第9話 翼の欠けた理由
前回:「第8話 四天王【嵐翼】、降臨」
「――関係、あるまいッ!」
動揺を振り払うように、ヴァルガの剛剣が、一段と激しく唸った。レーヴェは、それを受け、いなし、跳んで距離を取り、そして――なお、問いを重ねた。
この女、四天王と斬り結びながら、カウンセリングを始めやがった。
「関係、あるよ」レーヴェの声は、暴風の中でも、不思議とよく通った。「あんたの剣、翼の欠けた左側の間合いが、ほんの少し、浅い。左を庇ってるんじゃない。もう治ってるのに、庇った『癖』だけが、体に残ってる。――誰かを守って、失ったんだね。その、翼」
「黙れと、言っている……!」
「それにさ」彼女は、剣を打ち返しながら、たたみかけた。「あんたの部下は言ってた。『あの方は目撃者を生かさない』って。でも、おかしいんだ。さっきから、あんたの剣、一度も、あたしの急所に来てない。全部、避けられる場所ばっかり狙ってる。――殺す気のない剣で、殺すって喚くのは。何かを、必死で我慢してる奴の、やり方だよ!」
暴風が、大きく、乱れた。
剣を打ち合うこと、三十合。レーヴェの誘導尋問――もはや物理的なカウンセリングだった――の前に、四天王【嵐翼】ヴァルガの半生が、剣の隙間から、ぽつり、ぽつりと、零れ落ち始めた。
渡りの翼族の、生まれだったこと。空を渡り、各地を巡って暮らす一族だったこと。その村が、十数年前、戦の巻き添えで、人間の軍に焼かれたこと。焼け出され、生き延びるために、魔王軍の門を叩いたこと。そして左の翼は――五年前の戦で、逃げ遅れた部下を庇い、その身代わりに、落とされたこと。
一つ一つの言葉が、剣の重みを、少しずつ、削っていった。恨みを、憎しみを、目撃者を消せという任務を――その全部を鎧のように着込んだ男の、内側の、擦り切れた芯が、レーヴェの言葉に、少しずつ、剥き出しになっていく。
「人間を、恨んでる」ヴァルガは、剣を交えながら、呻くように言った。「村を焼いたのは、人間だ。翼を狙ってきたのも、人間の弓だ。憎んで、当然だろう。……なのに、なぜ、俺の隊の連中は、人間の街道で、人間の護衛を雇って、飯を、食おうとする。なぜ俺は、それを、止められなかった。……分からんのだ。憎いはずの相手に、頭を下げて、麦を分けてもらう。それが、生きるってことなのか。俺には、もう、分からん」
「分からないなら」レーヴェは、剣を受け止めたまま、まっすぐに言った。「一緒に、考えよう。あんた一人で、抱えなくていい」
「じゃあ、最後の質問だ!」
レーヴェが、渾身の一撃で、ヴァルガの剛剣を高く弾き上げた。そして、がら空きになった相手の正面に、剣を構えることも忘れて、まっすぐに、飛び込むように、叫んだ。
「あんたの、夢は!? 魔王軍に入る前! まだ翼が二枚あって、自由に空を渡ってた頃の――あんたの、夢は、なんだったんだ!!」
風が。
ぴたり、と、止まった。
嵐が、凪いだ。四天王が、剣を握ったまま、動きを止めていた。黄金の瞳が、遠い、遠い場所を見ていた。長い、長い沈黙が、街道に落ちた。誰も、動けなかった。
そして、四天王【嵐翼】ヴァルガは、剣先をゆっくりと地面に下ろし、絞り出すように、言った。
「――…………パン屋、だ」
時が、止まった。
「「「パン屋!?」」」
俺と、ミラベル(詠唱の合間)と、治療中のエルシーの声が、綺麗に揃った。
「渡りの、途中でな」ヴァルガは、決まりが悪そうに、しかし止まらずに続けた。「若い頃、腹を空かせて寄った、人間の村で。焼きたてのパンを、恵んでもらった。……あんなに、うまいものが、この世にあるのかと思った。翼で、各地の一番いい麦を運んで、自分の窯で焼いて、人間だろうが魔族だろうが、腹を空かせた奴になら、誰にでも売る。そういう店を持つのが、俺の……夢、だった。悪いか! 四天王が、パン屋を夢見ちゃ、悪いのかッ!」
