後日談・第5話 灯台の業務日誌
前回:「後日談・第4話 名簿の朝(セレンの手紙)」
『海峡灯台・業務日誌 記録者・シア
◯月一日。晴れ。大潮の儀より、七日。広場の騒ぎは続いているらしいが、灯台は変わらない。夜が来て、灯りを点し、朝が来て、灯りを細める。三十年と同じ。違うのは、麓の村の連中が、あたしを見る目に「様」の他に、名前が増えたことだ。姫様、とは誰も呼ばない。呼ぶなと言った。シア様のままでいい、と。三十年かけて自分で作った名だ。愛着がある。
◯月三日。晴れ。油の在庫、問題なし。本日、弟子入り志願者一名。歳、六十三。前職、王。断った。理由――王に灯台守が務まるか。志願者、帰らず。裏の薪を、日暮れまで割って帰る。薪の割り方は、素人。量は、玄人。
◯月七日。時化。夜通し、灯りの番。荒れた夜に通した船、二隻。柱に刻み目、二本。三十年と一年目の帳簿も、変わらず続く。変わったのは、刻んだ後に、茶を淹れて一息つく癖がついたことだ。前は、刻んだら、すぐ次の見回りだった。……余裕、というものか。悪くない。
◯月十日。曇り。志願者、また来る。断る。志願者、階段の軋む段に油を差して帰る。三十年、あたしが放っておいた段だった。腹が立つ。少し。
◯月十二日。志願者の素性、麓の村で噂になり始める。「あの薪割りの爺様、北の王様らしい」と。村の衆、遠巻きに見物に来る。志願者、動じず、薪を割る。子供に「王様なの?」と聞かれ、「先週までは、そうだった」と答える。まだ王だろうが。日付を確かめたら、譲位の布告は、五日後に出た。……つまりあの答えは、決意の先払いだった。ああいう歳の取り方も、あるらしい。
◯月十七日。志願者、三たび来る。「王は、先週辞めた」と言う。甥に譲位したと。前職の欄が消えたので、仕方なく、見習いとして採用。ただし住み込みは不可。城から通え、と言ったら、「望むところだ」と笑った。年寄りが、崖道を通う気か。
◯月二十日。雨。見習い、来る。雨の日は磨き物と決めている。並んで真鍮を磨いた。見習い、手を止めずに、ぽつりと言う。「三十年、この灯りに礼を言いたかった」。あたしも手を止めずに答えた。「礼なら灯りに言いな」。「今、言っている」。……口の減らない爺だ。真鍮が、いつもより早く光った。
◯月二十四日。見習いに、レンズの磨き方を教えた。手際は、悪い。だが、灯りを見る目は――良い。三十年、遠くからこの灯りを見てきた目だ。磨き終えて、見習いが言った。「近くで見ると、こんなに大きいのだな」。あたしは答えなかった。答える代わりに、茶を淹れた。
◯月三十一日。嵐。見習い、崖道を登ってきた。馬鹿か、と怒鳴ったら、「嵐の夜ほど、灯りは人手が要ろう」と言う。……正しいので、余計に腹が立つ。今夜の灯りは、二人で守った。荒れた夜に通した船、三隻。柱の刻み目、三本。刻むのを、見習いに一本、譲った。初めて、譲った。
△月二日。晴れ。妹、来襲。三十年分の姉孝行、と称して、女王の権限で灯台に食料を一年分運び込もうとする。断固、断る。半年分で妥協。妹、帰り際に見習いを睨んで、「姉を泣かせたら、水軍が黙っていません」と脅す。見習い、真顔で「心得た」と答える。……誰も泣かんわ。
△月三日。見習い、油の計量を誤る。二割、多い。叱った。「多い分には灯りは消えん」と言い訳するので、余計に叱った。多く注げば、芯が早く傷む。芯が傷めば、いつか、肝心の夜に灯りが細る。灯台の勘定は、今夜ではなく、十年先の嵐の夜に合わせる。……見習い、翌日から計量記録を付け始める。几帳面な字だった。国を三十年やった男の字だ。当然か。
