第3話 言葉でできた世界
前回:「第2話 依頼板の門」
◆滞在一日目。
精霊界は、言葉でできていた。
比喩ではない。足元の道は敷き詰められた古い文字で、遠くの山並みは重なり合った大文字の稜線で、空を流れる雲は、ほどけた文章の切れ端だった。風が吹くと、どこかの誰かの「おはよう」や「またね」が、鈴の音みたいに耳元を通り過ぎていく。踏んでいる文字は、古すぎて読めない。読めないのに、踏み心地が、優しい。古い挨拶の言葉は、道になっても、優しいままらしい。
空の色は、時刻ではなく「その日書かれた言葉の色」で決まるらしい。この日は淡い藍で、案内の精霊いわく「どこかで大きな約束が、静かに交わされた日の色」だそうだ。天気予報ならぬ、言葉予報のある世界である。
「うわあ……うわあ! ねえ見て、川が! 川が真っ黒――じゃない、あれ全部インク!?」
丘の下を、漆黒の大河が悠々と流れていた。インクの川。世界中で書かれた誓いの言葉が、巡り巡ってここに流れ着くのだという。川岸には半透明の精霊たちが集まって、思い思いに川の水を味わっていた。ベッシが誇らしげに胸(?)を張る。あの川のほとりが、こいつの故郷らしい。よく見れば、川の流れには濃淡があった。太く濃い流れと、薄く細い流れ。案内の精霊いわく、濃いのが「守られている誓い」、薄いのが「忘れられかけの約束」だそうだ。近年、川全体が、少しずつ薄くなっている――その一言は、聞き流せなかった。閉門派の主張の、これが水源か。
入界の第一歩の感触を、記録しておく。痛みも、眩暈もない。ただ、耳の奥で、自分の名前が一度、誰かに丁寧に呼ばれた気がした。ベッシいわく(例の光る紙で)、あれは「世界による記帳」だそうだ。入界者の名は、この世界の台帳に、一度、書き込まれる。世界そのものが窓口業務をやっている。俺は早くも、この世界と気が合いそうだった。
道中、俺たちは早速、この世界の物理法則を学んだ。
まず、看板が喋る。それも一人称で。「わたしは『大書庫まで三里』です。三里です。がんばって」。道標に励まされたのは、人生で初めてだった。聞けば、この世界の書き言葉は、書かれた瞬間に小さな心を持つのだという。手紙も、看板も、帳簿も。俺は自分の書類鞄を、そっと撫でた。中の書類たちが、心なしか、居住まいを正した気がした。気のせいであってほしい。書類に緊張されると、仕事がやりにくい。レーヴェは律儀に「ありがと、頑張るね」と返し、看板は照れた(文字の端が、ほんのり赤くなった。看板も照れるのだ、この世界では)。
次に、比喩が具現化する。学んだのは、ミラベルの一言のせいである。
「ふふ……新世界! 新魔法の予感! やる気が、山ほど――」
ごごご、と足元が鳴った。道の脇の平原が、盛り上がり始めた。文字の地面が隆起して、山の形を、取り始めて――
「「「言うなァァァ!!」」」
レーヴェが隆起しかけた地面を物理で押さえ(押さえられるのか。押さえられた)、ミラベルが慌てて「やる気は、湯呑み一杯分です」と訂正すると、山は不承不承という感じで平原に戻った。以後、ミラベルの語彙は全員の監視下に置かれた。本人は「詩心が死ぬ」とぼやいたが、山が生えるよりましである。
夕刻、俺たちはインクの川のほとりの、ベッシの実家に到着した。
実家は、川岸の大きな文字(「安らぎ」という古語らしい)の窪みに営まれていて、中からベッシそっくりの半透明が、大小合わせて九つ、転がり出てきた。両親と、兄弟が七つ。ちびたちが一斉にベッシに飛びつき、もみくちゃの再会である。二年ぶりの帰省らしい。母親らしき大きめの一体が、うちの四人を検分して回り、最後に俺の書類鞄の前で立ち止まって、深々と一礼した。息子の就職先への挨拶、といった風情だった。こちらこそ、お世話になっております。
