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第35話 13分の黎明

前回:「第34話 三十年目の再会」

壇上に立った真紅の魔女を、両国の民が、怪訝な顔で見上げた。触れ役が、俺の書いた口上を読み上げる。


「これより! 西大陸の大魔導ミラベル様による、和平祝祷の大魔法――『黎明』の詠唱を、執り行います! 詠唱時間、十三分! 繰り返します、十三分! 途中退場は自由! ただし、最後まで聞いた方だけが、大陸初の魔法の目撃者になれます!」


 口上の最後の一文は、俺の営業文句である。人は「帰るな」では残らないが、「残った者だけが見られる」なら、残るのだ。


「「「じゅ、十三分!?」」」


 広場が、ざわめいた。この大陸の魔法は、一瞬だ。十三分の詠唱など、誰も聞いたことがない。「見世物か」「こんな時に」――ざわめきが険を帯びかけた、その時。ざわめきを裂いて、最前列に駆け出した白い法服があった。


「静かに!!」


 フィンだった。神童は、広場中に届く声で、叫んだ。


「僕は精霊魔導院のフィン! この人の詠唱を笑った、大馬鹿者だ! だから僕が言う――この人の魔法は、誰の許しも要らない、自前の魔法だ! そして今朝、僕はそれに命を救われた! ……聞け! 待て! この人の十三分は――待つ価値がある!!」


 言い切って、彼はその場に、なぜか正座した。応援の作法を知らない神童なりの、全力の敬意らしかった。魔導院の権威が全力で保証し、全力で正座した。広場のざわめきは、当惑のまま、しかし、静まった。


「『――久遠の闇の底より、最初の光は生まれ落ち』」


 詠唱が、始まった。第一節の声が広場を渡った瞬間、上空の精霊たちの光が、さざ波のように揺れたのが、俺の位置からも見えた。聞いている。精霊も、この詠唱を、聞いている。


 ミラベルの声は、広場の隅々まで、不思議なほどよく通った。『終焉』と違い、『黎明』の詠唱は、世界の初めの物語だった。最初の光が生まれ、最初の海が満ち、最初の岸辺に、最初の波が届く。誰も憎んでおらず、誰も憎まれていなかった頃の、世界の話。聞いているだけで、胸のどこかの古い場所が開くような、そういう言葉の連なりだった。そして俺は、いつもの持ち場についた。実況である。


「経過一分! 詠唱、順調! 皆さん、楽な姿勢でどうぞ! 長丁場です!」


「経過三分! 詠唱はまだ、世界の初めの海のくだり!」


 実況は、俺の三年来の持ち場だが、今夜のは勝手が違った。戦場の実況は「あと何秒守れ」の号令だ。今夜のは「あとどれだけ一緒に待つか」の道標だった。だから俺は、経過だけでなく、中身も添えた。「今の一節は、最初の船の話! この大陸の皆さんの、ご先祖の話です!」。詠唱の物語に、聴衆の相槌が生まれ始めた。


 最初の数分、広場は、ただ戸惑って聞いていた。だが、五分を過ぎた頃から、空気が、変わり始めた。


 待つ、というのは、不思議な行為だ。同じものを待つ人間は、隣の人間と、同じ側に立つ。憎むには相手が要るが、待つには、隣が要る。ミラベルの長い長い詠唱は、二十万人の「敵」を、二十万人の「隣」に、一分ごとに編み直していた。


 俺は、実況の合間に、広場を見ていた。救助で濡れたままの鉄の儀仗兵と青の水兵が、並んで敷石に座り込んでいた。北の鍛冶職人が、隣の南の漁師に、無言で水筒を回した。漁師は一口飲んで、驚いた顔をした。多分、北の火酒だ。それから、にっと笑って、もう一口飲んだ。子供が親の袖を引き、「ねえ、まだ?」と囁き、親が「しっ。……待つんだよ」と囁き返す。待つことが、東と西に分かれていた広場の、初めての共同作業になっていた。


