黎明
光がなくなった世界は、昼も夜もない。カイ兄の腕の中で、俺は目も耳も塞いで震えていた。
カイ兄がいくつか話を語り終えたところで、「夜だから寝よう」と言った。正直、気が気じゃない。何も見えなくても、聞こえなくても、恐怖が消える訳じゃない。
世界から光がなくなって一日目は、そうやってただ震えて過ごしていた。
カイ兄が何も話さなくなった。
地面が崩れる音だけが響いていた。俺が耐えきれなくなって叫ぶたびに、カイ兄は黙って俺の頭を撫でた。
そうして二日目が終わった。
今日も一日、カイ兄の腕の中にいた。カイ兄は今日も何も話さない。俺も、今日は何も言わなかった。植物や動物の悲鳴はもう聞こえない。
そうして三日目が終わった。
四日目。
遂に何も聞こえなくなった。カイ兄の息遣いと、心臓の音だけは感じられた。多分、世界から音が無くなったんだろう。そういえば腹が減らない。カイ兄は何も話さない。違う、音が無いのだから、話すわけがない。
手の感触は未だあるので、そこにカイ兄がいることは分かる。
だが、
だけど、
……ああ、そろそろ、俺は、
多分、今日俺は叫んだ。喉が痛い。音が無い世界でも叫ぶことはできるらしい。カイ兄は何も言わない。息遣いがようやく感じられるだけだ。
こわい、は、もうない。いや、分からない。こわいのかも知れない。もしかしたら世界にはもう怖いという感情そのものが存在しないのかも知れない。
もしかしたら悪い夢なのではと思う。目を閉じても開いても何も見えない。光がない世界では何かを見るなどという行為はそもそも不可能だ。意味を持たない。
そもそも俺という人間がここに存在している証明すらないのだ。例えばカイ兄の、語り部を名乗るあの男の息遣い。それは耳にかかっている。だがそれが幻でないとなぜ言えるのであろうか? 俺は、そもそも、俺という人間は、木の根から生じた。それは通常ならばありえないことで、あの時から既に一年後の今が決まっていたのだとして、そうすれば語り部が言っていた全てのことが腑に落ちる。ああ、確かに語りの終わりは世界の終わりと言っていた。そして俺のことを神の嬰児と言った。決まっていたのだ。人が命を消費して生きるように、世界は語り部の物語を、過去を消費する。そうして繰り返される、世界という大きな生命の代謝。それがこの崩壊で、その中で生き残っている我々は世界の生命線である。神というのは余程ヒトが好きらしい。俺がわたしとして自己を確立した瞬間に世界は終わりに向かっていたのだ。旧いヒトを世界ごと滅ぼし俺と語り部だけが新しい世界の基盤になる。の、だから、恐怖も抵抗も思考も須らく無意味。
時間の概念に意味があれば五日目の今日が終わった。
……。
六日目。
俺の意識は埋没する。
光はない。
音はない。
語り部は動かない。
石の椅子に腰かけた気分だ。或いはこれは、新たなヒトの祖の玉座か。何度も何処かへと溶けていきそうになった俺を、この椅子が繋ぎ止める。
「……アベルトゥス」
六日目も終わるだろうというころ。
そんな声が聞こえた。
……音が、できた。
語り部の声が俺の名前を呼んで、七日目が始まった。光のない世界で、俺の耳元に語りかける声だけが、妙に大きく聞こえる。
「そろそろ腹が空いただろう」
そう言われて腹が鳴る。俺の肉体はまだ生命活動を停止していないのだと主張する。口元に何かが触れた。口を開く。中にそれがねじ込まれる。齧る。
「痛い!」
語り部の、カイ兄の声が聞こえた。口から指を引き抜かれる。口に入ってきた四角いものを噛み砕く。……何か果物だろうか。味はしない。
「やれやれ。それでは……神による、七日七晩の天地創造の話をしよう」
聞き覚えのある話が始まった。中身もやはり同じで、この七日七晩が、今俺が過ごしている七日七晩と重なる。
「アベルトゥス、少し眠るといい」
途端に瞼が重くなって、俺は久し振りに、眠いと感じた。
「ここでお伽噺を話しているから、ゆっくり眠るといい」
俺の意識は、あっという間に眠気に引き摺られて行く。
そうして、多分、七日目が終わった。
「おはよう、アベル」
耳元でカイ兄が囁く。俺は瞬きをして、相変わらず暗い世界を見上げた。
「さあ、恐怖の時間は終わりだ。目を開くといい」
カイ兄に軽く背中を押されて、俺は前のめりになる。思わず出した両手が、地面を掴んだ。草の感触と、土の匂いがする。当たり前のようにある感触が信じられなくて、俺はぎゅっと目を瞑った。カイ兄に背中をさすられて、震える息を長く吐く。
