後日談・第8話 書式論争、上陸す
前回:「後日談・第7話 ルル座『黎明』」
「――視察に、参りました」
定期船の桟橋に、その声は、船が着く前から予告されていたように響いた。実際、予告されていた。定期報告・第六信の追伸に、一行。『次の書式論争は、そちらの大陸で。日程は別紙』。別紙には、視察の公式日程が、完璧な様式で組まれていた。到着時刻から歓迎の辞の所要時間(三分と指定があった)まで。俺は指定通り、三分で歓迎の辞を述べた。彼女は懐中時計で計り、「二分五十八秒。良い運用です」と頷いた。この再会の様式が、俺たちの間では、多分、抱擁に相当する。
冬の初め、ポルトネラからの定期船を降りてきた群青の法服を見て、俺は自分の目を疑わなかった。追伸に予告されていたからである。和平法術士セレン、公務での来西。名目は「アステル暫定講和条約(仮)の運用調査」――西の講和にオルサ式の受理原則を応用できるか、両大陸の事務方が検討する、という、字面だけで一部の人間が興奮する視察だった。一部の人間とは、俺のことだ。
滞在は十日間。俺は案内役を拝命した。案内の行程表は、三日かけて組んだ。組みながら、途中で気づいた。俺はこの行程表を、楽しんで組んでいる。仕事の書類を楽しむのは平常運転だが、これは、種類が違った。この街の好きな場所を、好きな順に、人に見せる算段。……世間ではこれを何と呼ぶのかは、視察と呼ぶことにして、先へ進む。
滞在は十日間。俺は案内役を拝命した。案内した先は、王立公文書館(三百年分の原本書庫にセレンが感嘆の声を上げた。「湿度管理が完璧……この棚の設計者に会わせてください」「百五十年前の司書です」「……墓所の場所を」参るのか)、様式の美しさで名高い財務府の窓口(掲示の配置を二人で三十分批評した。窓口の若い官吏が「あの二人、何者ですか」と震えていたらしい)、そして講和条約(仮)の原本(「正式名称に(仮)……本当に入っているのですね……」と彼女は震えていた。畏怖と笑いの中間の震えだった)。
視察の中日には、王城で公式会談もあった。グレアム王は東の和平法術士を丁重に迎え、講和条約(仮)と和平宣誓書の技術交流に快く判を捺し、それから、ふと真顔で聞いた。「時に、法術士どの。貴殿の目から見て、うちの事務屋は、東でどれほどの評価か」。セレンは一拍置いて、答えた。「賭け屋のオッズで、大陸一の法術士と互角。市場の尊称で、歴史を背負う者。……私の評価では、その両方より、少し上です」。王は満足げに頷き、俺の六回目の宰相勧誘の算段を始めたので、視察日程を理由に退出した。危なかった。
ミレット先輩の窓口も、見学の目玉になった。セレンは先輩の捌きを一刻、黙って観察し、手帳に何かを書き続け、最後に深々と一礼した。「三十年ぶんの新人を潰さなかった窓口の型が、ここにあります。持ち帰って、うちの誓約庁の教材にします」。先輩は「型って何よ、普通にやってるだけよ」と照れたが、普通を三十年続けたものを、世間では型と呼ぶのである。
エルシーの回復所と、ユーリスの学校にも案内した。回復所では、セレンは懺悔の待合の掲示(『順番は前後することがあります。心の準備が整った方から』)を書き写し、学校では、歴史の授業を一番後ろの席で聴講した。元魔王が「戦争の終わらせ方」を教える教室で、開戦宣誓書を書いた法術士が、生徒と同じ顔でノートを取っていた。あの光景は、両大陸の三十年と三百年が、同じ机に着いた瞬間として、俺の記録に残っている。