悪くない。悪くないが、情報量が、多すぎる。
そして、俺の頭の中で、点と点が、繋がった。この密輸――人道支援物資の買い出しは、部下の村の飢えを救うためであると同時に。この男が、いつか自分の店で焼くための「最高の麦」を、私費でこっそり確保する、裏の活動でもあったのだ。四天王による職権乱用の、その中身が。パンだった。全部、パンに通じていた。
そして――案の定、レーヴェの涙腺が、完全に、決壊した。
「い゛い゛……い゛い゛夢じゃ、な゛い゛か゛あ゛ーーッ!!」
彼女は剣を街道に放り出し、両腕を広げて、四天王めがけて突進した。そして、あろうことか、敵に、抱きついた。
「な――は、離せ、人間ッ」
うろたえながらも、その巨体で、突進してきた小柄な剣聖を、反射的に受け止めてしまう四天王。戦場は、この瞬間、完全に崩壊した。
そこへ、治療を終えたエルシーが、静かに歩み寄った。そして、ヴァルガの欠けた――もう治ってはいるが、形の歪んだ左の翼に、そっと、聖印を翳した。
「その翼、綺麗に治せますよ。飛ぶ時の、左右の狂いも。……お代は、懺悔で、結構です」
「……俺の、懺悔は」ヴァルガは、観念したように、目を閉じた。「長いぞ。焼いた麦の数ほど、ある」
「構いません。ゆっくりで。神は見ています。私も見ています」
四天王の公開懺悔は、たっぷり一時間に及んだ。そしてその内容の、実に八割が、パンへの尽きせぬ想いだった。理想の生地の発酵温度。人間の村で食べたあのパンの塩加減。魔王領では手に入らない酵母への渇望。聞かされる側の身にもなってほしい。だが、エルシーは一つ残らず「聞き届け」、そして――光に包まれたヴァルガの左翼が、五年ぶりに、右と寸分違わぬ形に、大きく、広がった。
翼が広がった瞬間、ヴァルガは、息を呑んだ。そして、恐る恐る、その翼を、一度、大きく羽ばたかせた。五年間、歪んだまま飛んでいた男が、初めて、まっすぐな風を掴んだ。彼の頬を、一筋、涙が伝った。四天王の、涙だった。
「……飛べる。まっすぐ、飛べる。……こんな感覚は、五年、ぶりだ」
ちなみに、その一時間、律儀に、本当に律儀に詠唱を続けていたミラベルは、五十一パーセントに達したところで魔力が臨界し、盛大に暴発した。だが、今回ばかりは奇跡が起きた。放たれた魔力の奔流が、ヴァルガが降臨時に残していった嵐雲と、空中で、真正面から相殺したのだ。
轟音。そして――雨上がりのように澄んだ空に、地平線から地平線まで届く、馬鹿でかい虹が、かかった。
「詠唱進捗、五十一パーセント! 自己新記録! しかも、しかも今回は――私、何も壊してないよね!?」
「ああ。虹を出した魔法使いとして、歴史に名を残せるぞ、お前」
「ふふ……名を残す魔女、悪くない。だが私が残したいのは、名じゃなくて、伝説なんだ。いつか詠唱百パーセントで――」
「百パーセントの話は禁止だ。街道が消える」
軽口を叩き合いながら、俺は内心、胸を撫で下ろしていた。誰も死ななかった。四天王すら、殺さずに済んだ。むしろ、一人、増えそうな気配すらある。うちの「殺さない」は、また一つ、記録を更新した。
その、七色の巨大な虹の下で。両の翼を、完全な形で取り戻した四天王【嵐翼】ヴァルガは、広げた翼を見つめ、それから、静かに、しかしはっきりと、言った。
「……決めた。俺は――軍を、辞める」
次回「第10話 四天王、退職届の書き方」は、7月27日(月)18時30分更新です。




