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第30話 セレン、筆を置く

前回:「第29話 バウ爺の決断」

最終日の朝のポルトネラは、街ごと、息を詰めていた。市場の店は半分が休みを貼り出し、水路の舟は法廷の方角へ人を運び続け、鈴の音だけが、ひっきりなしに鳴っていた。三十年の答えが今日出ると、街の全員が知っていた。


 審問最終日の誓約法廷は、開廷前から、異様な熱気に包まれていた。瓦版は「本日、大陸の運命決す」と刷り、賭け屋のオッズは五分と五分。傍聴席には両国の使節が顔を揃え、最後列にはバウ爺が、いつもと同じ席に、いつもと違う顔で座っていた。


 開廷の鐘が鳴り、首席判事が最終弁論を促した。先手は、開戦宣誓案。セレンが、立った。


 彼女は演壇に書類を置き――そして、開かなかった。


 法廷が、ざわめく。銀縁の法術士は、まっすぐに前を見て、静かに言った。


「最終弁論の前に、申し上げます。――誓約庁筆頭法術士セレンは、開戦宣誓案を、取り下げます」


 法廷が、爆発した。判事が槌を三度打って、ようやく静まった喧騒の中で、彼女は理由の陳述を続けた。声は、一度も揺れなかった。彼女は生涯で一番重い書類を、いつもの、条文を耳で追える朗読で、読み上げた。


「取り下げの理由を、陳述します。本法廷の記録に、一言一句、残していただきたい。私の三年の起草が、なぜ、どこで、覆ったのかを。……後世の起草者のための、教材として。


 私は、定義された戦争こそが、この三十年を終わらせる唯一の結末だと信じてきました。その確信の土台は、一つの前提です。――『三十年前の真実は、永遠に藪の中である』という前提。真実が出ないのなら、せめて終わりを定義するしかない、と。……昨夜、その前提が、崩れました」


 彼女は、傍聴席の最後列を見た。


「あの夜の真実を、自らの意志で語る用意のある証人が――現れたからです」


 どよめきの中、最後列で、老人がゆっくりと立ち上がった。バウ爺は、法廷中の視線を浴びながら、しわがれた、しかしよく通る声で言った。


「軍需ギルド長ヨエル。三十年前のあの夜、儂は、あの船の舵の横におった。……大潮の日、両国王と、両国の民の前で、すべてを証言する。今日この場で言うのは、一言だけだ。――あの夜の海に、悪人は、一人もおらなんだ」


 法廷は、水を打ったようになった。天秤の上の古精霊が、羽を、一度だけ、ゆっくりと畳んだ。傾きは、なかった。一片も。古い梟は、三十年ぶんの真実の重さを量って、それが本心であることを、満場に無言で保証したのだった。


 判事たちの評議は短かった。勧告――『和平宣誓案の審理を継続し、両国王に対し、大潮の日の調印を要請する』。読み上げを終えた首席判事は、槌を置き、法廷を見渡して、一言だけ、勧告の外の言葉を足した。


「――八十年生きて、開戦の宣誓は三度、見た。和平の宣誓は、今日が初めてになるやもしれん。……儂は長生きの甲斐を、初めて、条文に感じておるよ」


 老判事の砕けた一言に、張り詰めていた法廷が、初めて、笑いとも吐息ともつかない音で緩んだ。


 *


 閉廷後の書庫で、対照表の残務を片付けていると、セレンが向かいの席に、静かに座った。彼女は手紙を一通、卓の上に置いた。粗い紙の、あの手紙だった。


「……読んでいただいて、構いません。あなたには、その資格があると思うので」


 手紙は、短かった。


『セレン殿。

 三十年前の出港の朝、緊張で手の震えていた花嫁に、「規則ですので」という顔で手続きを一つ増やし、その間に白湯を運ばせてくれた、若い書記官がいました。優しさに、手続きの顔をさせる人でした。私は彼の名を、三十年、覚えています。