△月五日。麓の村の子ら、見習いを見に来る。「シア様の弟子は、王様だったんだって」と騒ぐ。見習い、子らに薪割りを教える。教え方は、うまい。王より、爺の方が、向いている。本人にそう言ったら、「三十年前から、そう思っておった」と笑った。笑い話にできるまで、互いに三十年かかった話である。
△月九日。見習いが、妙なことを言う。「灯台の隣に、小屋を建ててよいか」と。通いは冬がつらい、番小屋があれば交代で仮眠できる、隠居の道楽と思って許せ、と理屈を三つも並べた。理屈が三つある時、本音は別のところにある。三十年前の文通で、覚えている。……許可した。小屋の図面は、なぜかもう、できていた。
△月十二日。見習い、初めて独りで夜番。あたしは小屋で仮眠――のはずが、眠れず、結局、階段の下で朝まで聞き耳を立てていた。灯りは、一度も細らなかった。油の注ぎ足しの音が、正確な間隔で、朝まで続いた。夜明けに灯室へ上がったら、見習いが言った。「眠れなかったろう。階段の三段目の軋みが、二度、鳴った」。……食えない爺だ。
△月十六日。小屋、着工。大工は麓の村の衆。差し入れのパンは、西大陸の店の支店のものだとか。土竜が焼いているらしい。世の中は、知らぬ間に、面白くなっている。精霊の水皿を、小屋の分もう一枚、注文した。灯台の精霊たちが、新入りの様子を、毎晩見に降りてくるからだ。連中も、物見高い。
△月二十日。晴れ。精霊の水皿に、今朝は花が一輪、浮いていた。誰の仕業でもない。強いて言えば、精霊の返礼か。三十年、水皿一つで付き合ってきた隣人たちは、近頃、少しだけ、饒舌だ。この灯台の誓いの中身が変わったからだろう。「二度と沈ませない」の上に、もう一枚、重なった。「これからも、ここで生きる」と。
△月二十三日。西の劇団から、手紙。あたしの三十年を、舞台にしたいと。座長の名は、覚えている。夜明け広場で、二十三の役を独りで生きた役者だ。……許可した。条件は一つだけ付けた。「灯りの磨き方だけは、正確に演ってくれ」。芝居は嘘でいい。灯りだけは、嘘だと船が沈む。
△月二十五日。海峡救難隊の巡回船、初の定期寄港。隊長は大男。「灯台守どのに挨拶を」と登ってきて、ついでに崖の階段の危ない段を三つ、勝手に直して帰った。西の連中の弟子筋か、と思ったら、案の定だった。あの調停屋たちの周りの人間は、みんな、頼まれる前に手が動く。伝染するのだろう、ああいうのは。
△月二十八日。妹、再来襲。今度は姉孝行ではなく、「公務」と称して、灯台を両国共同の航路安全施設に指定する書状を持ってきた。維持費は両国持ち、油は最上等、人員の増強も可――全部、断った。一つだけ、受けた。「灯台守の名を、公式の記録に載せること」。妹は書状に書き込んだ。『初代公認灯台守・シア』。……セラフィナ、ではなく。妹は分かっている。あたしが三十年かけて自分で作った名前の方を、正式にしてくれた。帰り際、妹が言った。「姉さまの三十年に、国の名前が追いついただけです」。……女王は、口が上手くなった。昔は泣き虫だったのに。
△月三十日。小屋、完成。夜、見習いと灯りの番を、初めて通しで二人でした。灯りの油の継ぎ足しの合間に、ぽつぽつと、三十年分の話をした。あたしの三十年と、あの人の三十年を、一晩で語り尽くせるはずもない。だから、決めた。急がない。灯りの番は、毎晩ある。話の続きも、毎晩あればいい。
……三十年ぶりに、夜が、短かった。
追記。日誌に私事を書くのは、規程違反。だが、この日誌の規程を決めるのは、あたしだ。本日付で、規程を改める。「私事、可。ただし、灯りの記録より、多くならぬこと」。……西の事務屋の口癖が、うつった。規程は、生きるために直すものだと。』
次回「後日談・第6話 決闘の続きと、飯」は、10月13日(火)18時30分更新です。




