啓示
白い煉瓦の壁。それが詰み上げられた四角い、家、というもの。地面にも同じ煉瓦が敷き詰められていて、その上に布を敷いて、果物やら、肉やら、野菜やら、獣の皮やらが並んでいた。二本の柱で支えられた天幕のあるそれが、露店、というのだと、カイ兄に教えられる。それから、目が回るくらい沢山の人間が、白くて丸い石のようなものと、その果物とかを交換していた。今まで聞いたことが無いような沢山の音が聞こえて来て、眩暈がする。見上げると、三角に切り揃えられた色とりどりの布が、家の四角い穴から垂れ下がっていた。カイ兄を見ると、人間は皆一様に顔を明るくして、千切ったバラの花びらを振りかけてくる。
……まるで訳が分からない。騒がしくて、目まぐるしくて、吐きそうだ。とてもじゃないが、情報が多くて処理しきれない。
「フードを被って、情報量を減らすといい」
俺の様子を見て、カイ兄がそう言った。それに従って、俺はフードを目深に被る。音が少し遠くなって、見える物も少なくなった。それだけで、随分と楽になる。
「今日は暁の祭りだからね。皆浮かれているんだろう」
「あかつきの……?」
「そう。日が暮れたら広場に集まって、豪華な食事をして、今年の収穫を神に祈って、それから、私の話を聞くんだよ。一晩中ね」
カイ兄が、細い目を少しだけ開く。そのとき、目は秋の小麦の色を映していた。
「君もゆっくり聞くといい。私が人の為に語るのは、一年でこの日だけだよ」
「……ん?」
いつも、頼んでもいないのにぺらぺら話すだろうに。
カイ兄は露店から何かを買って、その片方を俺に寄越した。細長い木の串に、茶色で香ばしい香りのするものが刺さっている。カイ兄を見上げてそれを口に突っ込むと、じゅわわわ、と口の中でそれが鳴った。
「わああっ!?」
思わず口から出して、歯型がついたそれをじろじろと見る。そんな俺を見下ろして、カイ兄が笑った。
「肉を揚げたものだよ。美味しいから、食べてみるといい」
「……んむ」
もう一度口に入れる。じゅわじゅわ言っているのは油で、茶色のとげとげとしたものはパンを乾燥させた衣だと教えられる。
しばらく道を進んでいくと、円形に壁で囲まれた場所に行き着いた。真ん中には作られた泉があって、壁沿いにまたぐるりと露店がある。壁には蔦が這っていた。同じような道があちこちから伸びて来ているのか、壁にはアーチ形の穴がいくつかある。壁の一部はまるっきりなくて、そこから大きな建物へと道が伸びていた。
「アベル、あれが王宮だ。この世界で一番偉い人間が座っている」
「……えらい?」
えらい……偉い……ああ、物語に出てくるような、ああいう人間か。
「さて、夜まで好きにするかい? 人の街は初めてだろう」
カイ兄は作られた泉の縁に座る。うっすらと開いた瞳は、今度は煉瓦と同じ茶色だった。
「……ん」
俺はカイ兄の隣に座る。フードをもう一度目深に被ると、カイ兄にもたれかかった。流れ込んできた情報が多すぎて、少し眠い。
「語り部様、お弟子さん?」
小さな人間が俺の隣に座る。目がやたら大きくて、頭の高さは俺の腰くらいか。……ああ、これが子どもというものか。
「まあ、そんなものだよ」
カイ兄が応える。俺は、カイ兄の弟子だったのか。だとすると、やっぱり俺は語り部になるんだろうか。カイ兄が語る話は覚えているが、カイ兄のようには話せない気がする。
うとうととしているうちに、周りに人が集まってきていた。カイ兄と俺の前には地面に綺麗な布が敷かれて、そこに料理が並べられる。カイ兄に揺り起こされたのは日が沈んでしばらくしてからだった。フードを目深に被り、杖を抱えてカイ兄は口元を笑わせる。
「それでは、暁の祭りを始めようか」
遠くで誰かが宣言をして、周りの人間達が歓声をあげた。だがカイ兄が杖で地面を突くと、しんとあたりが静まり返る。カイ兄の魔法じゃない。その場にいる全員が、カイ兄の声を聞く為に口を閉じたんだ。
「――――今から千と五百四十二年前、剣一本で国を造った王の話をしよう」
カイ兄が口を開く。カイ兄が持っている杖、その上の方に浮いている青い球が光った。カイ兄の静かな声が、周囲に響く。カイ兄の語り方は、いつもより心なしか固かった。
かがり火が揺れて、あたりを照らす。多分ここは、広場、という場所だろう。何かを食べていたり、飲んでいたりする人間もいるが、誰も話はしていなかった。カイ兄の言葉だけを聞いて、その中身を――多分――楽しんでいる。
