第34話 三十年目の再会
前回:「第33話 私は、生きています」
老王は、杖を突かなかった。
壇までの二十歩を、彼は三十年ぶんゆっくりと、しかし一度も止まらずに歩いた。群衆は、息をすることも忘れて、その二十歩を見守った。ギレンが反射的に付き従おうとして、足を止めた。あの二十歩は、誰にも供のできない道だと、気づいたのだろう。
二十歩の間、老王が何を数えていたのかを、俺は知らない。月に一度の窓なら、三百六十回。未開封の手紙なら、一通。空の椅子の晩餐なら、一万回。……三十年の勘定は、人によって単位が違う。ただ、あの背中が一歩ごとに、王の背中から、ただの男の背中に戻っていくのだけは、誰の目にも見えた。
二人は、壇の上で、向き合った。六十三歳の花婿と、五十二歳の花嫁が。三十年前に整えられた婚礼の間は、海の向こうの城で、今も時を止めたままだ。だが、時の止まった部屋の主たちは、時の流れた顔で、ここにいた。それでいいのだと思う。婚礼の続きではなく、別の何かの始まりとして。
最初に口を開いたのは、ドルンだった。掠れて、それでも、まっすぐな声だった。
「……部屋を、残しておいた」
詫びでも、恨み言でもなく、それが第一声だった。三十年ぶんの言葉の在庫から、あの人が選んだのは、事実の報告だった。鉄の国の男の、精一杯の。
「……存じています」
セラフィナは、静かに頷いた。
「灯台から、見えておりましたので。海峡の一番高いところからは、北の岸も、南の岸も、見えるのです。北の崖の上の城に、月に一度、夜更けにひとつだけ、灯りの点る窓があるのを。……あの窓が開く夜は、灯台の灯りを、少しだけ、強くしておりました。届いていたかは、分かりませんが」
「――届いておった」
老王の声が、初めて、揺れた。
「あの光は、他の夜より、強かった。儂は三十年、あれを……儂の目の錯覚だと、思うことにしておった。錯覚でも、よかった。あれを見るために、窓を開けておったのだ」
三十年。海峡を挟んで、月に一度。開く窓と、強くなる灯り。誰にも知られず交わされ続けた、それが二人の、三十年分の文通だった。手紙より遅く、手紙より確かな。広場の誰かが、堪えきれずに嗚咽を漏らした。北側からだったか、南側からだったか。もう、区別がつかなかった。
セラフィナが、深く、頭を下げた。
「……申し訳、ありませんでした。三十年。あなたを、待たせ――いいえ。待たせたのではありませんね。私は、あなたに、喪に服させ続けました。生きていながら。あなたの国にも、私の国にも、あなたの三十年にも……償いようの、ない」
「顔を、上げてくれ」
老王の声は、静かだった。責める色は、最初から最後まで、一度もなかった。三十年、憎む相手のいない喪に服してきた男は、憎み方を、とうに忘れてしまっていたのかもしれない。
ドルンは、彼女の前に、老いた手を差し出した。握手の形だった。恋人の手の取り方では、なかった。三十年は、二人を恋人のままにしておくには、長すぎた。けれど。
「よく……生きていてくれた。儂の三十年は、それだけで、報われた。悼むべき人が、生きておった。これに勝る結末を、儂は知らん。……老けたな、お互いに」
「……ええ。お互いに」
二人は、握手をして、それから、少しだけ、笑った。
握手を解く前に、老王は懐から、古びた一通の手紙を取り出した。色褪せたリボンの束から抜いてきたのだろう、封蝋が、そのままの。輿入れの十日前の消印。三十年、開けられなかった、最後の一通。
「……読まずにおった。読めば、それが最後の一通になるでの。だが、もう、要らぬ理屈だな。最後ではのうなった」
