第8話 四天王【嵐翼】、降臨
前回:「第7話 密輸団の正体」
着地の衝撃だけで、街道の敷石が、蜘蛛の巣状に割れた。土煙が、円形に噴き上がった。地面が、震えた。近くの木から、驚いた鳥が一斉に飛び立ち、そのまま、風圧に巻かれて、視界の外へ消えていった。
魔族の部下たちが、一斉に、地に平伏した。訓練された動きではない。恐怖による、反射的な平伏だった。自軍の将に対して、部下がこんな怯え方をするのを、俺は初めて見た。たった一人が降りてきただけで、勝ち筋の見えかけていた盤面が、また、真っ黒に塗り潰されていく。
巻き上がった土煙が晴れると、そこに、それは立っていた。身の丈、二メートル超。背には漆黒の翼。全身を覆う黒鋼の甲冑。まとう大気そのものが、常に低く唸り、渦を巻いている。存在するだけで、その場の気圧が変わる。これが――魔王軍、四天王。格が、違った。今まで相手にしてきた魔物や密輸団とは、生き物としての桁が、違う。
四天王【嵐翼】ヴァルガは、黄金の瞳で、ゆっくりと戦場を見渡した。散らばった小麦。平伏する部下たち。割れた木箱。そして――俺たち、人間を。
「――状況は、おおむね理解した」
声だけで、腹の底が震えた。
「貴様ら、無断で隊を離れた上、あろうことか、人間と通じたか」
「ち、違います、ヴァルガ様! これは、村の食料を確保するためで、決して裏切りでは」
「弁明は、軍法会議で聞く」翼が、ざわりと鳴った。「部下と積荷は、回収する。連れ帰る」
その言葉に、平伏していた部下たちが、びくりと肩を震わせた。軍法会議。無断離隊の罪。連れ帰られれば、待っているのは、良くて降格、悪くて処刑だ。麦を抱えた若い魔族が、絶望の目で、故郷の方角を見た。あの麦は、届かない。村の冬は、また、誰かが死ぬ。そういう顔だった。
その顔を、俺は、見てしまった。見てしまった以上、放っておけないのが、俺の――いや、うちのパーティの、悪い癖だった。
それから、黄金の瞳が、こちらへ向いた。射抜かれた、と感じた。物理的な圧力を伴う視線だった。
「――そして、人間ども。魔王軍の内情を、目にした者を、生かして帰す規則は、我が軍にはない。恨むなら、間の悪い己の運を、恨め」
風が、変わった。周囲の大気が、ぴん、と張り詰め、無数の透明な刃に変わる――本能が、そう告げた。考えるより先に、俺の口が叫んでいた。
「レーヴェ!!」
「――応ッ!!」
剣聖の返事と、四天王の暴風が、同時に炸裂した。
剣戟と衝撃波が正面から激突し、その余波だけで、近くにあった幌馬車が一台、木の葉のように吹き飛んだ。俺たちは咄嗟に地に伏せた。顔を上げると、無敗を誇るはずのレーヴェが――打ち合いながら、後退していた。一合、また一合と刃を交えるたびに、彼女の踵が、割れた敷石を、ずり、ずり、と削って下がっていく。
それは、俺が初めて見る光景だった。この数週間、レーヴェが「押される」ところなんて、一度も見たことがない。測定器を折り、岩を砕き、ベヒボアを片手で受け止めた、あの規格外の膂力が。今、じりじりと、押し込まれている。四天王という肩書きが、ただの飾りではないことを、彼女の削れる踵が、雄弁に物語っていた。
「嘘、だろ……レーヴェが、力負け……!?」
あの、測定器を三周させて折った規格外の膂力が。押されている。それも、相手はまだ、本気ではない。翼を広げてすらいない。片手で、剣を振っているだけだ。
「ほう」ヴァルガの声には、わずかな感心が混じっていた。「人間の小娘にしては、よく耐える。何合か、保つではないか」
「ミラベル! 詠唱だ! あいつを止められるのは、お前の火力しかない!」
