第36話 受理
前回:「第35話 13分の黎明」
「『――かくて、長き夜は明けるものと知れ。されど夜は、独りでに明けるにあらず』」
最終節が、始まった。
「『夜明けとは、待つ者たちの上にのみ、訪れるもの。故に』」
詠唱の声が、一段、高くなった。
「『――今、すべての聞く者に、問う。この夜を、終わらせるか』」
――そして、詠唱は、止まった。
完成、しないのだ。魔法陣は臨界のまま、光は放たれる寸前のまま、世界が、静止した。『黎明』は、問いで終わる魔法。問いは、答えられて初めて、閉じる。詠唱を最後まで聞く者のいなかった古の時代、この魔法は多分、一度も完成しなかった。問いを託す相手が、いなかったから。
十三分、待った広場が、その意味を、理解するのに、三つ数えるだけの時間がかかった。
最初に答えたのは、子供だった。親の袖を引いていた、あの子だ。
「――おわらせる!」
次に、正座の神童が、跳ね起きて叫んだ。「終わらせる!!」。ジグの野太い声が続いた。「終わらせろ!!」。セレンが、バウ爺が、ドナ議長が、ギレンが。壇上のドルンとミレイユが、声を揃えた。セラフィナが、三十年ぶんの声で。そして――
「「「「終わらせる!!!」」」」
広場が、東も西もなく、一つの声になった。北の訛りと南の訛りが、同じ四文字の上で、混ざり合った。
それは、詠唱への返事であり――そしてこの大陸の理において、両国の民、一人一人の口から出た、心からの、宣誓だった。
空が、動いた。
高みに集まっていた精霊たちが、雪崩のように、降りてきた。何千、何万の淡い光が広場に舞い降り、人々の肩に、頭に、掲げた手に、ふわりふわりと触れていく。ベッシが宣誓書の上で、全身を輝かせて跳ねた。両王の署名の墨が、金色に燃え上がり――
『黎明』が、完成した。
夜のど真ん中に、夜明けが、生まれた。
壇上から放たれた光は、爆発ではなかった。空の低いところに、地平線もないのに、朝焼けの色が、静かに、水平に、広がっていったのだ。茜と、金と、生まれたての空色。人工の黎明は広場を染め、港を染め、海峡を渡って、あの灯台の白い壁まで、夜明けの色に染め上げた。
三十年、夜の海を照らし続けた灯台が、生まれて初めて、照らされる側に回った瞬間だった。
「――詠唱完了。十三分、ちょうど」
壇上で、ミラベルが、膝をついた。それから、拳を、夜明け色の空に突き上げた。
「進捗――百ォォォ!!」
夜明け色の空の下、二十万人の歓声が、それに応えた。壇上では二人の王が固い握手を交わし、姉妹が抱き合い、老いた水先案内人が膝をついて泣き、群青の法服が空を見上げていた。俺は懐中時計の蓋を閉じ、報告書の下書きの頭の中の頁に、一行だけ記した。所要、九十日。うち、条文が八十九日ぶん。最後の十三分だけが――魔法だった。
大陸初の「破れない和平」は、こうして、戦争が始まる前に、戦争を終わらせて、成立した。
*
――後始末の話を、少しだけ。
受理の夜は、そのまま大陸最大の祭になった。夜明け色の空の下、東も西もなくなった広場で、人々は朝まで踊り、歌い、泣き、食った。ヴァルガのパンの在庫は一夜で空になり、支店長代理は嬉しい悲鳴で本店へ追加発注の飛竜便を飛ばした。
まず、精算である。日当は約束通り破格だった。そこから帰路の船賃が引かれ、さらに「誓約法廷・傍聴席損耗修繕費」なる請求書が回ってきた。七日間の審問が空前の超満員で、三十年物の長椅子と手すりが軒並み傷んだ費用を、慣例により「審問を白熱させた当事者」が持つのだそうだ。理不尽である。差し引きの手取りは、うちの相場通り、実に慎ましい額になった。なお『黎明』で夜明け色に染まった広場の敷石は、元に戻らないことが判明したが、こちらは弁償どころか「夜明け広場」として観光名所になり、メルヴィナ商会支店が早速、案内業を始めた。世の中の帳尻は、よく分からない。