彼はその場で封を切り、老眼の腕を伸ばして、短く目を走らせ、それから、初めて、声を立てて笑った。セラフィナが覗き込み、耳まで赤くなって、手紙を取り上げようとした。中身は、二人だけのものだ。誰も聞かなかったし、この記録にも書かない。ただ、三十年前の手紙が、三十年遅れの返事を、直接口で受け取ったことだけ、記しておく。壇の下で、ミレイユ女王が壇を駆け上がり、姉の頬を、平手で一度、ぱん、と打った。
「――三十年分です」
平手の音は、広場の隅まで届いた。誰も、女王を咎めなかった。あの一打を打つ権利が妹にあることを、二十万人の全員が知っていた。
そして、そのまま、抱きついた。
「……っ、残りの、三十年分……っ」
姉妹の嗚咽が、広場に響いた。妹は姉の肩口に顔を埋めたまま、くぐもった声で三十年分の文句を並べ立てた。泳ぎを教えたくせに。嵐の日ほど灯りをって言ったくせに。自分が灯りになってるなんて、聞いてない。……姉は、妹の背中を、昔と同じ手つきで、ゆっくり叩いていた。波が怖くない叩き方、というのだそうだ。後日、女王本人が教えてくれた。
堤防での前借りを使い果たしていたはずのレーヴェが、俺の隣で、盛大に決壊した。まとめてやる、の日が来たらしい。ミラベルが黙って手拭いを差し出し、自分も目元を拭った。
*
やがて、儀は、宣誓へと進んだ。
二十歩の再会と、姉妹の抱擁と、開かれた最後の手紙。壇の上の三十年が、ひとつずつ、結末を受け取っていくのを、広場は見届けた。あとは、紙の上の手続きだけ――のはずだった。
壇上の卓に、連名起草の和平宣誓書が広げられ、ドルンとミレイユが、両国の民の前で、順に調印した。三十年ぶりに同じ紙に並んだ、二つの国の王印。広場が、拍手と、それからおずおずとした歓声に包まれ――
――そして、それきり、だった。
拍手が、まばらなまま、細っていった。歓声が、行き場をなくして、萎んだ。何かが起きるはずの間が、何も起きないまま、延びていく。
宣誓書は、光らなかった。空の高みに集まった精霊たちは、確かに昨日より低い。だが、降りては、こない。ベッシが宣誓書の上でぴょこぴょこと跳ね、空を見上げ、申し訳なさそうに、襞をしぼませた。
群衆の中の、正直な呟きが、聞こえた。
「……頭では、分かったんだ。分かったんだよ。でもよ……じゃあ、うちの倅の三十年は。俺のこの、胸ん中の三十年は、どこに置けばいいんだ」
真実は、揃った。王は、誓った。それでも、三十年は、まだ広場の敷石の上に、行き場なく漂っていた。壇上の四人が――二人の王と、二人の生き残りが、途方に暮れたように、光らない宣誓書を見下ろしていた。セレンが、俺の隣で、悔しそうに唇を噛んだ。
「受理まで、あと一歩。……人の心は、条文より、切り替えに時間が要る」
「ああ。時間が要る。――なら、時間をやればいい」
俺の後ろで、待ちかねたように、真紅のローブが、ばさりと翻った。
「ふ、ふふ……ようやく、ようやくだね。書式も、真実も、涙も出揃って、最後に残ったのが『みんなで待つ時間』だっていうなら――」
ミラベルが、壇への階段に、足をかけた。振り返って、俺に、片手を差し出す。
「時間、頼んだよ。監督官」
「任された。……三年前と、同じ台詞だな」
「三年前と違うのは」真紅の魔女は、にやりと笑った。「今夜は、失敗のしようがないってこと。『黎明』はね、聞く者が答えてくれなきゃ完成しない魔法。つまり最悪でも、失敗の責任は私一人のものじゃない。二十万人と割り勘だ」
「割り勘の帳簿は、俺がつけといてやる」
「――私の、出番だね」
次回「第35話 13分の黎明」は、10月6日(火)18時30分更新です。




