第2話 依頼板の門
前回:「第1話 受注と、精霊界式の契約書」
扉、というのは正確ではなかった。
依頼板の中央、依頼書の貼られていない一角に、光でできた両開きの門が、板の木目から生えるように出現していたのだ。高さ二メートル、装飾は流れる文字、把手の位置にはベッシの体印がひとつ。朝のギルドは野次馬で埋まり、常連たちは「ついにうちの依頼板が依頼を超えた」と妙な感慨に浸り、掲示係は防護硝子の増設を検討し始めた(門に硝子は張れないと諭すのに一刻かかった)。
「うちの依頼板が」ギルド長のバッソが、頭を抱えた。「国家機密になっちまった……三年前は測定器が三台壊れただけで大騒ぎだったのになあ、うちは」
「時代です、ギルド長」
「お前らの時代だよ、全部」
噂は昼までに王都を駆け、午後には見物の列がギルドの外まで伸びた。メルヴィナ商会は早くも「門前一等地」の看板権を打診してきて(断った。依頼板は聖域である)、ルルは門の意匠を三時間写生していった(「言葉でできた扉。次の舞台美術に使う」)。世界初の異界の門は、初日から、俗世の商魂と芸術心に囲まれていた。うちの世界の逞しさは、異界が相手でも、揺るがない。
実際、その日のうちに王城から役人が三人来て、「精霊界門管理条例(仮)」の起草を、なぜか俺が手伝わされた。世界初の異界間常設窓口の管理規程である。第一条から揉めた(「開門時の届出先は内務府か外務府か」「異界は外務か?」「哲学の話はやめてください」)。結局、門はギルドの管理、王城には事後報告、緊急時の権限はギルド長――という、現場に一番近い場所へ権限を置く形で纏めた。規程の題名の(仮)は、もう誰も直そうとしなかった。学習である。
留守の手配も、三日で組んだ。ギルドの俺の机はミレット先輩預かり、エルシーの回復所は巡回回復士の輪番、ミラベルの解体業は弟子のフィンが代打(親方たちの査定は「師匠の七掛け。上等」)、レーヴェの稽古はカインが代稽古。三年かけて組んできた世界は、四十日くらいなら、うちがいなくても回る。回るように作ってきた。それでも全員が「早く帰ってこい」と言ってくれるのが、この世界の上等なところである。
出立の準備には、三日を使った。旅装はいつも通りだが、持ち物が特殊だった。紙とインクを、荷の半分。ヴァルガに特注した「四十日分の堅パン」(『言葉の世界とやらでも、腹は減るんだろう』と、餞別に半分まけてくれた)。エルシーは手帳の新しい一冊と、祈祷書。ミラベルは手帳と詠唱書一式と、弟子への課題表(留守中の自習計画。フィンは涙目で受け取っていた。量が尋常ではなかった)。レーヴェは、剣と、砥石と、それだけだった。「言葉の世界に、剣が要るの?」と聞かれ、彼女は「要らないといいね」と笑った。要らないといい。俺も、心からそう思った。
開門の儀は、三日後に執り行われた。立会は国王グレアム(六度目の宰相勧誘は儀の前に済ませてきた。手際がいい)、ギルド職員一同、そして見送りの面々。
門の前で、ベッシが「入界の注意事項」を伝達してきた。伝達方法は、例の光る紙である。俺が読み上げた。
「注意、一。精霊界では、言葉が形を持つ。比喩、誇張、売り言葉に買い言葉は、具現化する恐れがある。……つまり『腹が減って死にそう』と言うと、死にそうになるらしい。全員、口語表現を業務文書基準に改めること。言い換え例を配る。『死ぬほど疲れた』は『疲労、大』。『目が回るほど忙しい』は『多忙』。『泣きたいくらい嬉しい』は――これは、そのままでいい。本当に泣けばいいだけだ」
「窮屈だなあ!」