 ドナ議長は議長で、抜かりがなかった。詠唱五分の時点で屋台に手配を回し、「待ち時間のお供に」と温かい茶を、東西の区別なく配らせ始めた。茶碗が回るたび、隣同士の会話が、ぽつり、ぽつりと生まれる。「長いな」「長いね」「……あんた、北の人かい」「そうだが」「そうかい。……茶、もう一杯いるかい」。三十年の氷は、そういう温度で解けるものらしい。


「経過七分! まだ夜明け前のくだり!」


「七分だってー!」最前列の正座から、フィンが振り返って進捗を復唱する。「あと六分! ここからが長いんだ、詠唱は! 知らないけど!」


 知らないのに保証する神童に、広場のあちこちで、初めての笑いが起きた。北側でも、南側でも、同じ拍子で。笑いというのは、拍子の合った瞬間に、隣と同じ側になる。三十年の線の上を、小さな笑いが、何度も跨いだ。


 壇の脇では、バウ爺が、あの遺言予約三百件の従軍書記ギルドの老書記と、並んで座っていた。二人が何を話したかは知らない。ただ、老書記が懐から遺言書の綴りを出し、バウ爺が頷き、二人してそれを、静かに膝に伏せたのは見えた。使われない遺言書ほど、上等な紙はない。


 その頃、群衆のどこかで、誰かが小さく、歌を口ずさみ始めた。詠唱の律動に合わせた、古い子守唄だった。北の老婆が歌い出したその旋律に――西側の、南の老爺が、はっと顔を上げた。同じ歌だった。歌詞の訛りが違うだけの、同じ子守唄。三十年の分断より、ずっと古い時代から、両方の岸で歌われてきた歌が、待ち時間の広場に、細く、低く、広がっていった。二つの訛りは、途中から、直そうともせずに、混ざったまま歌われた。


 そして、九分を過ぎた時。北側の一角から、堪えかねたような怒声が、詠唱を裂いた。


「――姫様が生きてたからって!! 死んだ連中は、帰らんぞ!! 国境で死んだ、うちの倅は……名前も、何も残らんまま……っ」


 空気が、固まった。詠唱者は、止まらない。止まれない。応えたのは、群青の法服だった。セレンが、声の主の前へ、まっすぐに歩いて行った。


「――帰りません。誰も。……ですから、和平宣誓書には、追悼章があります。第四十二条。三十年間の、国境の小競り合いを含む全ての死者の氏名を、身分の別なく、両国共同の名簿に記録し――毎年、この広場で、読み上げます。名のつかない死者は、今日で、最後です」


 彼女は、深く頭を下げた。


「起草者として、お約束します。……お子さんの、お名前を。教えていただけますか」


 拳を振り上げていた父親は、その拳を、ゆっくりと下ろした。


「……載せて、くれるのか。倅の名前を」


「名簿の、一番最初に」


 父親は、顔を覆って、膝から、敷石に座り込んだ。周りの北の民が、その肩を支えた。支える手の中に、いつの間にか、南の漁師の手も、混ざっていた。名のつかない死者のための条文を書いた娘は、名のつかないまま死んだ父の分まで、深く、頭を下げ続けていた。


「十分、経過ォ!」


 十分。広場は、もう別の場所になっていた。東と西の線は、座り込む人々と、回される水筒と、混ざった子守唄の下に、埋もれて見えなくなっていた。空を見上げると、精霊たちの光が、昨日よりずっと、低い。手を伸ばせば届きそうな高さで、二十万人の頭上に、天蓋のように広がっていた。


「十一分、経過ォ!」俺は、喉の限界で叫んだ。「十二分! ――最終節に、入るぞ!!」


 ミラベルの足元の魔法陣は、もはや広場全体を覆っていた。真紅のローブが、臨界の魔力の燐光をまとって、はためく。詠唱は、世界の初めの物語を語り終え、最後の一節へ。


 彼女は、大きく息を吸い、両手を、夜空へ掲げた。


「――進捗、九十九パーセント!!」

次回「第36話 受理」は、10月7日(水)18時30分更新です。

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