪はいつ出来る予定?」
仰向けに寝そべって本を読んでいたユースが、ふああと生欠伸をした。
「おいさま。めーはなに?」
怪我の手当てが始まっていないのに、クラウスが俺やエトワールの手をすり抜けて、ユースの側に駆け寄り、しゃがんだ。
ユースが「よっと」と起き上がる。
「聞くより調べてみなさい。読書は大事だ。君の父、フィラントもうんと読書をした。君の母、エトワールは知らないけど」
そう言うと、ユースはクラウスに自分が読んでいた本を差し出した。本のタイトルは「愛と欲望の日々」である。
「そんなもの渡すなユース!」
「どうせ読めないのだから、渡すくらい良いだろ。読んでと言われたらきちんと童話を話す」
「クラウスよめうも!」
ユースから本を取り上げると、クラウスが右足にしがみついてきた。本を渡せというように、両手が宙を彷徨う。
「クラウス。それなら今夜、私にその本を読んでくれ。おじさまは、読めないところがあって困っているんだ」
いやあ、と照れ笑いするとユースはクラウスの髪をわしわしと撫でた。
その後、俺に向かってウインク。その次はエトワールに向かって歯を見せて笑った。
ユースはクラウスを抱き上げて、俺の手から本を奪った。
「冷えてきたから帰ろう。クラウス、読書の前に風呂に入ろう。背中を上手く洗えなくて困っている。助けてくれるかい?」
「クラウスはスコールくんもあやえゆよ」
「そうかそうか」
あはは、と笑いながらユースが遠ざかっていく。
隣に移動してきたエトワールをチラリと確認。ユースのお節介のおかげで、久々に2人きりの夜。クラウスは俺かエトワールにしがみついて寝るので、本当に久しぶりだ。
エトワールが頬を染めて、はにかみ笑いをしている。可愛い。彼女に似た娘が産まれたら、今より更に幸せだな、と俺はそっと目を瞑った。
目を閉じる前に見えた、ほんのり茜色に変化しつつある空を、かつては血染めだと感じたこともある。
今はただ、美しい夕焼けだとしか思えなかった。
親子が書きたかったのと、フィラントはだいぶ癒されました、というお話。
ユースが主役のお話、「逃げる女好き王子と巻き込まれた男爵令嬢」(ダブル主人公)の少し前あたりのエピソード。