「任された! 我が全力、今こそ――完了予定は、十一分、三十八秒後ッ!」
「長いわ!! この状況で十一分どこで稼ぐんだよ!!」
「詠唱に、尺は、必要なの! 『原初の闇より出でて灯りし一つ火――』」
それでも、始めるしかなかった。作戦、と呼ぶのもおこがましい。これは、ただの時間稼ぎだ。十一分。剣聖が四天王を、たった一人で、十一分。あまりに、長い。
俺は、必死で頭を回転させた。何か、ある。この状況を引っくり返す、何かが。四天王の弱点。交渉の糸口。撤退の口実。だが、相手は格上すぎて、書式のつけ入る隙が、見えない。関税法も、ギルド約款も、この暴風の前では、ただの紙屑だ。初めて、俺の武器が、まったく通用しない相手だった。焦りが、背中を這い上がってくる。
エルシーは、この乱戦の中を、驚くほど冷静に動いていた。ヴァルガの一撃で吹き飛ばされ、地に転がった魔族の部下たちのもとへ駆け寄り、後方へ引きずって、治療を始めている。彼女だけは、この四天王の圧の中でも、平常運転だった。
「動かないでくださいね。すぐ治します。……お代は、懺悔で結構ですので」
「こ、この状況で懺悔を取るのか、聖女ぉ!?」
「はい。神は、どんな状況でも見ていますので。それに――怪我の治りは、心の澱を吐き出した方が、早いんです。医学的な話です」
医学なのか、それは。だが実際、懺悔しながら治療された魔族たちは、みるみる血色を取り戻し、そして治療が済むと、なぜか一人残らず、俺たちの側に、寝返っていた。四天王に平伏していたはずの部下たちが、いつの間にか「聖女様を守れ」と隊列を組み始めている。エルシーの回復は、体だけでなく、忠誠心まで治療するらしい。恐ろしい神官だ。
俺は懐中時計の秒針を睨みながら、前線を見た。レーヴェは、十七合目を受け止めていた。両腕は、とっくに痺れているはずだ。防戦一方。それでも――彼女の目だけは、違った。敵の剣を見ていない。敵の、その奥を見ている。剣聖の五感が、全開になっていた。相手の心音を、呼吸を、力みを、感情の揺らぎを、根こそぎ読み取ろうとする、あの目だ。
二十合目。二十五合目。レーヴェの防御は、少しずつ、崩れ始めていた。肩で息をし、頬に一筋、血が伝っている。四天王の膂力は、本物だった。このまま殴り合えば、勝ち目はない。それは、剣を握る本人が、一番よく分かっているはずだった。
だが、彼女は、退かなかった。退くどころか――打ち合いながら、なぜか、少しずつ、笑みを深くしていった。まるで、相手の剣の奥に、探していた宝物を、見つけたみたいに。俺は、その横顔を知っている。あれは、勝ち筋を見つけた時の、レーヴェの顔だ。剣で勝てないと分かった彼女が、別の武器の間合いに、相手を引きずり込もうとしている顔だ。
そして、鍔迫り合いの、刃を挟んで顔が触れ合うほどの至近距離で。
レーヴェが、ふっ、と、囁いた。戦いの言葉ではなかった。
「……あんた」
「何を、囁く」
「その翼。――左、一枚、欠けてるね。それも、結構、古い傷だ」
四天王【嵐翼】の剛剣が。
初めて、ほんの、わずかに――揺れた。
その揺れを、俺は後方から、確かに見た。四天王の圧に、まったく歯が立たなかった俺たちの、たった一つの活路。それは、剣でも、書式でも、魔法でもなかった。レーヴェの、まっすぐな一言だった。あの女は、いつだって、相手の一番柔らかいところに、無自覚で、指を届かせる。剣も、魔法も、書式も届かなかった鎧の、その内側へ、ただの言葉一つで、するりと。
次回「第9話 翼の欠けた理由」は、7月26日(日)18時30分更新です。