視察には、うちの面々も入れ替わり同行した。レーヴェはセレンの剣の心得のなさを一目で見抜き、「あんた、逃げ足だけ鍛えときな。書類の人は、逃げ足が命綱」と、護身の第一課だけ教えた(セレンは翌朝から、走り込みを日課に加えたらしい。素直である)。ミラベルは「宣誓の魔力構造」談義で意気投合し、危うく共同研究が三本立ち上がりかけた。ベッシは、セレンの携えてきた東の書類に、久々の故郷の味とばかりに殺到した。
「リド殿。確認ですが、これは視察であって、観光では」
「観光だと思って組んだ行程だが」
「……あなたの観光の定義を、書面で定義し直すことを提案します」
「受けて立つ。第一条、観光とは、良い書式のある場所を巡ることをいう」
「……第二条、前条の定義は、起草者二名の間でのみ有効とする」
「異議なし。可決だ」
世界で二人しか批准しない条約が、また一本、成立した。
口ではそう言いつつ、彼女の手帳の視察記録は、三日で一冊目が終わった。楽しんでいる人間の筆跡は、隠せない。読点の位置で近況を推測する癖は、お互い様である。
十日の間には、書式論争の本戦もあった。議題「様式における余白の最適比率」。俺は機能派(余白は読みやすさのためにある)、彼女は構造派(余白は階層を示すためにある)。二晩やって、決着はつかず、議事録だけが美しく積み上がった。ベッシが議事録を全頁齧ろうとした点だけ、両派の完全合意である。
最終日の前夜、俺たちはギルドの資料室で、講和条約(仮)の十年更新条項に、オルサ式の「宣誓更新」を組み込む改定私案を仕上げていた。仕事は、日付が変わる前に終わった。珍しく、沈黙が落ちた。埋める書類が、もうなかったからだ。
「……一つ、私的な質問を」セレンが、ペンを置いて言った。「あなたの読点の打ち方は、誰から学んだのですか」
「独学だ。息継ぎの位置に打つと決めたのは、十五の時。あんたは」
「父から。『読点は、読む人の呼吸のために打つものだ』と。……あなたの書類を初めて見た日、ペンを落とした理由が、分かりますか。同じ呼吸を、する人がいたからです。海の向こうに」
資料室の灯りが、じ、と小さく鳴った。俺は、何か気の利いたことを言うべき局面だと理解し、そして例によって、条文の言葉しか出てこなかった。だから今回も、探すのをやめて、そのまま言った。
「……例の論争。『遠距離の共同起草は、可能か』。あんたの論拠、揃ったのか」
「ええ。往復書簡八通分の実証データが。結論――可能です。ただし、非効率です」
「だろうな。で、効率化の改善案は」
「三案あります。第一案、書簡の高速化。第二案、共同起草の頻度を下げる。第三案――」
彼女は、そこで初めて、条文の顔を少しだけ崩した。
「――距離を、下げる。……検証には、時間がかかりますが」
「……検証計画書は」
「三年計画で、起草済みです。写しを、置いていきます」
翌朝、彼女は定期船で東へ発った。置いていかれた計画書の表題は『両大陸事務交流計画(三箇年・仮)』。中身は完璧に公務の体裁で、しかし最終頁の実施担当者の欄には、二つの名前が、連名で印字してあった。
三年。気の長い二人の、気の長い計画である。だが幸い、俺たちはどちらも、納期を破ったことがない。
なお、この計画書の存在は、うちの連中に三日で露見した。レーヴェは「三年! 気が長いというか、あんたららしいというか」と笑い、エルシーは「計画的なのは、良いことです」と手帳に何かを書き(何を書いた)、ミラベルは「三箇年計画、うちの大陸と魔王城の復興でも聞いた響きだね。つまり国家事業だ」と的確に茶化した。国家事業。まあ、両大陸の事務方の交流計画なのだから、あながち間違いでもない。書式の上では。
次回「後日談・第9話 師弟と、一分の黎明」は、10月16日(金)18時30分更新です。




