第4話 大精霊・言祝
前回:「第3話 言葉でできた世界」
大書庫は、遠目には山だった。
近づくと、山ではなく、積み上がった書架の大伽藍だった。天まで届く棚、棚、棚。この世界で交わされた、あらゆる誓いの写しが収蔵されているという。玄関の吹き抜けだけで、西の王城がすっぽり入る。出迎えの司書精霊たちが、両脇に列を成して一礼し、その奥行きが、そのまま書庫の奥行きだった。紙の匂いは、しなかった。代わりに、古い言葉の、静かな圧が満ちていた。俺は三歩で、この建物が好きになった。
会談の間に通された俺たちを迎えたのは、暖かい光だった。
「ようこそ、ようこそ。海を二つ越えた事務屋どのと、その良き仲間たち」
祝いの言葉の大精霊・言祝は、金色の光を纏った、翁の姿をしていた。動くたび、周囲に光の花びら――祝詞の欠片だという――がほろほろと舞い散る。声を聞くだけで、なぜか少し、いいことがあった気分になる。大精霊とは、そういう存在らしい。挨拶を交わしただけで、レーヴェは「なんか、婚礼に呼ばれた気分」と呟き、エルシーは「祝福の純度が、桁違いです」と職業的に唸った。
着席の前に、言祝は四人と一匹に、順に祝いの言葉をかけた。「良き傾聴に、良き出会いを」「良き祈りに、良き実りを」「良き詠唱に、良き聴衆を」「良き書式に、良き結びを」。そしてベッシには、一言。「良き帰郷を」。祝われた側の胸に、それぞれ、まっすぐ届く言葉だった。祝いの専門家の挨拶は、名刺代わりに、心を一つずつ撫でていく。
「まずは、受任の御礼を。そして、事情を語らねばなりますまい。……我らが『最初の契約』の、更新のことを」
会談の席には、精霊界の長老会も列していた。祝いの言祝、道標の精霊(あの喋る看板たちの元締めだそうだ)、子守唄の精霊、弔いの言葉の精霊。言葉の種類ごとに、司る大精霊がいるらしい。人間の使う言葉の全部に、向こう側の担当者がいたのだ。窓口五年の俺は、少し、姿勢を正した。俺が窓口で発してきた何万回の「お待たせしました」も、どこかの誰かの管轄だったわけである。
言祝の説明は、依頼書より、いくらか具体的だった。
最初の契約は、まもなく「満期」を迎える。更新されなければ、言葉に宿る誓いの力は、この世から消える。人間界のあらゆる誓約が失効し――そう、両大陸を結んだ、あの和平宣誓書も。オルサ大陸の暮らしを支える無数の誓いも、ベッシとの秘匿契約も、全部だ。俺は背筋が冷えた。うちが三年かけて積んだ仕事の大半が、この一枚の満期に、ぶら下がっている。
精霊界は更新を望む。だが、精霊界は一枚岩ではない。
「――閉門派、と呼ばれる者たちがおります」
光の花びらが、少しだけ、色を沈めた。
「更新に反対し、契約を終わらせ、精霊界の門を永久に閉じることを望む一派。曰く――『人間の言葉は、軽くなった。嘘と、お世辞と、口先の約束ばかり。薄い言葉に、我らは万年、飢え続けてきた。もう、終わりにすべきだ』と。……数で言えば、三割。しかし古き精霊ほど、閉門派に多い。長く生きた者ほど、多くの破られた約束を、浴びてきましたゆえ」
「……耳の痛い主張ですね」
「否定は、できませぬ。インクの川の濃度は、この千年で三割、薄くなりました。人の数は増え、言葉の数は溢れ、誓いの重さだけが、痩せていく。閉門派の飢えは、作り話ではないのです。……飢えて消えた精霊も、おります。言葉の精霊は、本気の言葉を糧に生きる。糧の薄い時代には、小さき者から、順に」
ベッシが、俺の肩の上で、じっと動かなかった。こいつの兄弟は七つ。多いのか、少ないのか、俺は精霊の家族の相場を知らない。ただ、母精霊があの川辺で、薄い流れを見る時の目の色だけは、思い出せた。
「そして、その閉門派を率いるのは」
「精霊界で最も古く、最も重んじられる大精霊のお一方。名を――黙、と申します」