「小さな恋の話をしよう」
「愉快な英雄の話をしよう」
「敬虔だった少女の話をしよう」
「長い戦争の話をしよう」
時折ブドウの酒で喉と口を潤しながら、カイ兄はつらつらと物語を語る。いつの間にか眠気もなくなって、俺もその話に聞き入っていた。
糸のように細い目を、カイ兄が開く。穏やかに微笑む目は、炎の色をしていた。
「それじゃあ最後のお話だ」
東の空がうっすらと明るくなってきたころに、カイ兄がそう言った。小さい子供達から、不満の声が上がる。
「どんな物語も終わりは来るのだよ。最後は、神様と取引をした男の話だ」
カイ兄は杖を反対の手に持ちかえた。
「その男は、一人の弟と、二人の親と、三匹の山羊と一緒に暮らしていた。秋の小麦のような黄金色の髪、瞳は空の蒼だった。名はカインという」
カイ兄を見上げると、カイ兄は相変わらずの笑顔だった。他の人間達も様子は変わっていない。……そうか、他の人間はカイ兄の名前を知らないのか。
平凡な話だった。カイ兄が語る『平凡な男』の話よりも、ずっと。親子と家畜でのんびり暮らしていて、戦争もなければ大きな恋の話もない。ただ本当につらつらと、一人の男の半生を語っているだけだった。なのに、どうしてか、じっと聞いてしまう。これが語り方の上手さだろうか。
両親の喧嘩を仲裁したこと。泣き虫な弟を毎日あやしていたこと。山羊を追っているうちに道に迷ってしまって、一晩山羊と共に彷徨ったこと。口が達者になった弟とよく喧嘩をしたこと。つい先ほどまで、手に汗握るような英雄譚を聞いていた人間達が、緩んだ表情になっていた。
「カインは二十五歳で、小さくて、大きくて、取り返しのつかない間違いを犯した。それまで、人は人を殺す、という行為を知らなかった。死はいずれ神によって与えられるものだった。人は動物や植物を殺すことは知っていても、同じ、隣を歩く人を殺す、そんな発想そのものがなかった」
ふと、カイ兄の声が低くなる。
「カインは、弟のアベルを殺した。それが、人間が世界に誕生して初めて、殺人、という行為を覚えた瞬間だった」
俺の背筋を、悪寒が走った。腕に鳥肌が立って、身震いする。寒いわけではなくて、寧ろ夏で、かがり火が多い広場は蒸し暑いくらいだ。
カイ兄はもう一度、ブドウの酒で口を潤した。
「カインは、両親の元を去った。神は彼に一つの役割と、杖、外套を与えた。どんな魔法でも使える杖と、一年中快適に過ごすことができる外套だ。そして代わりに、彼から寿命を取り上げた。彼は世界の終わりまで生き続け、自分が生み出した殺人という罪、それが全ての人間に知られ、広まっていく様を見続けるように、生きる道を作られた」
カイ兄を見上げると、カイ兄は目を少しだけ開いた。あれは――――あの色は、血の色だ。
「彼は世界の語り部としての仕事を与えられた。彼が語らなければ物語は進まない。彼が語り終えたら物語はおしまい。年に一度の暁の祭りで過去の歴史を語る彼は、人の始まりから終わりまでを見届ける運命にある」
これがカイ兄の物語だと気付いたんだろう、数人がざわめき始めた。カイ兄はすっと立ちあがって、杖で軽く地面を突く。
「さあ、これでお話はおしまい」
東の空を見遣ると、太陽が見えるか見えないか程度だった。カイ兄は俺に手を差し出して、やっぱり笑っている。
「……語り部殿、」
目の前に座っていた男が、皺だらけの顔を持ち上げた。
「お話はおしまいだ。私がこの国でもう語ることはない」
カイ兄は、立ちあがった俺の肩を掴み、自分に引きよせる。
「わっ!?」
「さあアベル、目を閉じて」
俺の視界には、東の空が広がっている。夜明けだ。――――だが、いつものような、穏やかな夜明けではなかった。
黄金色の朝日は昇ってきていなかった。東のそらは橙色より来い、唐紅に近い色をしていた。それが、どんどん広がって、
こっち
に
来
「この世界で一番安全な場所は?」
いつも通りのカイ兄の言葉に、俺の意識は引き戻される。脳裏に浮かんだのは、俺が生まれた場所、あの小さな島の木の根元だった。
「正解」
カイ兄が、俺を両腕で抱え込む。ぐんと体が持ちあがって、足が地面から離れるのが分かった。
「語り部様!」
誰かが、そう必死に叫ぶ。だが、伸ばした手はカイ兄の足に届かなかった。先刻までの沈黙が嘘のように騒がしくなって、巣に熱湯を流し込まれた虫のように、人間達は街の中を走り回っている。その理由が理解できなくて、俺はただ困惑していた。