「ベッシの家族……名前、なんて言うんだ?」
母親らしき大きめの一体が、鈴を転がすような音の連なりを発した。人間の口では、再現不能だった。俺が思わず「じゃあ仮に、付録一号から七号で――」と言いかけたところで、母精霊にじっとりと睨まれた。すみません。名前を仮置きすると定着させる前科が、うちには二件ある。後日、音写表を作ることで手を打った。ちなみにちびたちはベッシの土産話(体の動きで語るのだ)に夢中で、特に「決闘を書類で止めた話」の場面で、七つ揃って跳ねた。あの逸話、精霊界でも受けるらしい。
宴の前に、俺たちは丘の上の「約束の森」を、案内してもらった。果たされた約束が、一つずつ木になって育つ森。婚礼の誓いは花の多い木に、商いの約束は実の多い木に、育つという。森の入り口近くに、若くて、けれど周囲より一回り力強い二本の木が、並んで立っていた。案内の精霊が、誇らしげに教えてくれた。「あちらは『和平宣誓書』の木。こちらは『講和条約(仮)』の木。近年の若木では、一番の育ちぶりです」。うちの仕事が、木になって、葉を茂らせていた。レーヴェは幹に手を当てて、しばらく黙っていた。森の奥には、枯れかけた木々の一角もあった。守られなくなった約束の末路である。誰も、何も言わなかった。言わずに、全員が同じことを考えていたと思う。この森を、これ以上、枯らさない仕事をしに来たのだと。
歓待の宴は、心づくしだった。精霊たちの主食はインクだが、人間用に「約束の木の実」が振る舞われた。約束の森の実で、人間が食べても害はなく、ほのかに、誰かの約束の味がするという。
レーヴェが一つ齧って、ぴたりと止まった。それから、ぼろぼろ泣き出した。
「ど、どうした!? 毒か!?」
「ちがう……これ……『いってきます』の味がする……毎朝の、いってきますの……っ、誰かが毎朝ちゃんと言って、ちゃんと帰ってきてる家の、味ぃ……」
「『いってきます』は、約束なの?」
「約束だよぉ……帰ってくるって約束だから、いってきますなんだよぉ……」
泣きながらの講義に、精霊たちが、うんうんと頷いていた。言葉の専門家たちの前で、うちの剣聖の言語学は、堂々の合格だった。
隣で、エルシーも一つ、口に運んだ。彼女は泣かなかった。ただ、今朝の門の前を思い出したのか、実を大事そうに、もう一つだけ、懐紙に包んで仕舞った。
俺の実は、古い紙の匂いと、朝の窓口の空気の味がした。誰の何の約束かは分からない。だが、悪くない約束だったことだけは、舌が保証した。ミラベルの実は「完唱の日の、荒野の風の味」だったそうだ。約束の味は、食べる者の一番深い場所に、勝手に合わせてくるらしい。
夜、川辺で、エルシーが母精霊と「筆談」をしていた。言葉は通じないが、書いた文字は、この世界では心の形ごと伝わるらしい。母精霊は、ベッシの子供時代のこと(兄弟で一番の食いしん坊で、一番の泣き虫だったそうだ。あの襞の震えは、由緒正しい癖だった)を伝え、エルシーは、人間界でのベッシの活躍――二つの契約の立会、告解の守り番、依頼板の主――を、丁寧な字で伝えた。読み終えた母精霊は、しばらく動かず、それから、娘(息子?)を呼んで、頭のあたりを、襞でそっと撫でた。親が子の職場の話を聞く顔は、種族が違っても、同じだった。
◆滞在二日目、朝。全員の名前の濃度、九割九分(ミラベル、丁寧に書けば真っ黒だった。やはり字だ)。
朝食の席に、空から一枚、豪奢な光の紙が舞い降りた。金の縁取り、祝いの言葉の透かし。
『歴史を背負う者たちへ。大書庫にて、お待ち申し上げる。 ――言祝』
次回「第4話 大精霊・言祝」は、10月21日(水)18時30分更新です。