意を決して、目を開いた。顔をあげた。その先に広がるのは、未だ暗い世界だ。だが、東の空、そこには横に真っ直ぐの橙の線が見える。
「世界に光が生まれたんだよ」
カイ兄が言って――――橙の線が、水ににじむように揺れた。そこからじわじわと暗闇が引いていって、墨を洗い流すように、世界に色が着いていく。
「……新しい物語の黎明だよ」
カイ兄が杖で地面を突く。ぱきん、と音がして、ようやく俺は、今の今までカイ兄の加護が俺を護っていたことに気付いた。
まず、風が俺の首元をすり抜けていった。それは、水と、何かが腐ったような匂いがする。掴んでいたはずの草が煙のようになくなって、代わりに砂、いや、俺が知っている砂よりずっと柔らかくて、小さくてさらさらしたものを握る感触がする。
……目の前に広がっていたのは、青い泉だった。島は浮かんでいない。
「ああ、新しい世界には海があるんだね」
「うみ……?」
ああ、いつかカイ兄が言っていた気がする。だが、空の蒼とは似ても似つかない、深く吸い込まれそうな青だった。
俺は立ちあがる。生まれて初めて見たのは、空の蒼と、その中に浮かぶ茶色と緑の島だった。今見えるのは、白い砂と、青い海。そのずっと先では海が切れて空と交わっていた。空には相変わらず、平和そうに呑気に雲が浮いている。
「あの海の終わりは水平線という。以前は無かったね」
「……スイヘイセン」
音として俺は理解する。
「さて。私の仕事はここまでだ。アベルトゥス、この世界『初めての』人間。この世界全てが、君の今後を育てるだろう」
「……はっ?」
「では、一年後の暁の祭りまでさようなら、アベル」
カイ兄がひらりと身を翻す。……いや、待て。
「カイ兄!」
俺は、歩き出したカイ兄に駆け寄る。隣に立って見上げると、カイ兄は相変わらずの笑顔だった。
「この、訳が分からない場所に俺を置いて行くのか?」
「ああそうだとも。世界は常に不可思議で満ちている。一年かけて君が詰み上げた世界の知識は全て灰燼に帰した。文字通りね」
カイ兄が少し目を開いて、そこに海の青が映る。
「だけれど、それは全て滅びた前の世界。この世界は今ここから始まるのだよ、人間君」
「……語り部」
思わずそっちで呼ぶ。カイ兄は満足そうに笑った。
「そう、そう。これからはそちらで呼んでもらえるとありがたいね。君は私の弟から卒業するんだ」
「そつぎょう……って」
「さようならだよ」
――――理解できてしまうのが、憎い。
カイ兄の語りを基盤にして、この世界は滅び、ヒトは滅びる。そして新しい世界が作られる。その世界で生きるヒトが、俺だ。繰り返される、世界の終わりと始まり。俺は新たな人間の基盤として育てられ、これからは語り部とは別々に生きる。あの街の人々のように。
「嫌だ」
俺ははっきりと言った。
「……どうして? 君は聡いだろう」
「嫌だ!」
俺はカイ兄の服を掴む。
「いい加減分かってるよ、世界の……その……」
「代謝?」
「そうそれ! それくらい! でも……その、嫌だ」
「……うーん」
珍しく、本当に珍しく、カイ兄が困っていた。
「そうか、賢すぎるのも困りものだなあ。たった一年のお別れだよ?」
「……次に会う時は、俺とカイ兄じゃなくて、人間と語り部になるんだろう。そういうのは、嫌だ」
この感情を何と言ったらいいか、まだ知らない。でも、カイ兄と離れるのは嫌だ。
「……ううーん」
カイ兄は困った顔のまま笑って、杖を軽く持ち上げた。それから、地面を軽く突いて、そこから風が吹き上がって、
「――――」
俺は地面に倒れていた。
俺よりいくらか幼い少女の手を引いて、俺は海岸を歩く。目指すのは、カイ兄の足跡がずっと続いている先だ。
少女は、起きた時に傍にいた。俺と同じように木の根から生まれたのかは知らないが、まだ話すということを知らないようだ。
「………………」
足跡が途切れた場所に、俺の外套が置いてあった。俺はそれを拾って、素っ裸だった少女に着せてやる。
「……名前を言ってなかったな。俺はアベル。アベルトゥスだ」
少女に視線を合わせて俺が屈むと、少女は大きな目を瞬かせた。
「……あんたの名前は俺が考えるよ」
カイ兄のように。
「そろそろ日が沈む。火をたいて、今夜の寝床を作ろう。腹も減っただろう?」
俺がそう言うと、少女の腹が鳴った。俺みたいだと、笑えてくる。
……笑う?