「シジマ様」
「万年、ただの一言も、発したことのないお方です」
「一言も、というのは、協議の席でも」
「席には、着かれます。座して、聞いておられます。万年、そうしてこられた。……賛否も、意向も、すべては側近の推し量りです。あの方ご自身の言葉を、聞いた者は、おりませぬ」
「発したことがない、というのは……話せない、のですか。それとも」
「話さない、のです。シジマ様は、沈黙の大精霊。万物の言葉の、対極を司る御方。……古い言い伝えでは、こうも申します。『言葉が生まれる前の世界を、唯一、覚えておられる方』と。我ら言葉の精霊にとって、あの方の沈黙は、恐れであり、同時に――敬いなのです。誰も、あの方の沈黙の中身を、知らない。万年、誰も」
会談の間が、静まった。一言も発したことのない大精霊。言葉でできた世界の、言葉を使わない重鎮。交渉相手として、これほど厄介な相手を、俺は想像できなかった。傾聴の剣聖ですら、腕を組んだ。「話さない人の話を聞くのは……できるけど、万年物は、初めてだね」。エルシーが、静かに問うた。「シジマ様は……なぜ、閉門を望まれるのでしょう。飢え、だけでしょうか」。言祝は、長い間を置いて、答えた。「……分かりませぬ。あの方の望みを、正しく知る者は、精霊界にも、おらぬのです。閉門派の主張は、側近たちの言葉。あの方ご自身は――ただ、黙して、おられる」。旗頭の真意を、旗の下の誰も知らない派閥。厄介さの階層が、また一段、深くなった。
被害試算の口頭説明で、レーヴェが一つ、質問した。「契約が切れたら、ベッシは……この世界の皆は、どうなるの」。言祝の答えは、静かだった。「門が閉じ、行き来は絶え、我らは、痩せた川のほとりで、細く、生きてゆくでしょう。滅びはせぬ。ただ――二つの世界は、互いを、忘れてゆく」。忘れてゆく、の一言に、部屋の光が、少し翳った。
「一つ、伺いたい」俺は手を挙げた。「なぜ、代理人が要るんです。契約の当事者は、精霊界と、人間界。人間界の代表なら、王たちがいる」
「王は、国の代表。我らが求めるのは、『言葉の使い手』の代表です。最初の契約の相手方は、国でも王でもなく――言葉を使う、すべての人間でしたので。代理人の要件は、地位ではなく、実績。……言葉で、殺さずに、二つの戦争を終わらせた実績に、勝るものはありませぬ」
「更新協議の席には、閉門派も着きます。あなた方には、人間側の代理人として、両派の間に立っていただきたい。……荷の重い頼みであることは、承知の上で」
「仕事は仕事です。段取りから始めましょう。まず、両派の主張を書面で交換。次に論点整理。協議は公開が原則――ここは、譲れません。密室の更新は、どちらの派にも、後々の禍根になる」
「公開、ですか。閉門派も含めて」
「含めてです。俺たちは推進派の代理人じゃない。『人間側』の代理人だ。閉門派の言い分にも、人間は答える義務がある。……万年分の飢えの話なら、なおさらです」
言祝の翁は、しばらく俺を見て、それから、花びらを一際多く散らして、笑った。「――探し番の舌は、確かでありましたな」。
実務の話に入りながら、俺は、視界の隅に、それを捉えていた。
会談の間の、一番奥の柱の陰。灰色の、輪郭のぼやけた人影が、ひとつ、静かに立っている。会談が始まってから、ずっと。誰も、その影を紹介しない。それどころか――言祝も、居並ぶ精霊たちも、全員が、その一角だけを、見ないようにしている。不自然なほど、綺麗に。敬遠、とも違う。あれは、直視するのが忍びないものから、そっと目を逸らす時の、あの目の使い方だった。
影は、身じろぎ一つしなかった。ただ、そこに、立っていた。
次回「第5話 白紙の主張書」は、10月22日(木)18時30分更新です。




