第29話 バウ爺の決断
前回:「第28話 灯台の夜」
◆記録係、リドに戻る。
北へ帰ったはずのバウ爺は、ポルトネラに留まっていた。当然といえば当然だ。審問の帰趨には、軍需ギルドの命運が懸かっている。彼は連日、傍聴席の最後列で、審理を眺めていた。同じ席、同じ姿勢で。ただ、日を追うごとに、その目が変わっていくのが、壇上からも分かった。初日は商人の目だった。三日目には、当事者の目になっていた。
誰を連れて行くかは、三日、考えた。説得の布陣は、書式より難しい。理屈で動く相手なら俺一人でいい。だがバウ爺は、理屈なら三十年分、自前で持っている。要るのは、理屈の外の顔ぶれだ。彼の三十年を「商売仲間」として知る男と、彼の証言で三十年が終わる側の、次の世代と。
審問五日目の休廷後、俺はその最後列に、三人で会いに行った。俺と、ジグと、ギレン王太子。
この面子を揃えるのには、根回しが二日かかった。ジグは一つ返事だった(「爺さんに借りが山ほどある。取り立てられる前に返す主義だ」)。ちなみに彼の団では前日、看板の掛け替えを巡る全団投票が行われていた。結果、賛成二百四十一、反対三十九、棄権二十。反対票の大半は古参で、ジグは反対票の全員と、一晩かけて差しで飲んだという。「反対した奴の飯も、頭の責任だ」。翌朝、反対派の頭目格が言ったそうだ。「……分かった。ただし団の名前は変えるな。ロダンの名前で、人を救え」。満場一致より、上等な決着だと思う。
ギレンは一晩考えて、翌朝、自分から宿に来た。「調停者殿。貴殿の言った『海の側』の意味が、ようやく分かった気がする。……同行しよう。ただし、王太子としてではなく、あの演説の数字を数えた男として、だ」。この三人が並んで歩くだけで法廷中がざわついたが、構ってはいられない。
ギルドの借りている商館の一室で、俺は口火を切った。
「単刀直入に言います。ヨエルさん。あなたが三十年前の当夜、あの船の水先案内人だったことは――水先案内人組合の名簿と、あなたの来歴の照合で、立証できる。これは公開記録からの事実で、あの夜の『秘匿』とは関係ない。……中身は聞きません。ただ、大潮の日、証言台に立ってほしい」
バウ爺は、しばらく黙って、窓の外の港を見ていた。港では、金鱗号の親戚みたいな商船が、荷を積んでいた。三十年、この男が儲けの窓からしか見てこなかった海が、そこにあった。
「……立てば、どうなる。三十年、嘘をついてきた男の証言だ。信じてもらえたとして、次の瞬間、儂は『十五人を死なせた操船者』として、両国の恨みの受け皿になる。三十年遅れの、生贄よ」
「なりません。和平案の第二十四条――真実和解条項。真実解明のための証言者は、両国いずれの法でも訴追されない。俺が書いて、審理でもう通した。あんたの証言台の足元には、もう、床が張ってある」
「……法は、な。だが人の心に、条文は効かんよ、若いの。それにな、儂が立てば、ギルドはどうなる。うちの帳簿にゃ、職人と隊商と船主、千からの家族がぶら下がっとる。三十年の嘘つきの店だと知れて、看板が保つか」
「保たせます。ギルドの転換計画も、書いてあります」俺は二冊目の綴りを卓に置いた。「軍需ギルドから、復興・救難資材ギルドへ。和平後の需要一覧、取引先の当て、移行の工程表。ロダン戦団の時と、同じ理屈です。あんたの千の家族は、和平の側でも、食っていける。……三十年前のあんたには、嘘の代わりの選択肢がなかった。今のあんたには、ある。それを作るのが、俺の仕事だったので」
「……あんた、儂が首を縦に振る前から、これを」
「窓口の流儀です。書類は、要る日の前に、揃えておくものなので」