ああ……そうか。これが笑うってことだったのか。
「はは……」
自然と顔が緩んで、肩から力が抜けて、胸元がほわほわとする。少女は大きな目で俺を見上げて、小さい手を俺の顔に当てた。そして、もう片方の手で自分の口を笑わせて見せる。
多分、俺も今、こんな顔をしているんだろう。
それから、笑ったまま顔が戻らなくなったらしい少女の顔をこねくり回して元に戻して、裸足だからと抱っこして歩いて、ようやく落ち着けそうなところを見つけた。カイ兄に教わったやり方でその日の寝床を作って、火を熾す。少女は火が珍しいのか、隣に座ってずっと見ていた。
これからどうしようか。何も考えていないし、しばらくは生きるだけで、考える暇もなさそうだ。
新しい世界には、浮かない地面があった。海があった。動かない星があった。風もないのに揺れる大地があった。どこまでも続く川があった。地面をとひはねないウサギがいた。双頭の蛇がいた。毒の樹液を出す木があった。
本当に丸ごと作り替えられた世界は、別物だった。変わっていないのは、太陽の動きくらいだろうか。
日が廻って、また夏至の日がやってきた。
火を焚いて、この日の為に蓄えていた干し肉と酒の壺を広場に持ってくる。既に子供達は、教えた通りに大きな葉を地面に敷いて座っていた。広場の中心にある倒木には布が敷かれていた。
そして、一年振りに、あの語り部がやってくる。
「初めまして、アベルの子達。私は世界の語り部。この世界が君達を祝福していることの証明をしに来たよ」
変わらない笑顔で、変わらない口調で、世界が丸ごと変わる前と同じ調子で、語り部は現れた。
俺は、警戒するように俺の後ろに隠れた妻の頭を撫でて、きっと顔を上げる。
「ようこそ、語り部殿」
そんな俺の様子を見て、カイ兄は目を細めた。ああ、知っている。これは本当に笑っている顔だ。
「ああ、祭り開始の宣言を頼むよ、首長殿」
……意趣返しのつもりだろうか。
カイ兄の前に果物と酒を置いて、俺は少し離れた向かいに座る。
「では、暁の祭りを始めよう」
俺の宣言に頷いて、カイ兄は口を開いた。
東の空が白んでくる。いつもは眠たい目を擦って起きてくる子供達は、一晩中起きていてもまだ眠くなさそうだった。
「……これで最後の話にしようか」
「語り部殿」
口を開いたカイ兄の言葉を、俺が遮る。一晩中話していた男が黙って、一晩中黙っていた俺が話し出す。
「最後の一つは、俺が話してもいいだろうか」
「……まあ、構わないけれど?」
流石に驚いたのか、カイ兄の口調が崩れる。俺は「では」と言って、カイ兄が差し出した杖を取る。
……緊張してきた。だが、決意したんだ。前の世界の暁の祭りをただ引き継ぐんじゃない。俺が、新しい話を一つ上書きしてやるって。
一年間、必死に生きてきた。カイ兄に教えられた全てを使って、少しずつ増えてきた人間達をまとめて、何とかここまでやってきた。勿論簡単じゃなかったし、全部投げ捨てたいと思うこともあった。
だが、だからこそ、この物語が、俺は愛おしい。出来るかぎり長く続いて欲しいと思う。
そしてそれ以上に、全ての基盤となったこの語り部のことを、カインという人間のことを、覚えておいて欲しいと思う。
だから、俺は俺の話を用意した。……カイ兄が喜ぶかは知らない。これは俺の自己満足だ。ささやかで、それこそ何の意味もないかも知れない、神とやらへの反抗だ。
顔を上げると、カイ兄が俺を見ていた。細い目は今は空の蒼、弟を見る兄の目だ。
俺は、一年間練習してきた話を舌に乗せた。
「世界の終わりを見た男の話をしよう」
(了)
途中で五、六回投げそうになりましたが、何とかここまでたどり着けました。