 マルク殿は、誰も殺していません。あの夜の海に、人の罪は一つもなかった。それを余すことなく証明できる者は、あの船に乗っていた私だけです。

 大潮の日、私は、広場に立ちます。

 三十年、遅くなりました。 ――灯台守 シア』


 俺が顔を上げると、セレンは眼鏡を外して、目元を、指先で一度だけ拭った。それから何事もなかったように掛け直し、いつもの声で言った。


「……敵は、いなかったのですね。最初から。私が二十年かけて設計してきた宣誓書は、いもしない敵のための、完璧な檻でした。父を殺した曖昧に、私は戦争の定義で復讐するつもりだった。……復讐の相手が、蒸発してしまった。真実に。――法術士として、より良い書式に敗れました。完敗です」


「敗れた、じゃない」


 俺は、首を振った。


「あんたの四十二条。戦没者記録条項。……あれを読んだ夜から、俺の和平案には、追悼と記録の章が入ってる。名のつかない死者を二度と出さない、というあんたの三十年がなければ、俺の対案は、ただの取引の紙で終わってた。だから、これは敗北じゃない。……セレンさん。和平宣誓書、共同起草にしないか。あんたの四十二条ごと、正面から」


 セレンは、長いこと、俺を見た。銀縁の奥の目が、何かの計算を三回くらいやり直すのが分かった。それから彼女は、羽ペンを取り、和平宣誓案の表紙の起草者欄――俺の名前の隣に、定規で引いたような手蹟で、自分の名を書いた。


 連名。この大陸で、これ以上の返事は、たぶん、ない。書き終えた彼女は、表紙を眺めて、ぽつりと言った。「……父の名も、いつか、何かの書類の連名に、戻してあげたかった」。戻せる。第二十四条の先に、マルク書記官の名誉回復の手続きが、もう設計してある。それを言うのは、大潮の日の後に取っておいた。約束は、果たせる目処が立ってから口にする。窓口の流儀である。


「……第二十一条の別紙に、まだ三箇所、朱を入れます。今夜中に」


「望むところだ。火鉢の三歩手前で待ってる」


 その夜の共同作業は、これまでで一番、静かで、一番速かった。彼女の朱と俺の朱が、同じ頁の同じ行を、別々の理由で直そうとしてぶつかること三回。三回とも、彼女の案の方が短く、俺の案の方が読みやすく、採ったのは三回とも、第三の折衷案だった。共同起草というのは、つまり、こういうことの千回の繰り返しである。千回ぶつかれる相手は、千人にひとりも、いない。


 作業の終わり、彼女がふと言った。「……父が生きていたら、今夜の書庫を、覗きに来たと思います。手続きの顔をして、白湯か何かを、運ばせて」。だろうな、と俺は思った。いい書記官というのは、そういう夜を、見逃さないものだ。


 *


 法廷前の賭け屋は、その日、店じまいをした。「引き分け・共同起草」の珍配当が的中し、払い戻しで首が回らなくなったのである。買っていたのは、市場の婆さん連中だったという。「あの二人、書類の喧嘩しながら、茶ぁの好みが同じだったろ。ああいうのは、喧嘩にならないんだよ」とのこと。街の観察眼、恐るべし。


 両王への調印要請の使者が、その日のうちに、北と南へ発った。ギレンが自ら北への使者に立ち、南へはドナ議長が船を出した。ギレンは出立の間際、馬上から俺に言った。「棚の品揃え、確かに検分した。……悪くない。伯父上には、私から話す。空の椅子の主の話を、あの人が三十年、誰にも聞けずにいた話を――甥の私が、聞きに行く」。検品の男は、最後に一番重い品を、自分で背負っていった。


 そしてその夜、エルシーは、五通目の手紙を書いた。今回は、宛名を書いてから、少し長いこと、その二文字を見つめていた。


『ユーリスさん


 大潮の日に、すべてが決まります。

 良い報せを持って、帰ります。


 ……宛名を、書き間違えました。

 でも、書き直しません。』


 ――大潮の日まで、あと七日。


(第5章・了 →最終章「大潮の日」へ続く)

次回「第31話 調印前夜の空白」は、10月2日(金)18時30分更新です。

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