そこで、大男が一歩、前に出た。
「バウの爺さんよ。あんた、昔、儂に言ったな」
ジグだった。彼の戦団は長年、ギルドの隊商の護衛を請けてきた。二人は、二十年来の商売仲間だった。
「駆け出しの儂が、戦で食う稼業を恥じてた頃だ。あんたは言った。『戦は商売だ。恥じるな。恥じる暇に、部下を食わせろ』とな。……儂はあの言葉で、二十年やってきた。で、報告に来た。儂は看板を、掛け替えることにしたよ。戦で食った男が、救けで食い直す。うちの若いのが先に始めちまってな、頭が追いかける格好で、格好はつかんが」
ジグは、にっと笑った。
「――遅すぎるってことは、ねえんだとよ。爺さん。あんたに教わった商売の度胸で、あんたに言いに来た。掛け替えるなら、今だ」
バウ爺の目が、揺れた。とどめを刺したのは、王太子だった。ギレンは椅子には座らず、立ったまま、老人に深く頭を下げた。王族が、商人に。
「ヨエル殿。私は先日まで、開戦の演説をしていた男だ。理由は一つ。犯人のいない葬式を、終わらせたかった。……だが、あなたが立つなら、話は変わる。私が欲しかったのは、最初から犯人ではない。結末だ。三十年の宙吊りを終わらせる道が、戦の他にあるのなら――あなたの一言が、最短だ。どうか」
長い、長い沈黙だった。バウ爺は、懐から何かを出した。あの日の、炊き出しのパンの包み紙だった。皺くちゃのそれを、彼はずっと、捨てずに持っていた。
「……子供にな、言われたんだ。『これ食べたら、仲直りだよ』と。……三十年、儂は誰とも仲直りできんかった。一番できんかったのは、あの夜の、儂自身とよ」
彼は顔を上げた。老獪な商人の顔でも、悲劇の生き残りの顔でもない、ただの、疲れて、そして決めた男の顔だった。
「――聖女さんを、呼んでくれ。第三条だ。儂の口から、申し出る。あの夜の封を……解いてくれ。三十年、掛けっぱなしの錠だ。錆びとらんといいがな」
「錆びません。うちの契約の錠は、手入れがいいので」
部屋を出る時、バウ爺はジグの肩を、節くれだった手で一つ叩いた。「……看板の掛け替え、儂のギルドが一番の得意先になってやるわい。救難資材、まとめて卸す。掛け値なしでな」。二十年来の商売仲間の、これが手打ちの作法だった。ギレンには、深く一礼した。王族の辞儀に、商人の辞儀で。
その夜、宿の一室で、解除の儀が行われた。バウ爺は椅子に座り、三十年前の夜と同じ姿勢――舵の横に立つ男の、あの背筋で、正面を向いていた。エルシーが祈りの言葉を唱え、ベッシが契約書の上の自分の体印に、そっと触れる。淡い光の割り印が、すう、と紙から浮き上がって、ほどけて、消えた。三十年と、七日ぶんの封が、解けた瞬間だった。
儀式のあと、バウ爺は、エルシーに深く頭を下げた。
「聖女さんよ。……妙な話だがな、あの晩、あんたの店の敷居をまたいだ時から、儂の中で何かが、証言台の方へ歩き出しとった気がするわい。封をしてもらったから、開ける勇気が湧いた。……あんたの店は、そういう店だ」
「ええ。そういう店です」
聖女は、それはそれは良い顔で、胸を張った。
解除の儀を終えた夜更け、俺は一人で、和平宣誓書の証言者の欄に、一行を書き加えた。『証人・ヨエル(元水先案内人)』。空欄がもう一行分、残っていた。埋まるかどうかは、灯台の上の人が決めることだ。俺は空欄のまま、余白を広めに、取っておいた。
――そして、審問最終日の朝。
誓約庁に登庁したセレンの机の上に、一通の手紙が置かれていた。上質でも何でもない、灯台の備品らしき粗い紙。差出人の名は、こうあった。
『灯台守 シア』
次回「第30話 セレン、筆を置く」は、10月1日(木)18時30分更新です。