出航の日、桟橋は、賑やかだった。
ジグの救難団は、両国公認の「海峡救難隊」として、正式に発足した。初代隊長は、別れ際、レーヴェに向かって、何かを無造作に放って寄越した。受け取ると、それは大陸名産の、上等な砥石だった。
「決闘の続きの、貸しの利子だ。……次に来る時は、依頼じゃなく、飯で来い」
「いいよ。泣かせない話ならね」
「善処する」
セレンは、和平法術士――大陸で初めて生まれた役職だ――として、ポルトネラに残る。彼女は俺に、封をした手紙を一通、手渡した。
「文通の、第一信です。……返事は、船の上で書いてください。読むのは、着いてからにします」
「気の早い文通だな」
「几帳面と言ってください」
船上で開けた手紙の本文は、和平宣誓書の運用細則についての、実に堅実な相談だった。ただ、追伸が、一行。
『追伸。次の書式論争は、そちらの大陸で。』
バウ爺の軍需ギルドは、「海峡防災ギルド」に看板を掛け替え、救難隊の兵站を一手に引き受けることになった。ポポは支店の荷運び主任(昇進した)として残り、貯めたパン代で、いつか故郷の山に「風のパン屋・山の支店」を出すのが夢だそうだ。夢の話をする土竜の目は、輝いていた。
フィンは、出航の銅鑼が鳴っても、桟橋の端まで追いすがってきた。
「弟子にしてください!! 詠唱を、あなたの、誰の許しも要らない魔法を、僕に教えてください!!」
「ふ……いいだろう!」船縁から、ミラベルが胸を張った。「入門を許す! まずは基本の、十一分の正座からだ!」
「詠唱と正座、関係あります!?」
「精神修養だ! あと私が偉い気分になる!」
「本音が出てる!!」
神童は、遠ざかる船に向かって、桟橋の端で本当に正座をして、見えなくなるまで、そうしていた。次に来る時、彼はきっと、もっと厄介な弟子になっている。
そして船は、海峡に入った。
灯台の下を通る時、俺たちは全員、甲板に出ていた。白い壁は、まだうっすらと夜明けの色を残している。回廊に、人影が――二つ、あった。潮灼けした灯台守と、その隣に、供も連れずに立つ、北の老王。聞けば、王位は近くギレンに譲り、その後は「通いの客」として、月に一度と言わず灯台に足を運ぶ心づもりらしい。姉妹の方は、女王が「三十年分の姉孝行」と称して、灯台に押しかける算段を立てているとか。
二つの人影が、通り過ぎる船に向かって、旗を、二振りした。
良い航海を。
*
帰りの船室で、エルシーが便箋を出して、宛名だけを書いて――『ユーリスさん』――それから、ペンを置いて、便箋を、そっと鞄に仕舞った。
「書かないのですか」と俺が聞くと、彼女は、窓の外の西の水平線を見て、微笑んだ。
「ええ。……直接、話しますので」
ミラベルの手帳の最後の頁には、几帳面な字で、こう記されていたという。
『黎明・進捗100。所要、十三分〇〇秒。
備考。大陸に、夜明けを一つ、置いてきた。
次の目標――』
次の目標の欄は、また、白紙だった。それでいいのだと思う。あの白紙が埋まる日、また誰かの夜が、明けるのだろうから。
俺は、と言えば。船室の机で、依頼の完了報告書を仕上げていた。あの、潮の匂いのした依頼書への、返事だ。備考欄には、一行だけ書いた。
『戦争は、始まる前に、終わりました。以上』
書き終えた報告書からは、行きの依頼書と同じ、潮の匂いがした。悪くない匂いだった。
――うちは、日銭専門だ。海のこちら側でも、向こう側でも。
次の依頼は、西の水平線の、その先で待っている。
(第二部・新大陸編 完)
第二部・本編、完結です。後日談十話ののち、10月18日より第三部が始まります。




