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覚醒

 カイ兄は、よく俺の口元に手を当ててこねくり回した。

「アベルトゥス、君には笑顔が足りないよ。ほらにっこり。口角を上げて目を細めて笑ってごらん。幸福になる魔法だよ」

 幸福。……幸福とは何なのだろう。以前そう聞いたら、

「それじゃあ、幸福を追い求めた一人の男の話をしよう」

 そう言って、顔も知らない誰かの話を聞かされた。カイ兄は、絶対に簡単に答えを教えてくれない。

 幸福。幸福……笑うのが幸福なら、カイ兄がいつ笑うかを見ていればいいだろうか。……だめだ、いつでも笑っている。

「何かを可哀想と思う気持ちが育ってきたのなら、楽しいとか嬉しいとか、そういうのも育って欲しいのだけれどね」

「俺にはカイ兄しか手本がいない」

「私は非人間だよ。参考にはして欲しくないね。出来るなら、私の語る物語の人々を参考にして欲しいものだ」

「……作り話じゃないか」

「そう思うかい?」

 だって、俺は木の根から生まれた人間で、カイ兄が話す人間は皆、人間のオンナというものから生まれている。俺は俺とカイ兄以外の人間を見たことがないし、会ったこともない。

「月日は教えたね」

「ああ……月が丸くなって、欠けて、また丸くなるまでが一月。それが、指の節の数で十二、それで一年……だっけ」

「そうだね。では今日で君が生まれてどれくらいかな?」

「ええと……」

 俺は、丸くなった月を見た数を数える。

「十一」

「そう、十一ヶ月だね」

「それが?」

「あとひと月で一年。君は晴れて一歳になるわけだ」

 だから、それが何だと言うんだろうか。

「君に、世界で一番大きな誕生日プレゼントをあげよう。その為に、今日からは放浪じゃなくて、目的地を目指して歩く旅になるよ」

 カイ兄は休憩を止めにして立ちあがった。



 少し下に浮いている島に飛び移って、靴と服を新調して、食料を集めた。それからその大きな島を横断して、カイ兄の力で空を飛んで、少し上の島に戻る。その島は小さかったので、横断に一日とかからなかった。丁度夏だったからか、どの島も緑が濃くて、虫やら動物やらが元気だった。

「今日は少し遠くまで飛ぶよ」

 カイ兄に抱えられて、俺は空に浮かぶ。夕焼けが背後から足元に落ちて、中空の島々が頭上になった。

「……きれいだ」

 燃えるような、いや、実際燃えている太陽。橙色のその燈に照らされるのは濃い緑の島々で、東からは夜がやってくる。島々の遥か下は白い霧に包まれ、大小の浮島は風にゆっくりと流れている。せっかちな一番星が、それを見下ろしていた。

 嗚呼、そうだ。誕生のあの日、初めて見た世界、その色彩。それを、俺は確かに『綺麗』だと思っていたんだ。

「――――っ」

 喉の奥から、何かが湧き上がってくる。理由もその正体も分からない。ただ、抑えきれない何か。鼻の奥が痛くなって、目が熱くなって、世界が歪む。

「はーい、着地するよ」

 足がもう一度地面に着いた時、膝に力が入らなくて俺はへたり込んだ。カイ兄は何も言わないで、俺の頭を撫でる。

「……カイ兄」

 見上げたカイ兄の顔も、世界と同じくらいに歪んでいた。それが、自分の目に浮かんでいる涙のせいだと気付くのに少しかかった。

「泣いているんだね。悲しいのかい?」

「……違う」

 俺はカイ兄を見上げて、はっきりと言った。

「嬉しいんだ」

「……素晴らしい」

 カイ兄の言葉の理由は分からないが、多分、褒められたんだろう。

 それから夜が来たら寝て、朝が来たら歩いたり飛んだりを繰り返して、もうすぐひと月という時、俺は、生まれて初めて、自分とカイ兄以外の人間を見た。

 特に大きな島の中、草原をずっと進んでいくと、白いものが視界を遮っていた。よく見ると小さな四角い石が積み重なって作られていて、カイ兄に、石は煉瓦、あの高いのは壁で、人が生活する街なのだと言われた。……街って何だろうか。

「さ、今日は夏至。一年に一度きりのお祭りだ。君も一緒に参加しよう。私はこのお祭りのメインゲストだからね」

「……?」

 いきなり、分からない言葉だらけで話すのをやめて欲しい。

 夏至は知っている。一年で一番夜が短い日だ。お祭りは知らない。めいんげすととやらも分からない。

「とんでもない情報量だから、倒れないといいけれど」

 カイ兄が、やけに楽しそうに笑っていた。

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