「東の空が赤く染まるのは、世界の終わりの始まりなんだよ」
カイ兄が、俺の耳元でその答えを言う。
「ずぅっと昔からの教えでね。誰もがそれを信じている。そして、それは残念ながら事実なんだ。ほら、東からもう太陽は登らない。代わりに、世界の終わりがやって来た」
東、どころか、見上げた空はもう半分ほど赤く染まっていた。
「……ど、どうし、て」
――――怖い。それは、世界の終わりに対しての恐怖じゃない。誰もが逃げまどっていて、きっと、逃れられない死がある。世界が丸ごと死ぬんだ。カイ兄だって、絶対に無事じゃない。
「言っただろう? 私が語らなければ物語は進まない。私が語り終えたら物語はおしまい。だって、私はこの世界の、そして人という種の物語の語り部だから」
違う。そんなことを聞いているんじゃない。
「大丈夫、大丈夫。アベル、君は生きるんだよ」
カイ兄の手が俺の目を覆って、次の瞬間には、俺の足は地面に着いていた。そこは俺が生まれた場所で、カイ兄が俺を拾った場所だ。
「新たなヒトは恐怖と死を知る。……世界の終わりが怖いなんて、当たり前のことだよ」
振り返ったカイ兄は、真っ赤な空を背負って、やっぱり笑っていた。それが、俺はたまらなく怖い。耳に張り付いている人間達の悲鳴が、助けを求める声が、この人には聞こえていなかったんだろうか。
「アベルトゥス、君は死なないよ。アベルという人間を殺すのは、その兄である私だけ。そして、私は君を殺さない。だから君は死なない」
……意味が分からない。
「十二ヶ月を一年と換算すると、私は二千年、雨の雫から生まれた彼らの為に語った。その前は千七百年、川の石から生まれた人々の為に語った。その前は千五百年、日の光から生まれた人々の為に語った。次は二千五百年ほど、君達の為に語ろう」
やっぱり分からない……いや、分かりたくない。そんなことが、あってたまるかと思う。
「もう分かるだろう? 世界は、私の語りを基準に作り直されているんだよ。神様の気まぐれで、何度も、何度もね。それを全て見届けて、新しいヒトの基盤……君のような存在を育てるのが、私の役割だ」
カイ兄は地面に座って、フードを被った。
「当然、一つの物語が長く続けばそれだけ語る話が増える。それで物語の寿命は伸びる。だけれど、いずれ絶対に終わりが訪れる。……そうして何度も何度も作り直されながら、ヒトは進化してきているんだよ」
カイ兄の言葉を、今だけは信じたくなかった。
「だから、大丈夫。君と私だけは、世界の終わりが来ても死なない。これは世界の終わりだけど、次の世界の始まりでもあるからね」
カイ兄はフードの端を持ち上げて、目を少しだけ開く。今度は、その瞳は空の蒼だった。
「怖いだろうね。当然だ。気を紛らわす為に、話をしてあげよう。三つ前の物語にいた、凛々しい女の王の話だよ」
カイ兄が、いつも通りに英雄譚を語り出す。その後ろでは、浮いていた島々が崩れて落ちて、空は真っ赤で、鳥すらも逃げ場を失って、沢山の動物や植物が、死んで、いる、のに。
「彼女は美しい少女だった。しかし、妖精と呼ばれる魔力の結晶の加護を得て、聖剣を取った。己の国を正すため、まず彼女は自らの美しい髪を切り落とした――――」
カイ兄の声だけが、朗々と響く。と――――何の前触れもなく、俺の視界は真っ黒に染まった。今まで見えていたものが、ぷつんと見えなくなる。
「うわああああっ!?」
「……あー……」
カイ兄の語りが淀む。俺は手を伸ばしてカイ兄を探した。すぐに、俺の手をカイ兄が掴む。
「大丈夫。世界から光がなくなっただけだから」
なにをいっているんだろうか。
「さあ話の続きだ。彼女は男のように髪を短く切り揃え、騎士の鎧を身に纏った――――」
カイ兄の話を、ここまで聞きたくないと思ったのは初めてだ。
何も見えない。
何も、カイ兄の声しか、聞こえない。
怖い。
世界が終わるなんて、そんなこと理解できない。ただ、沢山のものが、人が、死んでいく。それだけは分かる。自分のことじゃない。自分は安全だと言われている。なのに、怖くて怖くてたまらない。
何より――――その、『世界を終わらせる側』の語り部に、俺は今、ひっついている。そのことを意識するだけで、頭がどうにかなりそうだった。