「窮屈じゃない。この世界の言葉遣いは、つまり『全部の言葉が公文書』ってことだ。俺は五年、それで飯を食ってきた。……むしろ里帰りの気分だ。生まれて初めての里なのに、里帰りの気分になれる里だ」
「事務屋の里、言葉の世界……納得しかない」
「ミラベル、お前が最重要監視対象だ。注意、二。『絶対』『必ず』等の誓い語は、第二部で学んだ通り。注意、三。――これが本題だ。『名前の濃度』について」
人間が精霊界に長く滞在すると、名前が、薄れる。存在の輪郭が、言葉の世界に溶け出していくのだという。人間とは、肉の器に名前を注いだ生き物で、言葉の世界では、名前の側が、世界に馴染もうとして滲み出す――というのが、ベッシの説明(意訳)だった。連続滞在の上限は四十日。そして毎朝、各自が自分の名を紙に書いて、墨の濃さで濃度を測ること。濃度が三割を切る前に、必ず帰還すること。三割を切ると、どうなるのか。光る紙の説明は、そこだけ、妙に言葉少なだった。『――帰り方が、分からなくなる』。
「名前を書いて、測る……?」
試しに、四人がその場で自分の名を書いてみた。今はまだ人間界なので、全員、真っ黒のはずだった。事実、三人は真っ黒だった。一人だけ、妙に掠れていた。
「ミラベル、お前もう薄いぞ!?」
「違う! 字が雑なだけだ! 入界前から薄い人間がいるか!」
「いたら大発見だな。学会に報告しよう」
「するな!」
「毎朝の検査、丁寧に書けよ本当に……」
もう一つ、重要な制約があった。門の「全開」は、精霊界側の大きな力を要するため、三度だけ。入る時、中間報告の時、そして更新の儀の時。それ以外の期間、門は閉じる。ただし――毎朝一刻だけ、手紙を通すための「小窓」が開く。
その説明を聞いた時、見送りの人垣の中で、一人の男が、少しだけ安堵の息を吐いたのを、俺は見た。白髪交じりの歴史教師である。エルシーは出立の間際、彼の前に立って、深く一礼した。
「では――行ってまいります」
「……ああ。今度は、手紙は」
「小窓宛てに、毎朝。……お返事は、三日に一度で結構です。授業の妨げになりますので」
「毎朝、書く」
「三日に一度で、と申し上げました」
「書くのは毎朝だ。出すのを、三日に一度に纏める」
「……条文の抜け道みたいな運用を、どこで覚えたのですか」
「君の同僚からだ」
「……授業を、疎かになさいませんよう」
「疎かにしない。……初日の分は、もう、書いてある」
「まだ出発しておりませんが」
「予習だ」
聖女の耳が赤いのと、元魔王の即答が早すぎるのは、もはや両大陸公認の風物詩である。ミラベルが何か言いかけて、レーヴェに口を塞がれた。学習している。
見送りには、他にも顔が揃っていた。ミレット先輩は「小窓の受け取り箱、窓口で預かるわ。誤配したら承知しないから、宛名は楷書で書きなさいよ」と実務を固め、カインとフィンの弟子組は敬礼で並び、バッソは何も言わずに、俺の肩を一度だけ、強く叩いた。三年前、貧乏くじの目で「話がある」と言った男の手は、今日は、送り出す手だった。
門が、開いた。
光の両扉の向こうに見えたのは、空でも大地でもなく――一面の、流れる文字だった。見送りの人垣から、どよめきとも祈りともつかない声が上がった。グレアム王が一歩進み出て、王としてではない声で言った。「……行って、戻れ。全員でだ。それが王命である」。定時では帰れそうにない王命だが、これは、受けた。
最初の一歩は、俺が踏んだ。窓口の人間が、新しい窓口を最初に潜る。それが筋というものだ。
「……総員、入界する。安全第一。口語表現、業務基準。――行くぞ」
次回「第3話 言葉でできた世界」は、10月20日(火)18時30分更新です。




